6-1

 ふと名前を呼ばれたような気がして信は目を開けた。
 身じろぎをすると右足の鎖がジャラリ、と音を立てる。
 室内は闇に沈んでいた。

「うっ……」

 昨晩も鞭打たれた背中が痛んで呻く。
 日本に帰国してからというもの、この部屋に閉じ込められて連日嬲られていた。
 信はうつ伏せから横向きになり、ベッド側の窓の外を見る。
 満月だった。
 あの月をラザロも見ているだろうか、と思う。
 そうであってほしい。生きていてほしい。
 だが、約二ヶ月前に送られてきたあのビデオが本物だとすればその可能性は限りなく低い。

「ラザロ……」

 信はまた滲んできた涙を拭った。
 自分の不注意で計画がバレ、あんなことになってしまった。全部自分のせいだ。
 浩二は信の周辺のあらゆるところに盗聴器を仕込み、部下に監視させていた。当然使っていた携帯にも。
 そしてラザロとの会話が聞かれて計画が全てバレてしまった。
 浩二は激怒し、信を連れ戻してこの部屋に閉じ込めた。
 自宅二階一番奥の、ベッドとトイレとシャワーしかない部屋に。
 道路に面しておらず、窓がはめ殺しで誰の目も届かぬ部屋に。
 いつここから出してもらえるのかはわからない。
 もう出られないのかもしれない。
 だがそれよりも拷問を受けるラザロの姿が信を打ちのめしていた。
 血だらけで痛みに絶叫し続けるあの映像が脳裏に焼き付いて消えない。
 あれは、これまで見た中で最も恐ろしい映像だった。
 骨を折られ、殴られ、水責めされ、吊るされ、鞭うたれ、そしてあんな……。
 あんな怪我ではとても助からないだろう。ラザロは、マウリは、信が殺したのだ。好きになってしまったばかりに。

「……出会わなければよかった」

 出会わなければ、高望みせずにいられた。現状で満足できた。
 誘拐された章介の救出に尽力してくれた浩二を愛して穏やかに生きてゆけた。
 畠山浩二は、元々店にいた頃の客だった。
 三日と空けずに通う熱心な馴染みであり、SMプレイを好むことを除けばそう悪い客でもなかった。
 ただしこりがあるとすれば、浩二は何度も落籍を打診してきたがそれに応じなかったことだ。
 かつて玉東で信が在籍していた店、白銀楼(はくぎんろう)で、傾城と呼ばれるキャストは基本十年契約だった。
 そしてその契約を、所定の金額を払えば終了し、店を辞めることができる仕組みで、これを落籍といった。
 落籍には莫大な金がかかり、傾城が支払うのはまず無理なので、通常は客が傾城を愛人として引き取るために行う。この落籍を浩二は何度も求めてきた。
 しかし、その時点で何人もの見習いを世話していた信は彼らを残していくのが忍びなく、章介と離れるのも嫌だったのでその誘いを再三断っていた。
 そういう経緯があったから、今回章介の救出のために利用しようという気が見え見えの信に近づかれて浩二は相当不愉快だったに違いない。

 浩二は九龍という新興香港マフィアの日本支部を統括する立場だった。
 店に来ていた頃、その類の話はしたことがなかったが、一目でその筋の人間とはっきりわかるような身のこなしと目つきをした男だった。
 時に血の臭いのするその男を、いつも恐れていたような気がする。
 だが、浩二が信に対して手を上げたことはなかった。
 サディストでプレイはハードだが、本当にやめてほしいときに言うセーフワードも決めてくれたし、身の危険を感じたことはない。
 だから章介が拉致されたと聞いた時、頼ることを決めた。
 それまでは森という富豪の政界成り上がりゲームに付き合っていたが、それどころではなくなったので議員を辞めてマフィアの浩二の元へ行った。
 そのことを、外の世界に出してくれた恩のある森や、一緒に理想の社会を作ろうと誓った元官僚の佑磨や、可愛がってくれた政治家の古賀には申し訳なく思う。
 玉東にいた自分が議員にまでなれたのは三人のおかげだし、これからも一緒に頑張ろうと思っていた。
 そうしていつかは玉東にいたことをカミングアウトして、あそこが人身売買の温床となっている事実を告発しようと。

