不意に意識を取り戻したラザロの目に入ったのはクリーム色の天井だった。
自分の家でもロマーノの家でもルカの家でもない、見覚えのない天井。
どこにいるのか確認しようと身を起こそうとしたとき、全身に痛みが走った。
「痛っ――!」
そうしてギプスで固定された腕が目に入った瞬間、すべての記憶を取り戻した。
「クソっ、ルカの奴……」
ラザロは空港でルカに捕まり、そこでシンとの計画がハタケヤマにバレたことを知らされた。
そうして罰としてルカの屋敷の地下室で拷問を受けた。
ルカの拷問は、ラザロがこれまで受けた拷問の中でもきつい部類に入るほど壮絶だった。
骨を折られ、水責めされ、鞭打たれ、あげくに焼き印まで押された。
「チッ、あいつ……」
入院着をはだけ、左胸のガーゼをはがして確認するとやはりそれはあった。
バルドーニ家の紋章が彫られた焼きごてを押し付けられた痕。
だが不思議なことに本来剣が一本あるはずの場所にそれが二本あった。
それも短剣と長剣が直角に置かれている。
この形はーー。
「ルカのやつ、マジでふざけんなよ」
その形は疑いようもなくルカの頭文字・Lだった。要するに奴隷の印だったのだ。
一生ルカに服従するという忠誠の証。
拷問の最中、ルカはしきりに忠誠を誓えと言ってきた。
それを最初は当然拒否した。
どんなに責められてもラザロは首を縦に振らなかったのだ。そんなことはプライドが許さなかったから。
たとえ口先だけでもルカに従う言葉を吐きたくなかった。
なぜなら、ルカはこれまで再三にわたってラザロを虐待し、時に自らの殺し屋として利用してきたクズ野郎だったからだ。
そんな奴に首を垂れるなどまっぴらごめんだった。
その考えが覆ったのは男の急所にナイフの刃を当てられた時だ。
嘘か本当か知らないが、ルカはハタケヤマから切り落とすよう言われた、と言った。
それを聞いた時はさすがのラザロも全身の血の気が引いた。
ソレが無くなるということは男でなくなるということだ。
もう一生誰のことも、シンのことも抱けなくなる。それだけは嫌だった。
だからルカの要求を呑み、プライドを捨てて懇願した。そうして奴隷の証を甘受した。
にもかかわらず約束を反故にしやがったのだ。ラザロの最後の記憶では、ルカのナイフがイチモツに突き刺さっていた。
そのあまりの痛みで失神したのだ。
その後何をされたのかはわからない。だが、もしかしてもう既に処置を……。
「あった!」
恐る恐る手を股間にやると、幸い息子は無事だった。
ガーゼで処置されているが、切り落とされはしなかったようだ。
ラザロは深々と安堵の息を吐き出した。
あんなことをしたルカは許せないが、とりあえず復讐は後回しだ。
それよりも今は怪我を治してシンを助けに行きたい。
そこまで考えて、ラザロは窓の外を見た。
「シン……」
眼下に広がるナポリの街は夕日に染まっている。あれからどのくらいの時間が経ったのか。
シンはもう帰国したのか、したとしてハタケヤマとどういうやり取りをしているのか。
ルカは、シンがラザロを騙し、バルドーニを裏切らせたと言った。
九龍に情報を流すため引き抜く、それができなければ後継者候補を一人潰そうとしたのだと。ショースケの救出依頼もなにもかもすべて計画のうちだったのだ、と。
だが、ラザロは半信半疑だった。シンは愛しているとラザロに言った。一緒に生きてゆきたい、とも。
そのときの目に嘘はなかったと思っている。
シンの言葉を信じたい。例えラザロを騙す計画だったとしても、そこに愛はあったと信じたい。
あの言葉は嘘でなかったと、信じたい。
だからこそ確かめにいく。動けるようになったらすぐにでも。
そのためにどうすべきかを色々思案していると、出入り口の扉が開いて看護師が入ってきた。
そしてラザロが起きたのを確認すると、医師を呼んできた。
担当医の初老の男はラザロに自分の名前や年齢などを聞いた後、カルテに何事かを書き込んだ。
それから今日は何年何月何日かを聞いた。その問いに、最後の記憶をたどって答える。
「二〇三三年……十一月四日」
「九日だね。丸三日寝ていたから。しかし致命傷がなくてよかった。見た目は酷いが治る傷ばかりだ。シニョーレ・ルカは手加減してくれたんだな」
