石造りの地下室は薄暗く、血生臭かった。
奥に檻のある三十平米ほどの部屋の中には醜悪な拷問具が並んでいる。
それらは石壁に掛けられたり、中央のテーブルに置かれたりしていた。
この地下室は、捕らえた者を拷問するために造られた部屋だ。
主に政府筋からの依頼で捕らえた人物や、敵対する組織の人間の口を割らせるために使う。
今回捕まっていたのは、イタリアで縄張り争いをしているカステリーニファミリー末端の構成員だった。
その男は、部屋奥の鉄檻の中で死んだように横たわっている。
意識がないのか、近づいても反応しなかった。
体は傷だらけ、痣だらけで顔は人相が変わるほど腫れ上がっている。
マウリは、隣で恐れ慄くシンにリボルバーを渡すと、牢の鍵を開けた。
そして冷たく言う。
「こいつを撃ち殺せ。それがテストだ」
「なっ……」
「こいつはカステリーニファミリーの奴で、うちに潜入して情報を流してた。親父がだいたいの情報を聞き出したからもう用済みだってさ。何だ、ビビってるわけじゃないよな? 仮にも九龍のメンバーだもんなぁ?」
「むっ、無理です……」
思った通り、シンは殺しの経験がなさそうだった。
よほど大事に育てられた箱入り息子なのか。
「だったら取り引きはなしだ。尻尾巻いて帰るんだな」
「……他の方法は? 何でもします、だからこれだけは……」
懇願する男に、マウリは面白半分で提案した。
「じゃあしゃぶるか?」
「えっ?」
「俺のをしゃぶったら許してやるよ。はっ、無理だよなぁ? お綺麗な議員サマには」
そう煽ってやると、シンは予想の斜め上をゆく反応をした。
リボルバーを床に置き、マウリの足元に跪いたのだ。
そうしてズボンのチャックに手をかける。
「おい、待てって」
「やったら許してくれるんですよね?」
「いやそう言ったけど……冗談だろ? 何本気にしてんだよ。おかしいんじゃねーの、そんな簡単に……」
シンの手を制止しながら言う。
すると相手はまたも予想外の返答をした。
「おかしくないですよ。あなたは美しい。そりゃあどちらかを選べと言われたらこちらを選びますよ」
「っ……ホモ野郎。もういい」
そのやり取りで気の抜けたマウリはカステリーニファミリーの男を牢に戻し、リボルバーを拾い上げた。
そしてシンに背を向け歩き出す。
「あの、テストは?」
「終わりだ。馬鹿馬鹿しい」
「では合格ですか?」
「まぁ仕方ないからやってやるよ。ただし、時間はかかる」
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
そしてマウリは、夕食は七時だ、と言い残し、地下室を出たのだった。
◆
翌日、マウリは日光浴に出かけ、久しぶりに地中海の浜辺を楽しんだ。
しばらく顔を出していなかったからか、ビーチでファミリーの仲間や昔からの知り合いに声をかけられ、世間話に興じてのんびり午後を過ごした。
それからファミリーの溜まり場になっているバーに行って何杯か飲み、家路に就く。
ここ最近はアパートメントで一人暮らしをしていたが、依頼と同時にシンの護衛も命じられていたので自然実家に戻ることになった。
週末にでも必要最低限のものだけ移動させよう、と思いながら門をくぐって帰宅する。
屋敷の階段を上がり、三階のゲストルームの扉をノックをして入ると、シンは机に向かっていた。
マウリに気づくと、シンは立ち上がった。
「おかえりなさい」
「ああ、ただいま……」
「お出かけだったんですね。どちらに?」
「海辺の方。それよりその堅苦しい言葉遣いをやめたら?」
英語でいつまでもサー、サー言ってくる相手にそう言ってやると、シンは言葉遣いを改めた。
「わかった。あ、どうぞ座って。何か飲む?」
「いや、いい」
言われるまま部屋のソファに腰掛けると、シンが頭を下げた。
「改めてになるけど、依頼を受けてくれてどうもありがとう。感謝してる」
「助けたいっていうそいつ……ショウスケだっけ? そいつはお前の……」
「友達だよ。とても大切な」
シンの口ぶりからして相当に大事な相手とわかる。おそらく恋人だろう。
それになぜか落胆している自分に気づく。
「だったら俺にあんなこと言っちゃダメだろ」
「あんなことって?」
「いやだから昨日の……」
「ああ……。いや、ショウスケとはそういう関係じゃないよ。でも不快にさせてしまったならごめん。何かパニックになっちゃって」
そういう関係じゃない? じゃあ本当に文字通りの友人なのか?
