その二ヶ月後、信は章介と瑞貴の家にお邪魔していた。
都内の高級住宅街にあるマンションの一室だ。
落籍料の支払いのため、いいところは借りられなかったと言っていたが、中流家庭出身の信から見れば十分に豪華なマンションだった。
多分瑞貴の言ういいところ、とはタワーマンションとかをいうのだろう。
アイボリーの上品な外壁の三階建ての建物は、一室一室が広い造りで、生垣に囲まれていた。
その三階東の部屋に二人は住んでいた。
内装は瑞貴が手がけたらしく温かみと清潔感がある明るい雰囲気で、リビングには大理石のテーブルと毛足の長いクリーム色のソファがある。
三人はそこでくつろいでいた。
卓上将棋盤を挟んで向かい合わせに座る信と章介を、そばで瑞貴が眺めている。
その決着がようやくつこうとしていた。
「ふーむ……」
唸りながらパチリパチリと駒を盤上に置いた章介に、信は降参した。
打つ手なしの詰み盤面だった。
「負けました」
「ありがとうございました」
すると相手は満足げな表情をして、腕組みを解いた。
「章ちゃんの勝ち? すごーい。やっぱ強いね」
横から対局を見守っていた瑞貴は飛び上がって後ろから章介に抱きついた。
章介は微妙な顔をしていたが、おとなしくしていた。
人前で触れ合うのが好きではないのだろう。
「ねえ、プロになれるよ」
「無理だ。そういうレベルじゃない」
「そうだって! 僕アマチュアでこんなに強いひと見たことない」
「知らないだけだ。おれ程度の人なら山といる。信、感想戦やるか?」
「いや、今回はいいかな。そろそろお茶にしない?」
章介と二人だけならじっくり対局を見直すところだが、今日は瑞貴がいる。
「いいね。しーちゃん、僕最近めっちゃいいカフェを発掘したんだよ。そこで仕入れてきた紅茶、飲まない?」
「いいねえ。何ていうお店?」
「『アトリエ・ラガー』ってとこ。この辺にあったらしいんだけど気づかなくて、最近発見したんだ」
「聞いたことないな……。個人のお店?」
「多分」
二人が会話している間に、章介はさっさと駒と将棋盤を片付け、お気に入りの場所――暖炉のそばの一人がけソファに座って地図を広げ、何やらノートに色々書きつけ始めた。
時折そばに置いたラップトップも確認している。どうやらまた登山計画を立てているようだった。
章介は玉東を出たのち、早速山岳同好会に入ってせっせと山に登っている。とにかく週末といえばどこかの山に行っていた。
だから週末の今日、家にいるのは珍しい。
「オーナーさんが自分で仕入れにいってるらしいよ。こっちではすごく珍しいのもいくつかあって、それも買ってみたんだけど」
「いい香りだねえ」
「でしょー?」
インドから直輸入したらしい茶葉は、今まで飲んだどんな紅茶とも違う香りがした。
「相変わらずいい嗅覚してるね」
「ありがとー。じゃあワッフル出してくれる? いつもありがとね」
信は指示された通り手土産で持ってきたクリームサンドワッフルを冷蔵庫から出した。
かなりの甘党の瑞貴は、スイーツを差し入れると喜ぶ。
「おぉー、めっちゃ種類あるじゃん。キャラメルオレンジ、あんこ、ストロベリーカスタード、あとこの緑のは……?」
「ピスタチオ。好きじゃなかった?」
「めっちゃ好き! ありがとー!」
このところ仕事でずいぶん忙しそうだった瑞貴を労いたくて買ってきたが、ずいぶん喜んでもらえたようだ。店頭で悩んだ甲斐があったな、と思う。
瑞貴が紅茶を淹れ終わると、信は皿に盛ったワッフルを持って一緒にリビングに移動した。
その片隅では章介が難しい顔をして地図とにらめっこをしていたが、瑞貴が声をかけると顔を上げた。
「章ちゃん、お茶にしよー」