この医師はファミリーと繋がっているらしく、やけに事情に詳しかった。
とすると、ここはファミリー傘下の病院か。だったら正確な場所がわかる。
空港までのルートも。
しかし今日が九日とは。そんなに時間が経っていたとは思わなかった。
ショースケの救出作戦が完了したのが一日深夜だったから、その後一日ぐらいサムエーレが出ていたのかと思ったが、それが三日だったらしい。
だから拷問開始時、空港で殴られたときの傷は治っていたわけだ。
「このクソ忙しいときに……邪魔だな」
「何だい?」
ぼそりと呟くと、医師が聞き返す。それに何でもない、と答え、ラザロは窓の外に目を戻した。
医師の説明では両腕と肋骨の骨折と全身打撲、そして上半身の裂傷で全治三か月とのことだった。
一刻も早く日本に行きたいのは山々だが、こんな状態では行ってもシンを助けられない。
ハタケヤマに取っつかまって嬲り殺されるのがオチだ。
だからとりあえずは体を治さねばなるまい。
そういったことを思って適当に相槌を打っていると、やがて医師と看護師は問診と処置を終えて出ていった。
それから日暮れまでは一人だった。
明かりの灯った街を見ながら色々と考え事をしていると、不意にまた扉が開いた。
看護師が夕食でも持ってきたかとそちらに目をやると、入ってきたルカと目が合った。
「っ、お前っ……」
「起きたようだな。叔父さんも来てるぞ」
そうしてルカに引き続いて入ってきたのは義父のロマーノだった。
その姿に息を呑む。ロマーノとはスコットランドへ向けて出国して以来会っていなかった。
黒いシャツに白いスーツ姿で、白髪をワックスで撫でつけたいつもの出で立ちだ。
だがその目は冷たかった。
蔑むような目に負けずににらみ返すと、ロマーノは低い声で言った。
「ラザロだな?」
「そうだ」
「自分が何をしたかわかっているな? お前はバルドーニを裏切った。たかだか男娼風情のために」
「シンを侮辱するな!」
するとロマーノは唇の端を引き上げて拳を振り上げた。
「いつもながら威勢だけはいいな。これだけ元気なら大丈夫か」
そして躊躇なくラザロの頭を殴りつける。
「ぐあっ!」
「お前はっ、許されないことをした! とんでもないことをしでかしてくれたな! これまで育ててやった恩を忘れたか?!」
「ハッ、育てた? 利用したの間違いだろ?」
「私がどれだけお前に投資してきたか……その恩を仇で返すとは!」
「ぐっ……」
鈍い音と共に再び殴られる。怒りが収まらない様子のロマーノはなおも殴ろうとしたが、ルカがやんわりと諫めた。
「叔父さん、ラザロは全治三か月です」
「っ……!」
ロマーノは憤懣やるかたない表情で拳を下ろして怒鳴った。
「本当は勘当するところだ! お前はそれぐらいのことをした! だが……マウリとサムエーレにその責を負わせるのは酷だ。あの子らは何も悪いことをしていないからな」
「わかんねぇぜ? 頭の中で会議してたかも」
すると、ロマーノはラザロの頬を張った。そして前髪を掴んで顔を仰向かせる。
髪が引きちぎられる痛みにラザロは顔をしかめた。
「ふざけるんじゃない。私にはわかっている。だから……お前を消すことにした」
「……は?」
ロマーノは暗い目でラザロの顔を覗き込んで宣言する。
「『治療』でお前の人格を消す。ドンにはそれで納得してもらった」
「はぁ? 病気のこと言いふらしたのかよ?!」
「そうするしかないだろうが! じゃなきゃお前は死んでいた。一族は裏切り者を許さないからな」
「ふざけんな! そんなことできるはずない。だって俺が本当の俺だ!」
「違う。お前はマウリの交代人格だ。主人はマウリだ」
「違う!」
違う、そんなはずはない、とラザロは首を振る。
全てをコントロールしているのは自分だ。腰抜けのマウリでも、ガキでもない。自分のはずだ。
それを消すなんて許されない。許されるはずがない。
「俺は……! 俺が、あいつらを守ってきたんだぞ! 俺を消したらどうなるかわかってんだろうな! 全員消えるんだよ、ガキもマウリも!」
「じゃあ試してみようじゃないか。お前が本当に必要かどうか」
「許されない、そんなこと許されるはずない!」
だがロマーノは冷酷に言った。
「お前はここで傷の治療と並行して『病気』の治療もしろ。ここから出られるのは両方治ったときだ」
