その三日後、マウリはアパートを引き払って実家に戻った。シンの警護のためだ。
護衛を引き連れているとはいえ、土地をよく知っている者でないと危険な場所もある。
だから万全を期すため、父から一時帰宅を命じられたのだった。
シンと暮らし始めたマウリがまずしたことは、護身術を教えることだった。
仮にも九龍というマフィアにいるのに、あまりに無防備すぎるからだ。
常に護衛がついているとはいえ、これでは危なすぎる。治安も東京よりナポリの方がはるかに悪い。
それで訓練を開始しようと思ったのだった。
はじめ、基本的な護身術を教えたあとに銃の扱いを教えることにする。
シンは乗り気ではないようだったが、いざとなったときに銃が扱えるかどうかは生死の分かれ目になることもある。そう説得し、射撃訓練に入ったのだった。
実家の裏庭には射撃訓練場がある。
マウリが小さい頃によく使っていた訓練場で、父の護衛が日々の鍛錬で利用することもある。
五十メートルの距離まで射撃できる施設で、立ち位置から的に向かう直線上には目印があり、二十メートル、三十メートル、四十メートルに区切ってある。
マウリは人型パネルを奥から持ってきて、二十メートルの位置に置いた。
そして立ち位置についたシンの隣に立ち、台の上にあるリボルバーを取ってパネルの心臓を撃ち抜いた。
隣で息を呑む音が聞こえる。
「あそこだ。狙ってみて。そう、腕はまっすぐ伸ばして照準を合わせる。重心を傾けないように」
「こ、こう?」
「そう。撃ってみて」
すると、発砲音とともに人型に二つ目の穴が開く。
心臓付近だった。
「勘がいいな。競技かなんかやってたか?」
シンが首を振る。
見ると彼は、自分が撃たれたかのように苦しげな顔をしていた。
「大丈夫?」
「……」
怯えた顔で黙ってしまったシンから銃を取り上げ、マウリは息をついた。
「無理か」
「ごめん」
「いいよ。俺の方こそごめん。なんか無理矢理……」
「そんなことない。ありがとう」
銃を持っただけでこれほど恐怖する人間など久しぶりに見たなと思う。
男も女も、周りの人間にそんな者はいなかった。
そしてそんなシンがとてつもなく愛おしく尊く思えてくる。
本気で恋してしまったようだった。
「気分転換に街でも行くか」
その言葉に、シンが救われたようにこちらを見る。
「いいの?」
「ああ。案内するよ。どっか行きたい場所ある?」
「任せるよ」
「わかった」
二人は連れ立って屋敷を出た。
田園風景の中を小さな街をいくつか通り過ぎ、二十分ほど車で走らせると、やがて畑が途切れて街が見えて来る。混沌の街、ナポリだった。
さまざまな人種、地元民、観光客、裏社会のものが入り乱れる古都。
観光名所といわれ、古めかしい寺院や教会が立ち並んでいるが、治安はいいとはいいがたい。
そんな街を実質的に統治しているのはイタリア系マフィア三大派閥のうちのひとつ、バルドーニファミリーだった。
圧政や汚職の歴史から、政治家や警官は地元民にあまりよく思われていない。
だから顔が知られているファミリーのマウリも堂々と街を歩けるわけだった。
マウリは街の中心部付近まで車を走らせ、路駐できるエリアで停めてシンに降りるよう促した。
そして行きつけのカフェに案内し、パニーノを二人分買って店を出る。
そして縫うように走る石畳の小道を北に向かって進んだ。
十分ほど歩き、街の中心部から少し離れると、次第に集合住宅が多くなってくる。
立ち並んだマンションの中で隅の方にある古い建物は、周りに生い茂る木々でほぼ隠れていた。
その一棟はオーナーが亡くなってから放置されていて、近隣の不良のたまり場になっていた。
マウリも過去入り浸っていた時期がある。
だから地元住民は寄り付かない場所だが、実はここの屋上がナポリで一番眺めのいい場所だった。
恐々上を見上げるシンを先導して外階段を上ってゆく。
一見古いが、十五年前までは住居として使われていた建物だったから崩れ落ちる心配はない。
だが、シンはとてもそうは思えないようだった。
階段を慎重に上がりながら疑いの目を向けてくる。
「あの、ここ大丈夫なの?」
「平気平気。早く上がって来いよ」