章介は名残惜しげに地図を見たが、やがて立ち上がってテーブルの方に来た。
大理石のピカピカの楕円形のテーブルに載せられた菓子と紅茶とは、まるで雑誌の撮影に使われるセットのようだった。
そして、カップもソーサーもロイヤルコペンハーゲン。
いい器で飲むとよりおいしくなるな、と思いながら、信はカップに口をつけた。
そして一口二口味わってカップをソーサーに置き、口を開く。
「最近忙しそうだね。仕事順調?」
「ありがたいことに忙しくさせてもらってるよー。今店頭販売も始めたからその辺りでいろいろ手続きとかしてる感じかなー」
大学時代にインターネットで輸入医薬品や化粧品の販売事業を興し、成功している瑞貴は現在事業拡大中だった。
「しーちゃんは? 事務所で、どう?」
「うん。最近だいぶ慣れてきたかな。今は一段落して、皆落ち着いてるよ。来月からはまた主意書の準備しなきゃだけど」
「そっかあ。がんばってるんだね。でもすごいよね、あの古賀議員に見初められるなんて」
「うーん、期待に応えられているかどうかはわからないけどね……」
そこでそれまで黙ってお茶をすすっていた章介がおもむろに口を開いた。
「……おれはあまり賛成できない。なぜ今更あの古狸と関わらなきゃならない?」
「うん、まあいろいろあってね」
「どうせまた森のくだらない『ゲーム』だろ? そんなの拒否すればいい。信のことをなんだと思ってるんだ」
「まあ仕方ないよ。そういう取り決めで落籍(ひい)てもらったし」
章介は憤懣やるかたないといったいかにも不服そうな表情で、紅茶をグビッと飲んだ。
「それにしてもやりすぎだろう。他にもやり方があるはずだ」
章介は変わらず友達想いで情に厚かった。
こういう性格に、人間不信に陥っていた頃、何度救われたか。
「ホントだよねえ。しーちゃんならあんな人いなくたって十分やれるのに」
「ふふ、ありがとう。まあこっちの方が手っ取り早いんだろうね」
「でもせっかく店も辞めたのに……」
瑞貴が言わんとしているのは、古賀に気に入られるにはそれなりの代価がいるのではないか、つまり好きでもないのに古賀と寝なければならないのではないか、ということだった。
こういうことを気にかけてくれるあたり、瑞貴は本当に優しい。
「瑞貴君は優しいね。でも大丈夫だよ。慣れてるし」
すると、章介があからさまに顔をしかめた。
「なんだよそれ」
そして苛立ったように席を立ってリビングを出て行ってしまう。
まもなく玄関の扉が開閉する音が聞こえた。
外に出てしまったらしい。
「行っちゃったね……」
リビングの扉を見ながら瑞貴が気まずそうに言う。
「何かごめんね」
「いやいや全然。しーちゃんが謝ることじゃないよ。ただ章ちゃんは心配なんだよ」
「うん……それはわかる。章介はああいうのダメだから。でも私はなんというか……それでもやりたいんだ。あの店を告発して潰したい。あそこで何が行われているかを世間に知らしめたい。そのためにやってることなんだ。それに、先生のことも嫌いじゃないし」
すると、瑞貴が驚いたように目を見張った。
「そっか……。すごいね。そういうふうにできるなんて、しーちゃん本当にすごいよ。僕だったらできないと思う。だってそれをしたら……」
「そうだね、過去は全部知られるだろうね。だけど恥じることなんてない。恥じるべきは店側の人間や客たちだろ? それに、現状を放置した警察組織」
「確かに。そうだよね、泣き寝入りなんておかしい。しーちゃんは無理矢理連れていかれて……。でも気をつけてね。玉東関連で色々変な話も聞くし」
白銀楼のバックには長谷川会という大きな暴力団がいる。
