2-8

二週間後ーー。

 佑磨は信の家に呼ばれ、彼の友人だという男と会っていた。
 調べによれば、この友人は鶴見章介といい、白銀楼時代の信の友人だった。
 信と同じく傾城の経験があり、その生い立ちは壮絶である。
 両親にネグレクトされて飢え死にしかけていたところを母方の祖母に引き取られ、祖母の死後、両親に売春窟に売られた。
 このような人生を送った者は通常攻撃的か厭世的になり、多くの場合何らかの依存症あるいは精神疾患を持つようになる。
 だが、彼はそのどれでもなかった。
 やってきた佑磨に立ち上がってあいさつをしたのは、背筋をしっかり伸ばした威風堂々たる男だった。

「いつも信が世話になってます。鶴見章介です。今日は呼び出してすみません」

 まっすぐにこちらを見つめる眼差しは強く、しっかりしている。
 顔立ちは、少々武骨だが整っていて、時代劇の役者のようだった。同性からは決して歓迎されないタイプの男だ。

「いえ、私もお会いしたかったのでタイミングよかったです。長谷佑磨と申します。よろしくお願いします」
「さ、二人とも座って」

 二人の間に位置どった信に促され、ソファに腰かける。テーブルには淹れたてのコーヒーと緑茶、そして鶴見が差し入れとして持ってきたどら焼きが並んでいた。

「いきなりですみません」

 謝った相手に、佑磨は言った。

「いいえ、私もお話ししたいと思っておりました。おふたりはずいぶん長いんですか?」
「八年になります」
「そうなんですね」
「単刀直入に聞かせてもらいますが、信が古賀先生の事務所に入ることになった経緯を教えてもらえますか?」
「そもそものきっかけは森さんの提案だったんですが――」

 佑磨はことの経緯を離しながら、相手を観察した。それほどあからさまではないが、相手は友好的ではない。目や口調でわかるのだ。
 ひと通り経緯の説明を聞いた章介は、思案するような素振りをしてから聞いた。

「……森さんが始めたことというのは本当ですか?」
「そうです」
「長谷さんはどういった経緯で森さんのところに?」

 隠しきれない不信感が滲んだ目で問われ、佑磨は鶴見の本当の意図を知った。彼はこれを聞きに来たのだ。
 そしておそらく、信がゲームに乗ることに賛成ではない。

「私はたまたまお声がけ頂いて置いていただいているという感じです」
「……その前はどちらに?」
「省庁におりました」
「なぜ辞めたんですか?」
「少し体調を崩しまして」
「……なるほど」

 だんだん空気が緊迫してくる。

「失礼ですが、古賀先生とは昔からのお知り合いですか?」
「そうですね。役人時代は何度かレクなどやらせて頂きました」
「食事に行くこともありますか?」
「まあ、お付き合いがありますから」

 相当に疑われているらしい。
 尋問の様相を帯びてきた鶴見の物言いを諫めるように、ここで信が口を開いた。

「まあ、いいじゃない、先生のことはもう……」
「先生と個人的に会うことはありますか?」

 鶴見は信の仲裁を見事に無視して尋問を続けた。
 佑磨はうそをついた方がいいかどうか頭の中でそろばんを弾き、答えを出した。

「ごくたまに、ですが」
「章介、もう……」
「そこで信の話をしたことがありますか?」
「まあ、共通の知人ですから、ないとはいえないですね」

 鶴見は、朴訥とした雰囲気に反して腹の探り合いに慣れていた。
 決定的なことは言わないが、言わせるようにしむけるやり口――おそらくは玉東時代に培ったものだろう。
 あのあたりは行ったことがあるが、大見世と呼ばれる高級クラブでは政治家の会合も多く、そこで働くキャストは皆対応できるよう教育されていた。
 白銀楼もそういった店だ。鶴見もそこで仕込まれたのだろう。だから舐めてかかると痛い目を見る。
 鶴見は無表情のまま、若干の沈黙ののちに言った。

「自分は、信を昔から知っています。だからある程度は信のことを理解しているつもりです。信は、恩を仇で返すようなことは絶対にしない。だから森さんのいうこともきく。だが、ここまでしろと言うだろうかと疑問なんです。他のやり方だってあるはずだ。……あなたが焚き付けたんじゃないですか?」
「章介、もうそろそろ……」

