5-7

 光の中で、サムエーレは目を覚ました。
 庭に面した大きなフランス窓から朝日が差し込み、室内は淡い光で包まれている。
 見回すと、自分の部屋だった。
 柔らかな天蓋付きベッドのそばには本の入った本棚、その上にはお気に入りのムーミンのぬいぐるみがある。
 部屋の反対側にはふかふかの絨毯がしいてあって、レゴブロックとかモノレールの模型とか、好きなおもちゃが沢山ある。隅にはこの間部屋の中でキャンプごっこをしたときに使ったテントもあった。
 サムエーレは布団から抜け出すとパジャマのままそのテントの中に潜り込んだ。
 隠れて兄を驚かせたかったからだ。
 だがその瞬間に頬に激痛が走った。

「いたい! いたい、いたいよぉ、おにいちゃん」

 頬は腫れあがり、熱を持ってズキズキと痛んだ。
 サムエーレはぐずぐずと泣きながら部屋を出て、屋敷にいる兄を呼んだ。

「おにいちゃん、ルカおにぃちゃーん!」

 すると廊下の向こうから兄が姿を現した。
 ジャケットは来ていないがもうスーツに着替えているから仕事なのかもしれない。
 兄は血相を変えて近付いてきた。

「どうした?」
「ほっぺたがいたいの。いたいよぉ」
「冷やし足りなかったか。サム、ごめんな。昨日の夜冷やし足りなかったみたいだ。今冷やすもの持ってくるから部屋で待ってろ」
「ぐすっ、うん、わかった」
「すぐ治してやるからな」

 兄はそう言ってサムエーレの髪を撫でると一階に降りていった。
 サムエーレは涙をパジャマの袖口で拭いながら自分の部屋に戻ってベッドにうずくまった。
 そして両手で頬を押さえながら今か今かと兄の到着を待つ。
 まもなくしてドアが開く音がした。

「サミー、持ってきたよ。すぐよくなるからなー」

 そうしてベッドまでやってくると、横になっていたサムエーレの頬に氷嚢を当て、そばに座った。
 兄の体重でベッドが沈み込む。
 氷嚢はひんやり冷たくて気持ちよかった。
 それでだいぶ痛みが引いたので、サムエーレは泣くのをやめた。
 そして頬に氷嚢を当ててこちらを見下ろす兄と目を合わせる。

「ぼく、またおにわでころんじゃった」
「そうだな。でもすぐよくなるよ」
「うん。おにいちゃん今日もおしごと?」
「うん。だけど少し遅れて行くよ。お前が落ち着いたら行く」

 その言葉に自然笑顔になる。
 サムエーレはにこにこしながら言った。

「やったぁ! いっしょにあそぼ!」
「顔冷やしてご飯食べてからな」
「うん! じゃあご本よんで」

 そう言って近くの本棚を指すと兄は頷いた。

「何がいい?」
「ムーミン」
「じゃあこれ持って。自分で押さえられるか?」
「うん」

 兄は氷嚢から手を離し、腰を上げて本を取った。

「えーと、どこまで読んだかな。ああここか」

 そしてしおりの位置に指を差し入れて本を開くと読み始めた。
 サムエーレが最近はまっているシリーズの話だ。
 兄は毎晩読みきかせをしてくれるので、既にシリーズ三作目に入っていた。
 穏やかな低い声を聞いているうちに痛みも気持ちも落ち着いてくる。
 やがてサムエーレは起き上がった。

「落ち着いたか?」
「うん。おなかすいた」
「じゃあ朝ご飯持ってくるから着替えなさい。今日は部屋で食べよう」
「うん」

 サムエーレは兄を見送り、氷嚢をベッドに置いて着替え出した。
 サムエーレは不注意でよく怪我をするが、兄はそのたびこうして看病してくれる。それがとても嬉しかった。
 なるべく怪我はしたくないが、兄がこうして一緒にいてくれるなら悪くない。
 基本忙しい兄はあまり家にいることがなかった。きっと一生懸命働いているのだろう。
 着替え終わって氷嚢片手にソファで待っていると、まもなく兄が食事を持って戻ってきた。
 そうして目の前のテーブルにお盆を置く。
 そこには大好きなメープルがけのワッフルとフルーツ、そして牛乳が載っていた。
 おまけにワッフルにはバニラアイスまでついている。

「わあ! ワッフルだぁ!」

 歓声を上げると向かいに座りつつ兄が苦笑した。

「今日は特別な。痛いの我慢したご褒美」
「やったやったー! いただきます!」

 サムエーレは氷嚢を放り出してワッフルにかぶりついた。甘くてとても美味しい。
 その美味しさに痛みも吹っ飛んだ。

「おいしい!」
「よかったな」
「おにいちゃんにもあげる。はい、あーん」

 ワッフルをひとかけ切ってフォークで刺して差し出すと、兄は身を乗り出してそれを食べた。

「美味いな」
「もう一口いる?」
「いやいいよ。俺はもう朝飯食ったから」

 断られて内心ほっとする。本当は自分で食べたかったからだ。
 サムエーレはそれ以上勧めずに残りのワッフルを平らげた。
 すると、向かいで新聞を読んでいた兄がベストのポケットから何かを取り出す。
 その容器を見てサムエーレは顔を顰めた。
 気にすることなく兄がそれを差し出す。