「嫌だ!」
「お前の意見は聞いていない。じゃあ私は戻るよ。ラザロ、またな。もっとももう会うこともないだろうが」
「あっ、ちょっと待てよ!」
だがロマーノはそのまま病室を出て行った。
ルカは、愕然としてロマーノの背を見送るラザロのそばに椅子を持ってきて座った。
そうしてネクタイを緩め、息を吐く。
それに気付いたラザロはそちらに視線を向けて言った。
「お前が仕向けたのか?」
「仕向けたというか、話し合った結果だ。それしかないという結論になった。悪いな」
「ふざけんな! 俺を消すなんて……できるはずない!」
「凄腕の精神科医がいるそうだ。今まで何度も解離性同一性障害の人格統合の治療に成功してきた先生だ。その人が来週から来る」
「嫌だ。ぜってぇ嫌だ」
するとルカは意外にも案じるような表情でこちらを見た。
「俺も……あまり賛成ではないがね。この間治療したせいでマウリの具合が悪くなった。人格統合の治療は両刃の刃だ。だから無理にやると……」
「そうだ、そうだよ。サミーに会えなくなるかもしれねえんだぞ? それでもいいのか?」
「……それは困る」
「だろ? だからお前から止めてくれ。いや延期でもいい。とにかく先に怪我を治させてくれ」
そう頼むと、ルカは逡巡したのち頷いた。
「善処はする。だがあんなことがあった以上ただではファミリーに帰れないぞ。覚悟するんだな」
「わかってるよ。これからはお前のいうことも聞くし、大人しくしてる……。だからその治療だけはやめてくれ」
「……また何か企んでるんじゃないだろうな?」
「そんなわけないだろ。さすがにあのお仕置きは俺でも堪えたよ。シンのことも……諦めた」
ルカは疑わしげな表情でラザロを見たが、それ以上は追及しなかった。
そして話題を変える。
「今回の件、とりあえずは俺と叔父さんで取りなしたが、ファミリーの中にはお前の処遇に納得していない者もいる。命は常に狙われていると思っておけ。病室には警備をつけるが警戒を怠るな。食べ物は、俺の部下が持ってきたもの以外口にするな。いいな?」
「誰が納得していない?」
「俺と叔父さんとドン以外ほぼ全員」
その答えにラザロは思わず噴き出した。
「ははっ、それマジ? 指名手配犯じゃねぇか」
「笑ってる場合か。今襲われたらお前だってひとたまりもないんだから身辺には気をつけろ」
「そうしたのはお前だろ?」
「ああしなければたとえ向こうの策略だろうとことが収まらなかった。それはわかるだろ? 後遺症が残る傷は負わせていないはずだ」
「チンコぶっ刺しといてよく言えるな、サディスト。てめえ嬉々としてやってたじゃねえか。そういう趣味でもあんのか?」
するとルカは無言でギロリとこちらを見、立ち上がって椅子を片付けた。
そしてラザロに背を向けて言う。
「とにかく周囲には注意しろ」
「ははっ、図星? なんだお前もハタケヤマと同類かよ。変態野郎」
ルカはそれには答えず、病室を出てドアをピシャリと閉めた。
室内に静寂が戻る。
とりあえず、精神治療の方は先延ばしにできそうでほっとする。
なんせ前回の治療ではマウリが精神崩壊を起こしかけたのだ。
その治療を『奥』から見ていたラザロも途中で耐えられなくなって意識を閉じた。
それほどに過酷な治療だった。
だからそんなものを今やられたら日本に行くどころではなくなる。
幸い、ルカはこの治療に賛成していないからロマーノに掛け合ってくれるだろう。
それで治療が中止、あるいは延期になって先に体が治ればこっちのものだ。
もうこんな腐った場所にはおさらばしてさっさとハタケヤマの家に殴り込みをかけ、シンを助け出す。
あとは当初の計画通りだ。
隠れ家の場所は知られてしまったから行き先は変更せざるを得ないが、これまで暗殺稼業で世界各地を訪れてきたラザロには他の候補地がいくつもあった。
そちらに変更すればいいだけだ。
ただし、この計画には穴がある。サムエーレの存在だ。
サムエーレはルカを実兄だと思い込んで離れたがらない。この計画を実行しようとすればまず邪魔をしてくる。
だからそのあたりをなんとかしなければならなかった。
ラザロはそんなふうに計画を練りながらその日の消灯時間までを過ごしたのだった。