 章介は信の制止を無視し、席から立ちあがって、信が着ていたシャツをいきなりめくりあげた、

「ちょっと、何……?」
「っ………」

 露出した脇腹には、長さ10センチほどの古傷があった。
 だいぶ薄くはなっているが、明らかに刃傷沙汰でついたとわかる異様なそれに、佑磨は目を奪われた。
 傷跡を凝視する佑磨に、鶴見が言う。

「これは、店にいた頃に客につけられた傷です。本気になった客が思い余って行動に出ました。そして、普段ならそんなミスは――危険人物に気づかずにいるようなことはなかった信がそんなことになったのは、病気だった友人のために働いて過労状態だったからです。信はあの頃、本当にあの仕事を嫌っていた。自分の意思であそこにいたんじゃないんだからそれも当然だ。だが、体調を崩した友人のために支配人と取り引きをして、休ませる代わりに自分が働いた。朝から晩まで休みなく。そして客に刺された。あの時は本当に危険な状態だった……。近くに病院がなければ死んでいただろうと思います。信はこういう男です」

 章介はそこでシャツを直し、その場に立ったまま佑磨を見おろした。
 その威圧感に佑磨は思わず身を引いた。

「人のためなら何でもする。それはあなたもわかっているはずだ」
「………」
「俺には、それを利用しようとしているようにしか見えない。自分は、もう信を危険な目に遭わせたくありません。信には政治家や官僚の客が大勢いた。弱みを握られていると思いこんでいる奴も少なからずいるでしょう。信がもし表舞台に出てきたら、やつらはどうすると思いますか? 信が無事でいられると?」
「その点に関してはしっかりと対策を練ってゆくつもりです」

 鶴見は目を細め、鋭い口調で言った。

「何か起きてからでは遅いんですよ。とにかく、その『ゲーム』とやらを一刻も早くやめていただきたい」
「それは私の一存では……」
「そうですか?」
「ええ……」
「章介、座って……」

 天野が鶴見の袖を引いたが、彼はそれをまた無視した。

「ではなぜ議員を目指せと言ったんですか。森はそこまで考えていなかったはずだ」

 鶴見はもう森に敬称も付けなかった。

「森さんは『いけるところまで』とおっしゃいました。その意味は明白かと思いますが。それに信さんも賛成してくれた。世の中を変えたい、と」

 信は困ったような顔で仁王立ちになった友人を何とか着席させていた。
 鶴見は座りはしたが、佑磨を挑戦的に見て強い口調で言った。

「変えたいのならばあなたがやればいい」

 相手はこの時点でかなり怒っていた。
 無表情だった顔がこわばり、口調は怒気をはらんでいる。割と直情的なタイプのようだった。

「ご存じのように政界では地盤がものを言います。私にはそれがない」
「信にはあると?」
「はい」

 佑磨は頷いた。

「古賀先生の後継になれる可能性があります」

 その言葉に、鶴見は一層腹を立てたようだった。怒りのために顔が紅潮している。
 彼は、噛みしめた歯のすき間から唸るような声で言った。

「知っているはずだ」
「………?」
「そのために信が何をしなければならないか、あなたは知っているはずだ」
「………はい」

 鶴見は再び立ち上がって叫んだ。

「自分が死ぬほど嫌だったことを、人にはやらせるのかっ!?」
「章介っ!」

 その瞬間、頭を殴られたような衝撃を受けた。どうやってその情報を入手したのかは知らないが、鶴見は佑磨の過去を知っていた。そして正論を言っていた。
 佑磨は信に枕営業をさせようと――いや既にさせている。そして、信がそのことによって精神的ダメージを受けるとは思っていなかった。
 だって彼は、元々そういう仕事の人だったから。
 そういう世界で生きてきたから。