「俺も悪かった。追い詰めるようなこと言って。あの分じゃ人に手かけたことないんだろ?」
すると予想通り、シンは頷いた。
「うん、実はそうなんだ。恥ずかしい話なんだけど」
「大事に育てられたんだな」
「うーん、まあね」
これほど魅力的ならばそうなるのも頷ける。シンはこれまでに見たどんな人間よりもマウリを惹きつけた。
それは単純な美しさからではない。
物腰の柔らかさや醸し出すおっとりした雰囲気に強く惹きつけられたのだ。
そばにいるだけでまるで陽だまりの中にいるような温かさに包まれる。
これまで周りにいなかったタイプだった。
「俺とは正反対だ。俺なんか、組織のゴミ処理係だし」
そう言って自嘲気味に笑う。
マウリはドンの甥であるにも関わらず、ファミリーに来た暗殺依頼の処理係と化している。
従兄弟たちが敵対組織との交渉や抗争、銃器密輸の統括などを任されているのに対し、これはかなりの冷遇だった。だが、マウリが養子である以上、この処遇はいた仕方ない。
マウリは八歳のときに義父のロマーノ・バルドーニに引き取られた。実の親にネグレクトされ、ひもじさに耐え切れず家を飛び出したところを偶然ロマーノに拾われたのだ。ロマーノは慈善家で、マウリのような行き場のない子供達を引き取って保護していた。
そのため子供が沢山おり、その子供達はこの本宅とは別の建物に住んでいる。マウリも十二歳まではそこにいた。
だが十三のときに一人だけ本宅に移され、巣立ってゆく他の子供達とは別の、ファミリーの一員になるための教育を受けた。つまりマウリは実質的にロマーノの跡継ぎとなったのだ。
以来、バルドーニファミリーの一員として与えられた仕事をこなしている。
「それだけ信頼されているということだよ」
「そうかあ?」
「うん。そうじゃなきゃ大事な依頼を任せないだろ?」
「……かもな。そういや前に議員だったって聞いたけどマジ?」
シンは日本で政治家をしていたらしかった。
「うん。日本の衆議院で議員してたよ、アラタ・アシヤという名前で」
「ふうん。ヤクザが議員か。まあこっちも似たようなもんだけど」
「そうなんだ」
「でももったいねぇな、辞めるなんて。辞めずに別の奴寄越せばよかったのに」
「うん、そうなんだけどね……」
歯切れの悪い答えに、何かを隠していると直感する。そこでマウリは言った。
「隠してることがあるなら言ってくれ。正確な情報を貰わないと仕事に差し障る」
するとシンは少し躊躇ったのち、聞いた。
「秘密にしてくれる?」
「秘密にできる範囲のことは。仕事に必要なら情報は共有する」
「……わかった。じゃあ、玉東って知ってる?」
「ああ、話だけは。東京の歓楽街だよな?」
マウリはかつて玉東で遊んだと自慢していた知り合いの貴族を思い出した。
玉東は東京の祇園と呼ばれる歓楽街で、ゲイシャガールと遊べると評判だった。
行ったことのある知り合いも多い。
マウリ自身行ったことはなかったが、聞くところによると祇園よりも大っぴらに売買春が行われている場所のようだった。
「うん。実はそこで働いていたんだよね。ショウスケはその頃の友達」
「働いてた? でもあそこって……」
「そう、風俗だ。実態はね」
「なんだ、とんでもない不良息子じゃねえか。ハタケヤマさんも頭抱えたろうな。でもまた何であそこに?」
するとシンは神妙な顔になった。
「実は……コウジさんは本当の父親じゃない。戸籍上は父親だけれど」
コウジというのはハタケヤマの下の名だ。
「……なるほど、そういうことか」
つまりはハタケヤマの愛人というわけだ。
それで銃の扱いに慣れてなかったことも辻褄が合う。
「そう。ショウスケは玉東で働いてた頃の命の恩人みたいな人で、だから助けたいんだ。でも、できたらこれは人には言わないで欲しい」
「わかった」
ハタケヤマに囲われてるんじゃ手を出せないな、とがっかりしながら頷く。
待て、がっかり? なぜ今がっかりした?