「何かすごく古いけど……」
そう言いながらもシンはおとなしくついてきた。そして上まで登りきると息を呑んだ。
「すごい……」
老朽化した建物の屋上の向こうに広がっているのは、紺碧の海だった。
晴れているからか、空との境界線もはっきり見える。
その海の手前にはさきほど通ってきたナポリの街並みが広がっていて、赤茶の屋根の中、ところどころに教会や寺院の尖塔が見える。
マウリは屋上の端まで行くと、振り返って笑いかけた。
「な? 来る価値あっただろ?」
「うん……すごいよ。絵画みたいだ。ここ、君が見つけたの?」
その問いに座りながら答える。
「ああ。昔この辺で遊んでた」
それが悪い「遊び」だとは言わなかった。
「そっか」
シンが隣に腰を下ろしつつ相槌を打つ。海風に嬲られて男にしては少し長めの髪が揺れた。
その髪を撫でたい衝動と戦っていると、不意に生ハムとチーズのパニーノを持ち上げたシンの袖がめくれて手首が露わになった。
そこに目が釘付けになる。そこにはうっすらと拘束痕があった。
思わずその手を取ってチェックする。どう見ても縛られた痕だった。
職業柄、こういうものを見るのは初めてではないが、これは古傷のようになっていて、過去長期的に拘束された者に多いタイプのものだ。
直近ではない。とすると、組織の者が手を出したわけではなさそうだが。
「あっ……」
「どうしたこれ? 誰にやられた?」
「それは……前に話しただろ? そういう『商売』してたって。そのときの」
「ハタケヤマか?」
「……違うよ」
この間はイエスだ。シンのパトロンはとんでもないサディストらしい。
「ハタケヤマなんだろ?」
「………」
「だいぶ長く縛られてないとそんな痕はできない。ずいぶん酷いな」
「まあ……でも仕方ないよ。それだけのことをしてもらったから。バルドーニファミリーに話をつけて私をここに送ってくれたからね」
「その、ショウスケって奴はただの友達じゃないんだろ?」
シンは男娼時代の友人だと言った。おそらくはショウスケも同じ店で働いていたのだろう。
だが、ただの友人のためにここまでするとは思えなかった。
「友達だよ。とても大事な友達」
「別に隠すことないけど」
すると、シンは星空みたいな目を瞬かせてマウリをまっすぐ見た。
「本当に友達。親友っていうのかな? マウリにもそういう友達いるだろ?」
「いや……」
「そっか。そういう人ができるといいね」
「だな」
不良時代の悪友はいるが、命を懸けて守ろうとまでは思わない。
そして、ファミリー内部でも、信用している部下はいるものの、友達などいなかった。
だがシンにはそういう存在がいる。恋愛感情抜きの本当の友人が。
やはり別世界の人間だな、とつくづく思う。
マウリは胡坐をかき、昼食に手を付けながら言った。
「今部下が自由革命同盟の連中とコンタクトを取ってるところだ。もうじき居場所がわかると思う」
「本当? よかった」
シンはパッと顔を輝かせた。ナポリに来て初めて見た笑顔だった。
毎日友達のことを心配し通しだったのだろう。ただの友達をこれほど想える優しさが眩しかった。
「ああ。場所がわかったら突入計画を練る。人質は絶対死なせないから安心しろ」
「ありがとう。ありがとう、本当に」
シンは少し涙ぐんでいた。
パンをコーヒーで流し込む。食事をこれほど美味しく感じたのは久しぶりだった。
「で、そのあとはどうしたい?」
「どうしたいって……ショウスケと一緒に日本へ帰るよ。もちろんそちらとの取引を終えてからね。コウジさんも待ってるし」
「コウジってハタケヤマのことか?」
「うん」
「本気か? ショウスケを助け出したらもう用済みだろ。こっちに残れば?」
そう言うと、シンが驚いたように目を見開いた。
「無理だよ、ビザも切れるし」
「そんなんいくらでも延ばせる。延ばしたいんなら手伝ってやるよ」
「でも……」
「愛してるのか?」
「え?」
「ハタケヤマを愛してるのか?」
「……愛っていうのとはちょっと違うけど、でも」
「それが答えだろ。好きでもない奴と一緒にいる意味なんてない。こっちに残れよ。守ってやるから。シンのこと、好きなんだ」