「アンタ、それでも人間かっ! 信が何も感じないとでも思ってんのかっ」
「もう帰れっ」

 信が立ちあがって、思った以上の力で鶴見を玄関へと引きずっていった。
 引きずられながらも振り返って鶴見が叫ぶ。

「アンタが目指す理想がどれだけ高尚だろうが、おれは認めない。認めないからなっ!」

 鶴見はそう言い残して家から出ていった。


 静寂が戻った室内で、佑磨は秒針が時を刻む音を聞きながら放心していた。
 鶴見は真実を言っていた。佑磨は紛れもなく信を人身御供にしようとしていたし、そのことに関し、たいした心理的抵抗もなかった。
 鶴見の言うとおり、そういうことは信にとってはたいしたことないだろうと思っていたからだ。
 佑磨は心の中で信をどこか、別世界の人間だと思っていたのだ。
 自覚がなくても、それは紛れもなく差別だった。

 信と知り合って三年余り――彼がどんな経験をしてきたかはある程度知っていた。
 完全に意に反する形で、暴力と脅迫をもってして働かされていたことももちろん聞いていた。それがどんな心理的苦痛をもたらしたかも。
 しかし心のどこかでこうも思っていた――ああいう場所で上り詰めるためには、ある程度そうする意志も必要なのではないか、と。

 信は確かにかなりの美形だ。隣に並びたい男はまずいないだろう。
 しかし、白銀楼くらいの高級クラブともなれば彼程度の美男子は珍しくもなかっただろう。
 その中で抜きんでるためには努力が必要だったのではないか。そして努力をしたということは、ある程度はそこにいることに納得していたのではないか。

 事実、彼は森と関係することにも、古賀と個人的な付き合いをすることにも、あまり抵抗がないように見える。
 それは佑磨からすればありえなかったが、そういうことに抵抗感がないのは、やはり彼が「あちら側」の人間だからではないのか。
 佑磨はこう思っていたのだ。

 しかしよく考えてみれば、確かに鶴見のいうとおり何も感じないということはありえない。
 表に出さないだけで本当は嫌かもしれない。というか嫌だろう。
 だがそれならばなぜ森をうまくあしらわないのか。どうしてもそう思ってしまうのだ。
 ひけらかさないが、信はかなり頭が切れて弁が立つ。森を丸めこむとなど造作もないはずだ。
 それなのにそれをしないのはなぜなのか。そこの部分がずっと引っかかっていた。
 だから、森や古賀に身売りするような立場に、一種納得しているのかと思ってしまっても仕方ない部分もあるだろう。

 しかし、そういう一連の言い訳も、佑磨を死に追いやりかけたことを、すなわち意にそぐわぬ性行為をさせているという絶対的な事実の前にはなにほどのこともない。
 佑磨はまさに「自分が死ぬほど嫌だったことを信にさせている」のだ。どんな弁明の余地もなかった。
 どんな高尚な、正しい目的のためだとしても誰かを犠牲にすることは許されないーーそういう政治の基本さえわからないのか、と言われた気がした。

 もしかしたら、信ひとりの犠牲で、この先生まれる世代を含めると何千万の人間が救われるかもしれない。
 抜本的な財政改革が――本当の意味での財政改革が――なされれば、失われずにすむ幸福と命が無数にあるかもしれない。
 しかし、その無数の幸福のために今ここにいるひとりを犠牲にすることは許されるか。

 官僚時代だったら大局的に見て、多少の犠牲はやむを得ない、と結論付けただろう。
 しかし、生き地獄がいかなるものかを知った今、そんなことは言えなかった。
 計画は中止するしかない。古賀にもその旨伝えて別の方法を考えよう。
 そういうふうに思いを巡らせていると、玄関扉が開く音がして信が帰ってきたのがわかった。
 佑磨が姿勢を正して迎え入れると、申し訳なさそうな顔の相手がリビングに戻ってきた。
 そして開口一番謝った。

「すみません、友人がとんだ失礼を」
「いえ、大丈夫ですよ」
「すぐに頭に血がのぼってしまうタイプなんです。本当にすみません」

 そう言って頭を下げた信に、佑磨は立ち上がって頭を下げ返した。

「こちらこそ、申し訳なかった。あなたの気持ちを考えていませんでした。私は、手を引きます」
「え?」

 驚いたように顔を上げた信に、佑磨は首を垂れたまま続けた。

「私はあなたを利用しようとした。目的はどうあれ、それが事実です。そしてそれは正しいことではなかった……。先ほどご友人がおっしゃったことは……真実です」
「とにかく顔を上げてください」