 だが、その夢は諦めざるを得なかった。親友の章介がかつての客、穂波誠一に拉致されたからだ。
 穂波は店に来ていた頃から章介に執心していた客だった。
 独占欲が強く、章介と仲が良かった信を目の敵にしていて、嫌がらせのためにセックスさせられたことさえある。それも信が抱く側で。
 それがきっかけで章介には絶縁されかけたのでそのときのことは思い出したくもないし、相手の方でもなかったことにしているだろう。
 穂波はそういうふうにとにかく章介に注目されたいがために嫌がらせを繰り返すという、非常に面倒な男だった。ある意味章介が好きだったのだろう。
 穂波が店に来るたびに落ち込んでいるのを見かねた信は、あるとき自分の客に頼んで穂波の会社の悪事を暴き、刑務所にぶち込んだ。
 かなり長めの懲役刑だったので、以後穂波は店に来ることができなくなり、章介は晴れてこの粘着男から解放された……はずだった。

 だが甘かった。穂波は檻から出るなり章介を捕まえ、どこかへ連れ去ったのだ。
 その後の調べで穂波の背後には犯罪組織の自由革命同盟がついていると知った。
 だが表の情報ではそれ以上のことはわからなかった。
 本格的に調べるためにはその筋の人間に依頼するしかない。
 そう思いマフィアの浩二の家を訪ねた。
 浩二は一通り信の話を聞いたあと、助けてもいいが議員を辞めてうちへ来い、と言った。
 それが交換条件だった。
 信は悩んだ末に条件を呑むことにし、森と佑磨と古賀に頭を下げて議員を辞め、浩二の家に入った。
 三人はその理由を聞きたがったが、巻き込みたくなかった信は最後までそれを言わなかった。
 また、章介の恋人であった瑞貴にも言わなかった。健康な状態なら相談したかもしれないが、瑞貴はそのとき少し体調を崩していたのだ。
 元々ダイエット志向の強かった瑞貴は仕事や人間関係、そして章介失踪のストレスでそれが悪化して拒食気味となり、心身共にかなり弱っていた。
 だから一人でやることに決めたのだ。

 そうして浩二の元へ行った信は、浩二と共に章介の居場所を探し始めた。
 そのときに問題が一つ浮上した。それは、欧州は現地のマフィアの縄張りであり、アジアを拠点とする九龍は手出しできないということだ。
 そこで浩二はスコットランド拠点のテロ組織・自由革命同盟と対立しているイタリアンマフィアのバルドーニファミリーに連絡を取り、取り引きをして章介の救助を依頼した。そういう経緯だった。
 だから浩二には恩しかないのであり、浮気をするなど言語道断である。激怒されても当然なのだ。
 だがラザロは……マウリは、抗いがたい魅力を持った男だった。
 金髪碧眼の完璧に整った顔立ち、すらりとした肢体、そして何よりその命の炎を燃やし尽くすかのような、激しい生き様……。
 初め、マウリと出会ったときは美しい男だな、ぐらいにしか思わなかった。
 だがその後、別人格のラザロが出てきて、面食らう信に解離性同一性障害であることと、その生い立ちを話した。
 マウリはまだ小さい頃にファミリーのドンの弟・ロマーノに引き取られ、殺し屋として育てられたという。幼い頃から過酷な訓練を科せられ、何度も死ぬような目に遭った。
 そうしてそれが終われば組織の後継者候補でありながら、汚れ仕事をさせられ続けた。養子であるというただそれだけの理由で。
 一流の暗殺者と名高かったマウリの生い立ちは想像以上に壮絶だったのである。

 そして、これはマウリもラザロも語らなかったことだが、義父のロマーノがペドフィリアであることに信は気付いていた。
 信はナポリ滞在中ロマーノ邸に滞在していたが、あるとき裏庭の向こう、木立を隔てた場所に別館があることに気付いた。ガーデニングが趣味でしょっちゅう気晴らしに庭を散歩していたから気付いたのだろう。
 なんだろうと思って繁みを抜けると、そこには二階建ての瀟洒な家があった。外壁はクリーム色で、一軒家にしては大きめの建物。そこからは元気な子供の声が響いていた。
 マウリ以外に子供がいたのかと驚いていると、家からロマーノと子供二人が出てきて、何事かを話しながら家の右手に消えた。
 ロマーノに手を引かれていたのは六〜八歳ぐらいの金髪の少年達だった。
 まもなくして車のエンジン音が聞こえ、そちらが駐車場になっていると気付く。家の中からはまだ子供の声がしていた。随分沢山の子供がいるらしい。
 そのことをなぜロマーノもマウリも言わなかったのか、と疑問に思いながら信はその場をあとにしようとした。
 すると、そのとき家から出てきた子供がこちらに気付いて近寄ってきた。
 十歳ぐらいだろうか。先ほどの子供達と同じく金髪の男の子は信を見上げてイタリア語で聞いた。