マウリはそう告白し、固まっているシンに口づけた。
シンが戸惑ったように星空の瞳を揺らす。
「でも、まだ出会ったばかりだよ。何でわかるの?」
「わかる。そういうのはすぐわかるだろ」
「……そうかな」
「シンは? 拒まないってことは嫌いってほどじゃないだろ? それとも機嫌取るためにそうしてる? だったらやめてくれ。仕事は、お前がどうしようときっちりやる」
すると、シンは少しためらったのちに言った。
「嫌いじゃないよ……というか正直とても格好いいと思う。まるで童話に出てくる王子様みたいにね。でも、コウジさんのことは裏切れない。不義理になるから。だから申し訳ないけど、付き合えない。思わせぶりなことをしてしまってごめん」
「不義理? 何だそりゃ。愛してないんだろ? だったらシンプルじゃん」
理解できずに聞き返すと、シンはふっと微笑んだ。
「これは日本人独特の感覚かもね。オンって言葉があるんだけど……オンザデスクのオンじゃないよ? 英語では何て言えばいいのかなあ?」
シンは考え込むようにして、屋上に積もった砂の上に指で不思議な文字を書いた。中国語でよく見るような文字だ。なんていうんだっけ、確か……。
「カンジっていうんだけど、これが『恩』っていうカンジ。下の部分がココロ、つまりハートなんだ。やってもらったことに対して同じように自分もやってあげようってことだよ」
「ふうん。それが『恩』? イタリア語でも似たような言葉あるよ」
「そうなんだ。そう、だから恩をあだで返すようなことをしたくないんだよ」
「だったら、残りたくさせるよ。その『恩』が吹っ飛ぶくらいの愛をあげる」
そう言うとシンはまた驚いていたが、嫌そうではなかった。
そして独り言のように日本語で何か言う。
『イタリアの人が愛情表現がストレートだっていうのは本当なんだなぁ』
「なに?」
「いや、何でもない」
「今の日本語?」
「そうだよ」
「覚えたい。教えて」
「え、本当に?」
「うん。シンと日本語で喋りたい」
現在二人は共通語である英語で会話している。だが、シンの母語で話してみたいと思った。
「いいよ。じゃあ教えてあげる」
シンは微笑んで『恩』と書いた字の下に『マウリ』と書いた。
「はい。これが君の名前」
「『恩』とだいぶ違うな」
「うん。日本語ではね、三種類の文字を使って文章を作るんだ。これはカタカナってやつ」
「三種類?! すげーな」
普段アルファベットしか使っていないマウリには未知の世界である。
「慣れれば簡単だよ。じゃあ代わりにイタリア語、教えてもらおうかな?」
「いいよ。シンってどう書くのかなぁ」
首を捻りながら屋上床に『Sin』と書いてみる。
「これだと英語で罪って意味になっちゃうしなあ」
「でも面白いことにね、日本語だと『信じる』っていう意味なんだよ。信心深いの信」
シンがそう言ってまたカンジを書いてみせる。一文字のそのカンジはシンに似て美しかった。
「意味正反対だな。そうだ、信心深いといえばイタリア語ではサントって名前があるよ。こう書く」
そう言って砂の上に『Santo』と書く。するとシンは興味深そうにそれを覗き込んだ。
その横顔を見ながら説明する。
「神聖なとか高尚なとかそういう意味の名前」
「へえ」
「そういう意味では意外とイタリア語と日本語の方が似てるかもな、英語より」
「確かに」
「でもカンジって面白い形してるよな」
そう言って見よう見真似で『信』と書いてみる。シンはくすくす笑いながら、左側から書くんだと、とアドバイスしてくれた。
「こう?」
「そうそう。うまい」
「苗字の書き方も教えて」
すると信がまたカンジを床に書く。それをなぞりながら幸せに浸った。誰かといてこんなに満たされたのは初めてだ。
シンの周りの空気は驚くほど平穏で争いとは無縁である。これまで出会ってきた誰もくれなかった安寧を、彼はくれた。
だからこれからもずっとそばにいてほしいと思う。これこそがずっと求めていたものだったから。こんなに強い感情を持ったのは生まれてこの方初めてだった。
マウリはいかにしてシンの気を引くかを考えながら、その日はそうして日が傾くまで日本語を教えてもらったのだった。