 困りきったようにそう言って佑磨に顔を上げさせた信は、座りましょう、彼をとソファに誘った。
 そして、足元を見つめている佑磨に茶を勧め、自らも湯呑みに口をつけた。

「さ、お菓子も食べて」

 断る雰囲気でもなく、佑磨はどら焼きをひと口かじった。
 すると不思議と気持ちが落ち着いてくる。
 佑磨はどら焼きを咀嚼し、飲みこんでから再び茶で喉を潤し、深々と息をついた。
 そして、腹を括って口を開いた。

「私は男の上司から行為を強要されていました。それが、仕事を辞めた理由です」

 相手が息を呑むのが雰囲気でわかった。

「そして死のうとした……。それほどに嫌なことだったのに、あなたにそれをさせました。本当に……申し訳なかった」

 信は絶句していた。佑磨は目を伏せたまま続けた。

「言い訳をするつもりは毛頭ない。ただ、私がなぜそこまでしたか、聞いていただけますか?」
「……はい」

 佑磨は唇を舐めて湿らせると、説明を始めた。

「実はこの国は今、かなりのっぴきならない状況に陥っています。実質賃金十年連続低下、上がり続ける貧困率、非正規雇用の拡大によるセーフティネットの破壊……輸出も国内消費も冷え込み、経済が回らなくなっている上、健康保険制度は外資に取り込まれて皆保険制度は崩壊、農家も関税撤廃の貿易協定により毎年多数が破産、水道や電気やガスなどの公共インフラであるべきものも、ほぼ民営化で光熱費は二十年前の約二、五倍です。
 それなのに政府はまだ逆進性の強い消費税を上げようとしています。これではもう国民の半分は食べていけません。日本にあるはずのなかった医療破産がここ数年で激増しているのも恐ろしいことです」
「そうですよね……どこでどう間違ってしまったのか……」

 相槌を打った信に頷いて、佑磨は続けた。

「なぜそうなったか。簡単に言えば新自由主義とグローバル化のせいです。これを推し進めた結果、国民の大半は貧困になりました。現在日本の保険市場を牛耳っている会社も、農業分野で独占している会社も、水道事業を独占している会社も、すべて海外資本の大企業です。日本にその利益が入ることはない。それを知りながら政府はネオリベ政策を採ってきました。政治家も、官僚も国を見ていない……国益を考えず、巨大な海外資本のためだけに動いてきました」

 目を見張って聞き入っている信と、佑磨はここで初めて目を合わせた。

「私は、かつて財務省にいました。主計局という、各省庁の予算編成を担当する部署です。しかしそこは硬直化した組織で……いかに支出を増やさずにすむか、プライマリーバランス黒字化を達成できるか、ということしか考えていなかった。
 これは国民の大半が――政治家でさえも、知らないことですが、実は政府の財政支出を抑えることと国が繁栄することには何の相関関係もないんです。むしろ逆……デフレの状況においては経済を悪化させます。
 それをなぜ財務省が推進しているかというと、それがアメリカの……より正確に言えば多国籍巨大企業や国際金融資本の要求だからです」
「『ヒルズ』とかですか?」

 信が出した外資系大企業の名前に佑磨は頷いた。

「まさにそういうことです。彼らが何をしたいかといえば、各国の公共事業を民営化して独占したいわけです。農業も、水道も、医療も。莫大なマーケットですからね。
 だから貿易協定を使って次々市場を開放させてきた。それが二十一世紀になる前――中曽根政権からの大きな流れです。国民の生活を企業に売るようなことをずっとしてきたわけです。
 それを止めるのが本来は政府や省庁の役目なのですが、今はほぼ機能していません。国益ではなく巨大企業の利益のために動く派閥が主流派となってしまっているのです」

 すると信が遠慮がちに言った。

「私もネオリベには反対ですが……」
「本来はそういう企業体を抑制すべきなのです。しかし今の財務省は完全に経団連や海外資本の多国籍企業のお抱え組織になっています。水面下でこれに対抗しようとしている官僚も実は結構いるのですが、表立っては動けない。そんなことをすればすぐに左遷されますから。
 だからこの状況を打破するには、やはり政治主導でやっていただくしかない。古賀先生にはお会いしたことがあるのですが、そのことをよくよくわかっている方でした。もちろん、表立ってそんなことを言うことはありませんが」