もしかして自分は……。
「ありがとう」
「ああ。とりあえず今は友達の居場所探してるところだ。けど結構長丁場にはなりそうだから、気楽に過ごせよ。どっか出かけたい時は言って。連れてくから」
「ありがとう。そうさせてもらうね」
柔らかく微笑む表情に魅入られる。
開け放した窓から入る風が艶やかな黒髪をわずかに揺らしていた。
その髪をふと触りたくなって手を伸ばす。
思った通り柔らかい毛だった。
「?」
不思議そうにこちらを見たシンの後頭部に手を回し、そのまま口付ける。
唇は柔らかく、甘かった。
そして一連の動作は衝動的で、何か考える間もなく行動していた。
「っ……悪い。つい……」
驚いて固まっている相手を解放し、呟くように謝罪する。
黒曜石の瞳がこちらを見つめていた。
「えっと……」
「昨日言ったことは本心?」
「昨日?」
「俺のこと……綺麗とか何とか言っただろ。あれ本心? それとも俺の気を逸らすために言っただけ?」
「正直……嘘ではない。まあ、女性とゲイの九割はそう思うと思うけどね。目がよっぽど悪いとか特殊な趣味とかなければ。白馬の王子様みたいだもん、君。アニメの世界から出てきたみたい」
マウリは金髪碧眼である。そして、世辞が大半だろうが人から容姿について言及されることも多い。シンはそれを王子様と称したのだろう。
もっとも、マッチョ社会のファミリーでこの容姿で得をしたことはほぼないが。
「ふうん……じゃあ、嫌じゃない?」
そう言って再度顔を近づけると、シンはやんわりマウリの体を押し戻した。
「嫌ではない。でもごめん、コウジさんと付き合ってるから」
「バレなきゃいいだろ?」
「そういう問題じゃ……」
「護衛の奴らもいねぇしさ」
シンは護衛を五人連れてきていた。全員日本人の、明らかにその筋とわかる者達だ。
彼らは有事の際、シンを救うためなら一秒も躊躇わずにマウリを殺すだろう。そんな雰囲気だった。
そこでシンが聞く。
「君は、プリンセスはいないの?」
「プリンセス?」
「うん。王子様の隣には必ずプリンセスがいるだろ?」
「いない。そういう相手は」
「そうなんだ」
実際、マウリは体だけの関係の相手さえいなかった。ちゃんとした恋人がいたこともない。
人と深い関係を築いたことがないのだ。
二十六にもなってこんなことは普通ありえないのだが、解離性同一性障害というハンデもあり、今まで経験がなかった。
マウリには人格が三つある。
今意識のある主人格・マウリと、攻撃的なサディスト・ラザロと、子供のサムエーレである。
この三つの中で人格交代がたびたび起きるのだが、精神的不安定がそのきっかけになりがちである。
マウリの場合、なぜかはわからないが昔から人と性的な接触をするのが極度に苦手で、気持ち悪くなる。
そしてその気持ち悪さが耐えられるレベルを超えると意識は消失し、人格交代が起こってしまうのだ。
その時に出てくるのはだいたい凶暴なラザロの方で、相手が気に入らなければ半殺しにしてしまうし、気に入った場合でもマウリから寝取ってしまう。
だから未だそういった経験がないわけだった。
と、ここでマウリは重大な事実に気付いた。
キスをしても人格交代しない。意識ははっきりして自分のままである。
これまでにこんなことはなかった。
いったいこれはなぜなのか。
もしや、病気が治ったのか。
ラザロやサムエーレは消えたのか。
「マウリさん、どうかしたの?」
「えっ? いや何でもない」
「そう……」
ぐるぐると考えていたマウリはシンの声で現実に引き戻された。
そうしてこの機会を逃すべきではないと思う。
キスをしても人格交代が起こらなかった。これがすべてではないのか。シンこそが運命の相手ではないのか。
ハタケヤマなど知ったことか。香港のぽっと出のマフィアなんぞよりバルドーニファミリーの方が遥かに格上だ。
自分の方がシンを守れるし、幸せにできるという確信がある。このチャンスを絶対に逃すべきではない。
マウリは決心し、ソファに再び座った。
そしてシンの目を見つめて言った。
「俺にもチャンスが欲しい。チャンスだけでもくれないか?」
「チャンスって……」
「好きになった。だから俺の方がいいってわからせる。惚れさせてみせるよ。だから日本に帰るまでの間だけチャンスをくれ。後悔させないから」
「……わかった、いいよ」
「マジ? やった」
「ふふっ、自信家なんだね」
わずかに微笑むシンの瞳は底知れない妖しげな魅力を放っていた。
その目に引き込まれそうになりながら、マウリは今後いかにしてこの美しい男の気を引くかをあれこれ考えるのだった。