「だーれ?」
「信だよ。お兄ちゃんの友達。しばらく泊まらせてもらってるんだ」
「お兄ちゃんってどのお兄ちゃん?」
「マウリお兄ちゃん」

 すると子供は首を傾げた。

「それ誰?」
「えっ? お兄ちゃんだよ、近くに住んでる大きいお兄ちゃん」
「そんなお兄ちゃんいないよ」
「……」

 信は混乱した。明らかにロマーノの子供なのにマウリの存在を知らない子供達……存在を隠すように奥の建物に住まわせられている金髪の少年たち……彼らはいったい何者なのだろうか。

「ここに住んでるの?」
「うん」
「学校行ってる?」
「いってない。先生が来る」

 ホームスクーリングということだろうか。

「あっちの家には行ったことある?」

 そう言って屋敷の方を指すと首を振る。

「あっちには行っちゃいけないことになってるんだよ。お兄さんもこっち来ちゃいけないんだよ。早く戻った方がいいよ」
「お父さんは本当のお父さん?」
「ううん。施設から引き取ってくれたんだ。優しいから好き。好きなもの何でも買ってもらえるし。本当のパパってこんな感じなのかなあ。お兄さんのパパもそんな感じ?」
「まあ……」
「そっかー。お風呂も一緒に入る?」
「小さい頃はね。君何歳?」
「十二歳」

 そこで信は首を傾げた。十二歳といえば小六である。その歳の男子が父親と一緒に入浴するだろうか?
 普通に考えてあり得ない。ここで疑惑が確信へと変わってゆく。
 嫌な想像をしかけている信に、子供が呑気に言った。

「でもねー、もうすぐ出ていかなきゃないかもしれない」
「どうして?」
「最近声変わりしてきたし、大人になっちゃうから。そうしたらこの家にはいられなくなるんだ」
「追い出されるってこと?」

 少年は憂鬱そうに首を振る。

「寄宿学校に行くみたい。でも酷くねえ? ここが家なのにさ。あー、大人になりたくない」
「……お父さんは君に触る? つまり、ここに」

 疑惑を疑惑のままにしておきたくなかった信はそう言って自分の股間を指した。すると、少年は少し躊躇ってから頷いた。

「うん。……それって悪いこと?」
「……そうだね」
「でも普通のことだって言ってたよ。お兄さんもパパとするんでしょ?」
「しないよ。普通はしない」
「それ、愛されてないんだよ。お兄さんかわいそー」

 信はその返答に絶句した。世間から隔絶されたこの家で何が行われているかがはっきりとわかったからだ。
 ロマーノは小児性愛者だ。そして引き取った孤児達を懐柔し食い物にしている。だから信に彼らの存在を知らせなかったのだ。
 そしてこれを知った瞬間に、ある恐ろしい可能性にいきつく。
 養子であるマウリはおそらくこの中の一人だったのではないか。ここにいるのは金髪の少年ばかり。そしてマウリも金髪碧眼である。
 マウリが性的接触を極端に嫌うことと養子であること、そしてロマーノが金髪碧眼の少年を好むことを考え合わせれば、彼が過去どのような扱いを受けてきたかは火を見るより明らかだった。
 マウリはおそらく虐待されていた。ロマーノは孤児を引き取る慈善家として振る舞うその裏側で子供を食い物にする性犯罪者だったのだ。
 そうして引き取られた少年たちの中で素質を見込まれ、訓練を受けたのがマウリだったのだろう。
 その結果、マウリは期待以上の成果を挙げ、単なる玩具から後継者候補へと格上げされた。こういうことなのではないか。
 だがそれがマウリにとって幸せなことだったかはわからない。そうなることによって、マウリはバルドーニ家から出られなくなったからだ。
 組織の仕事に携わり、秘密を知れば簡単には足抜けできない。
 それはどの犯罪組織でも同じことだ。
 マウリとラザロはそうやってバルドーニに縛り付けられてきた。