「薬飲もう」
「嫌だ」
「飲まないと痛みよくならないぞ。お前が好きなイチゴ味にしたから。ほら飲んで」

 そう言われて渋々薬を受け取り鼻を摘んで飲む。
 兄はいつもシロップに溶かしてくれるが、それでも敏感なのか薬の苦味を感じて苦手だった。
 全部飲むと兄が褒めてくれる。

「偉い偉い。じゃあ何して遊ぶ?」
「うーんとねぇ、これ」

 サムエーレは立ち上がって部屋のおもちゃコーナーへ行き、イルカとクマのぬいぐるみを手に取った。
 鹿のカルロとクマのジェラルドだ。
 ジェラルドを兄に手渡し、サムエーレは言った。

「ジェラルド、これからもりでしゅうかいがあるんだ」
「誰が来るんだい?」
「みんなくるよ。リスの一家も、タヌキもキツネもトラもみんなくるよ。でもしょうたいじょうがいるんだけどもってる?」
「なくしちゃったみたいだ。一緒に探してくれる?」
「いいよ。きみの家は〜どこだっけ?」
「森の東の洞穴の中だよ。案内しよう」
「よし急ごう!」

 ジェラルドとカルロはジェラルドの家に行き、部屋中を探した。
 するとテーブルの下に落ちているのをカルロが見つけた。

「あったよ、しょうたいじょう!」
「ありがとう! じゃあ集会に行こうか」
「うん!」

 そうして森の集会所に行く途中で不意に兄の携帯電話が鳴った。
 現実に引き戻されたサムエーレが見ると、兄はぬいぐるみを持ったまま電話に出た。
 そして低い声でやり取りをする。

「もしもし……ああ、そうだ、うちにいる。………今は無理だ、俺の手が空かない。……駄目だ。俺がやるという取り決めだ、他の者は手出しするな。……わかってる、ちゃんとやる。………ああ、わかった。なるべく早くだな。ああ……じゃあな」

 兄は険しい顔で電話を切った。それで仕事の電話だとわかる。
 サムエーレはしょんぼりと言った。

「もうおしごと行くの?」
「そうだな、そろそろ……」
「そっか。いってらっしゃい」

 そう言って頬にキスすると、兄は表情を和らげてサムエーレの髪をくしゃくしゃとかき混ぜた。

「なるべく早く帰る。もうすぐカーラが来るからいい子にしてるんだぞ。また怪我をすると危ないから今日は部屋の中にいなさい」
「はーい」
「じゃあ行ってくる」

 兄はそう言うとぬいぐるみを置き、立ち上がって部屋を出て行った。
 それと入れ替わるように乳母のカーラがやってくる。
 兄がいないときによく遊んでくれるおばちゃんだ。
 カーラは微笑みを浮かべてサムエーレのそばに腰を下ろした。

「坊ちゃま、おはようございます」
「おはよー。はい、カーラはこれ」

 そう言ってリスのぬいぐるみを手渡し、サムエーレはごっこ遊びを再開した。
 そうしてその日一日、カーラと思う存分遊んだのだった。

 ◇

 それから三日間、サムエーレは毎日楽しく過ごした。
 特別な朝ごはんを貰って、ぬいぐるみやブロックで遊んで、お昼を食べてお昼寝して、好きなアニメを観て、帰ってきた兄と夕食を食べ、読み聞かせをしてもらいながら眠る。
 また怪我をするといけないので部屋からは出ないように言われていて、かくれんぼや鬼ごっこはできなかったし、庭のツリーハウスにも行けなかったけれど、いつもよりも兄が沢山家にいたのでとても幸せだった。
 だけど、楽しい時間は永遠には続かない。その日仕事が休みで一日遊んでくれた兄は三日目の夜、少し苦しげな顔でこう言った。

「サミー、ラザロを呼べるか? 少し話したいことがあるんだ。大人の話」
「ラザロ?」
「ああ。大事な話があって」

 ラザロというのはサムエーレの体に一緒に住んでいる友達だ。
 友達とはいっても怖いのであまり話はしないけれど……。

「うん、いいよ」
「ありがとう。今日はとても楽しかったよ。また遊ぼうな。愛してる、サミー」
「ぼくもあいしてるよ、ルカおにいちゃん」
「じゃあ本の続き読もうか」
「うん。今日はいっしょに寝たい」

 そう言うと、兄は本を持ってサムエーレの隣に片肘をついて横になった。
 そうして髪を撫でてくれる。サムエーレは手を伸ばし、その体を抱きしめた。
 兄の体はいつものように温かくて大きかった。
 兄はサムエーレの髪を撫でながら本の続きを読み始めた。
 それを聞いているうち眠くなってくる。
 やがてサムエーレは兄のぬくもりに包まれながら深い眠りに落ちていった。