そして玉東の過半数の店がその傘下であり、それが今まであそこが野放しにされていた理由の一つでもあった。
玉東での人身取引や売買春を暴こうとした記者や政治家がこれまで何人も死亡しているのだ。
今のところそういう気配はないが、それは信が古賀の庇護を受けているからだろう。
古賀は、日本社会中枢の裏にも表にも精通している政界の重鎮だった。
「うん、気をつけるよ。でも章介怒らせちゃったなあ」
「頭冷えたら戻ってくるよ。そうだ、長谷さんってどんな人なの?」
長谷とは佑磨のことだ。
「うん、思った以上にすごい人だよ。仕事のスピードが半端じゃなくてね……あっという間に全部片付くんだ。いろいろ教えてくれるし、すごく助かってる」
それに厚木問題も解決してくれたし、と心の中で付け加えた。
信が現在バイトに行っている古賀事務所の公設秘書、厚木は当初から信を警戒していた。
よからぬ意図で入ってきたのではないかと勘繰り、何かと当たりが強かったのだ。
嫌味は日常茶飯事で、ひとりで処理するのは到底無理な量の仕事を押し付けられることもしばしばだった。
しかし、佑磨の登場で形勢は逆転した。
彗星のごとく現れた元官僚は、信じられないスピードで信に課された仕事を片付け(しかも信の手柄にして)、相手に無言のプレッシャーをかけ続けたのだ。
同時に信の出自を知っている者たちに、それとなく信の留学時代の写真とか(合成)、留学時代のエピソードとか(ウソ)を見せたり聞かせたりすることで、玉東にいたのは信によく似た赤の他人だと信じ込ませることに成功した。
これによって、厚木以外の職員からの心証は抜群に良くなり、信をイビる厚木の方が孤立するようになったのである。
これを佑磨は本当に巧みにやり、信の事務所での居場所を確保してくれた。
この手腕には驚かされると同時に若干恐怖も感じたが、佑磨の言っていた「情報操作など造作もない」という言葉の意味がわかった気がした。
佑磨は本当に頭の切れる戦略家だった。
「へえ、そうなんだぁ」
「本当に優秀な人ってこうなんだなぁって、初めてわかった気がするよ」
佑磨の脅威の集中力と処理スピードを頭に思い浮かべながらそう言うと、瑞貴は頬杖をついた。
「何か章ちゃんは相当警戒してるみたいだったけどなぁ。ロクな奴じゃないって」
「まあ章介からしたらそうかもね。でも話したこともないはずだけど」
「じゃあ一回会わせてみたら? そしたら誤解も解けるかもしれないし」
「そうだね。それがいいかも」
「僕の方から言ってあげるよ。ちょっと最近忙しいからその場には立ち会えないかもしれないけど」
「大丈夫。じゃあお願いできる? 助かるよ」
瑞貴の申し出はありがたかった。
章介は一度怒らせると長いのだ。
「お安い御用〜。あと言っとくね。あ、ねえねえ、ハイラルの新作ファンデ出たの知ってる? 今使ってるんだけど」
「あ、何か違う気がしてた」
「でしょでしょー? 肌にめっちゃ馴染むよ。パールってやつ」
ハイラルは有名化粧ブランドだ。
瑞貴は女装するタイプではないが、肌のケアには気を遣っているようだった。
「いい感じに肌明るくなるね。使ってみようかなあ」
「隈もめっちゃ綺麗に消えるよ。いやー、ずっと悩んで色々試してたんだけどさぁ、なかなかいいのがなくて。でもこれマジですごい!」
「そうなんだー。私も最近肌荒れ気味でさぁ、食事とかは気をつけてるんだけどなかなかよくならなくて」
「あ、だったらマジでおすすめ。しーちゃんはあんましないだろうけど、化粧のりもいいんだよ」
「へえ。やっぱハイラルってことかー」
二人はその後、章介が帰ってくるまでお茶を飲みながらコスメ談義を続けたのだった。