 だが二人は、特にラザロの方は檻から出たがっていた。
 バルドーニ家を出て自分の人生を生きたがっていた。
 ラザロは自分が苦痛を引き受ける人格だと言った。
 マウリが耐えきれない苦痛に晒されたときにそれを肩代わりする役回りだと。
 だから辛い訓練も、おそらくは虐待もラザロが引き受けてきたのだろう。
 そのラザロがバルドーニに忠誠を誓えないのは当然のことだ。
 ラザロは身も心も傷だらけだった。
 そうしてその痛みを和らげるために人を傷つけ、時に殺していた。
 その生き様があまりに哀れで愛おしくなってしまったのだ。
 過去を知って、縋るように信を求めるラザロについ心と体を許してしまった。
 そういう経緯だった。
 傲慢かもしれないが、ラザロを癒してやりたいと思ったのが関係が始まったきっかけだ。
 だが今となっては後悔しかない。
 虐げられ、利用され、傷付けられて地の底を這うようにして生きてきたラザロ。
 いつか報われるはずだった。報われるべきだった。
 だがその未来を信が奪った。傲慢で軽率な信の行動のせいで。

「うっ……ごめんっ……。ごめんラザロっ……マウリっ……」

 その時、コツン、と窓に何かがぶつかる音がした。
 風で何か飛んできたのだろうか、と気に留めずにいると、二度、三度と音が繰り返される。
 信は不審に思って身を起こし、窓の外を見た。
 すると、信じがたいものが目に飛び込んできた。

「ラザロ……?」

 草木が生い茂る裏庭の手前、窓の下に立っていたのは白人の男だった。
 月明かりに照らされてその美しい面立ちがはっきりと浮かび上がる。
 髪の色は違うが、確かにラザロだった。
 まさか幽霊を見ているのか? 生まれてこの方霊感などなくて、店にいた頃は同僚に羨ましがられたものなのに、今更見えるように……? などと考えていると、ラザロはじっと信を見つめ、何か言った。
 読唇術ができないので何と言ったかはわからない。だがその目がすべてを語っていた。
 これは夢か幻か? 信の願望が見させる幻影か?
 そう思って信は腕をつねった。痛い。更には少し目を離したすきに消えるだろうと思っていたラザロの姿もまだあった。
 これは現実なのか? ラザロは生きていたのか?
 信は驚愕して窓の外を見る。そこには確かにラザロがいる。
 ラザロは生きていた。あれだけの怪我を負いながら生きていた。そして迎えに来てくれたのだ。

 涙でにじむ視界の中、ラザロは唇に人差し指を当てた。それに頷くと、姿が消え、間もなく廊下が騒がしくなる。
 男たちの怒号と銃声が防音加工された部屋の中にまで聞こえてきて、心臓が痛くなる。
 あの銃声はラザロを殺していないだろうか? それともあれは?
 幼少期より殺し屋としての訓練を受けてきたラザロの戦闘技術は相当なものだが、長年極道の世界にいる浩二もかなりの手練れである。どちらが、あるいはどちらも死んでもおかしくない。
 そうなったら自分は……自分はまた死神になるのか?

「もう死神になりたくない……」

 母は、信のせいで死んだ。
 信にいい教育を受けさせるためにモラハラ夫の父と別れられず、その結果心を病んで死んだ。
 白銀楼での初めての禿(かむろ)も信の配慮が行き届かなかったせいで死んだ。
 信といざこざのあった同僚も、見せしめのために河岸に落とされ、自殺した。
 その他にもたくさんの人を亡くしてきた。
 死んでいった人たちの顔がぐるぐると蘇る。
 なぜか昔から信の周りでは人がよく死んだ。
 だからいつしか自分は死神なのではないか、と考えるようになった。
 その自分のせいでラザロも浩二も死ぬのだろうか?
 それを考えるだけで耐えられなかった。

「ラザロ……浩二さん……」

 浩二は確かに暴君だった。だが自分はそれだけのことをしたのだから、罰は仕方ないと思っていた。
 浩二がいなければ親友の章介は助けられなかった。玉東で苦楽を共にした無二の友は。
 だから浩二にも死んでほしくない。どちらにも死んでほしくない。
 だがどちらかを選べと言われたらラザロを選ぶ。それは間違いなかった。
 ベッドから降り、息を詰めて待っていると、扉の外で銃声が一発してついに扉が開いた。
 入ってきたのはラザロだった。