 佑磨は静かに、自分の思いを語った。

「海千山千という感じの方ですよね」
「先生なら……そして、先生に目をかけられているあなたなら、その流れに一石投じられると思った。それにあなたは、人の心の痛みがよくわかっている方だ……。色々な経験をされて、そういうものがよくわかってらっしゃる。その上で賢くしたたか……一緒に住んでみて確信しました。あなたは政治をするべき人だ、と。あなたのような人が現れるのを待っていたのだと、自覚しました」
「………」
「才気煥発で思想があり、柳のように折れることがない……それに何より、古賀先生の寵を受けている。国を変えられると、思いました。それで欲が出た。あなたへの配慮も忘れて突っ走ってしまったんです」

 するとそこで相槌を打つだけだった信が口を開いた。

「私は……私も、ずっと世の中を変えたいと思ってきました。でもそれは政治ではなく芸術で変わると思ってきたんです。現実逃避も入っていたのかもしれません。現実があまりにも酷いから……。でも佑磨さんは本気で、現実を変えたいと思ってらっしゃるんですね」
「……はい。あと五年霞ヶ関で踏ん張れれば、ある程度のことができた……できるように人脈も築いていた。でも、できなかったんです。私にはできなかった……。セクハラに耐えられなかったんです……」

 佑磨は拳を握りしめ、俯いた。

「それでもう死のうと思って、山に行きました。そこで、翔太郎さんと出会って、その命、捨てるくらいならくれと言われて……。だからもうずっと、私は死んでるんですよ。体が動いているだけ……。
 一生このままでいいと、思っていた。でもあなたが現れて、私はもう一度生きてみようかと思った……。ずっとやりたかったことにもう一度挑戦してみようかと」

 佑磨は絞りだすように言った。すると、信は膝で握られた手にそっと自分の手を重ねた。

「生きられますよ。人はいつからでも」
「ッ………でも、そのために信さんに同じ苦痛を味わわせていた……私は、間違っていました」

 そう言ってうなだれると、信は彼の手をぎゅっと握った。

「佑磨さん、やりましょう」

 その言葉に思わず顔を上げると、真剣な表情の相手がこちらをじっと見つめていた。

「何かすごく希望が湧いてきました。私も、生きてみようかな。ただ息をしているだけじゃなくて、ちゃんと目的をもって。
 何かある時点でいろいろ諦めちゃったんですよね。人間も世の中もしょうもない、だからわざわざかかわるだけの労力もムダだなって、そんなふうに思って、意図的に周りを変えようとしないで生きてきました。
 想像の世界に引きこもって、現実世界とのかかわりを断っていた。玉東にいたときはそうするしかなかったし、そういう割り切り方ができなければ精神を病んでいただろうと思います。
 でも今は違う。自由を手にして、やりたいことは何でもできる。社会に何か貢献すべきときなのだと思います」
「しかし……それには……」

 すると信は意味ありげな表情をしたのち、言った。

「あのですね、実は今はそういった関係ではないんです。先生はあまり健康状態がよくなくて……」
「……機能不全だと?」

 信じられない思いで聞くと、信はためらいがちに頷いた。

「出会った頃はそんなことなかったんですが、最近ご多忙のようで」

 古賀が性的機能不全。驚いたが、珍しい話ではなかった。
 会食が多い政治家に健康問題はつきものだ。佑磨自身も官僚時代にそういう人たちを多く見てきた。
 糖尿病などの慢性病は勃起不全を誘発することがあるのだ。

「ですから、ご心配は無用です。お会いしても本当にお酌するだけなので」
「しかし、もし……」
「先生が復活したら、そのときまた考えましょう」

 信はそう冗談めかして笑ってみせた。
 佑磨はその笑顔に自然、自分の口角が上がるのを感じた。

「まあいずれ先生なしでもやっていけるようになります。……でも長い闘いになりますよ、最低でも二十年はかかる。それくらいのスパンの話です。それでも、やりますか?」
「はい」
「ありがとうございます……本当に」

 佑磨はそう言って、差し出された信の手を握り返した。
 そして、何があってもこの人についていこう、と誓ったのだった。