7-1

 予期せぬ襲撃を受けたのはその五日後だった。
 深夜に隣で眠っているはずのラザロに起こされて目を覚ますと、ラザロは既に服を着込んで、その上から防弾チョッキを着ていた。
 そして同じような防弾チョッキを手にしてこちらを見つめている。

「なに……?」
「しーっ。服着てその上からこれ着て。敵が来た」
「敵……?」

 寝起きでぼんやりしながらも周囲の気配を窺ってみるが、物音ひとつしない。
 ラザロはベッド下からライフル銃みたいなものを取り出しながら頷いた。

「センサーが反応した。今すぐ下にいる」

 そして部屋の奥のカーテンのかかった窓を顎でしゃくる。敵がそちらにいるということらしい。
 あまりに突然のことで固まっていると、ラザロは信に服を手渡した。
 言われた通り着替えると、ラザロは手を取ってウォークインクローゼットの中へ誘導した。
 そして扉を閉めて言う。

「ここで隠れてて。何があっても出るな」
「わかった……」

 小声で返すと、ラザロは背を向けて部屋の隅の棚から何かを手に取り、床を這って窓のほうへ向かった。そして窓下の壁際にそれをセットする。
 クローゼットの隙間からだとよく見えないが、何らかの罠のようだった。
 ラザロはそれから這って戻り、今度はドアに張り付いて外の様子を窺った。そうして近くの棚を移動させ、ドアを塞ぐ。
 次の瞬間、ドアの外で銃声がして、ドン、ドン、と何かがぶつかる音が聞こえる。それとほぼ同時にすごい爆発音がした。

「ひっ」

 自分の悲鳴が聞こえないほどの轟音だった。
 どこが爆発したのかと部屋の中を見ると、窓が割れてガラスの破片が四散していた。
 そして罠にかかったらしい黒づくめの男が窓下に落下してゆくのが一瞬見える。
 いったい何が起きたのか把握できていないまま息を詰めていると、ドアの下の隙間から煙が入ってきはじめる。
 瞬間的にクローゼットを飛び出したくなったがラザロに言われたことを思い出し、何とか耐えた。
 だが、ガス中毒で死ぬのではないかという恐怖と、ラザロが死んだのではないかという恐怖に見舞われ、過呼吸の発作が起こった。

「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……」

 信は必死に息を吐こうとしながら外の様子を窺った。だが依然煙で何も見えない上に銃声も鳴りやまない。
 ラザロは生きているのか、ただそれだけが気になって心の中でその名を呼び続ける。
 その時、クローゼットの扉が開いてラザロが信の手を掴んだ。

「来い!」

 そしてクローゼット扉を閉め、奥の靴棚を横にずらした。
 そこには扉があった。どうやら隠し扉があったらしい。
 ラザロは扉を開けて信を先に行かせた。
 中は真っ暗闇で何も見えない。だがラザロがどこかのスイッチを押すと足元灯が点き、下に降りる階段であることがわかる。
 階段は遥か彼方まで続いていた。
 ラザロが扉を閉め、その付近にまた罠を仕掛けながら言う。

「この通路は屋敷の通り向かいの家に繋がってる。赤い屋根の売り家の地下室だ。そこに今アルが車で向かってるから合流する」
「う、うん」

 ラザロは信の手を引いて階段を降り始めた。息が苦しくて足も震えているが、必死に階段を下ってゴールを目指す。
 なんとか階段を降り切ると、通路は左に折れてさらに先へと繋がっていた。その通路は地下道のような感じで階段部分よりは道幅が広く、一定間隔で蛍光灯がついているため先ほどよりも明るい。
 ラザロを見ると、完全に武装していた。手に持つ銃もハンドガンとかではなく戦争で兵士が使っている映像でしか見たことがないようないかついもので、それを軽々抱えて誰かと電話で何か喋っている。
 これほどの危機的状況であるにもかかわらず、早口で電話口の相手とやり取りをするラザロは完璧に平静だった。その目にも声色にも恐怖や焦りは感じられない。
 紛争地帯に行ったことがある、と言っていた意味が真にわかったのはこのときだった。
 頼もしさと同時に恐れも感じながら様子を窺っていると、ラザロはやがて電話を切り言った。

「ルカの奴が来やがったらしい」
「ルカさんが?」
「ああ。部下から情報が入った。だけどアイツがこの屋敷の場所を知るはずがないし、内部のセキュリティも全部突破して廊下からも来たってことはまず間違いなくこっち側に内通者がいるな。おおかたロッシあたりだろうが」
「そんな……」
「いい機会だから裏切り者を炙り出してやる。信、アルが来たら車に乗って先に行け。俺はパウロ達と合流してあいつらを迎え撃つ」
「でも、ルカさんのことは……」
「殺すなって話だろ? マウリと話してるの聞いたよ。まああんなことされたからには楽に死なせてやるのも癪だしな、殺さないでおくよ。もしそうできたらな」

 ラザロとはまだこの話をできていなかったが、もう知っていたらしい。信はほっと安堵の息をついた。

「うん、お願い」

 その時、上の方で爆発音が響く。ラザロは舌打ちをして信の手を引き走り出した。

「通路の入り口まで来た。急ぐぞ」

 二人は走って通路の突き当りまで進んだ。すると今度は上に上がる階段が現れる。
 そこでラザロは後ろを振り返って言った。

「先行け。ちょっと時間稼ぎしてから行く」
「でも……」
「大丈夫、すぐ追いつく」

 ラザロは安心させるように言って信にキスをし、その背中を押した。
 信は迷ったが結局指示に従い、階段を上り始めた。ラザロと残っても足手まといになるだけだろう。
 長い階段を半分くらいまで上ったところで銃声が聞こえる。思わず振り向くと、階段の一番下にいるラザロが追手と応戦していた。
 その姿に不安で胸が締め付けられる。と同時にルカに拷問されて泣き叫ぶラザロの姿がフラッシュバックする。
 信は泣きそうになりながら、それでも上を目指した。
 アルは信がマウリとラザロの一番の弱味になると言った。だからそうならないようにしなければいけない。

 ひたすら階段を上がっているとやがて階段は終わり、外への扉が現れた。
 そこで振り返って下を見る。銃撃音はやんでいた。だが階段にも階段下にもラザロの姿はない。
 何かがおかしい。絶対におかしい。
 まさかラザロは捕まったのか? あるいは殺された?
 だが何の訓練も受けていない、武装もしていない自分が戻って何ができる?
 それよりはアルやパウロと一緒に行った方が絶対にいい。
 そう判断した信は一旦ドアを開けて外に出ることにした。

 出口はラザロが言った通り屋敷の前の通り向かいの民家の地下室に繋がっていた。
 どうやら誰も住んでいないらしく、室内に人の気配はない。
 信は息をひそめて一階へと上がり、窓から表の通りを窺った。街灯が照らす車道は静まり返っており、何の気配もない。
 三分待って来なかったら階下に戻ろう、と決めてその場で待つ。だが、一向にアルが現れる気配はなかった。
 もうこれ以上は待てない、と判断した信はアルに応援要請のメモを残して再び地下道に戻った。
 薄闇の中でどこまでも続く階段を下って通路に出る手前で物音がして、信は足を止めた。通路の先から複数の足音が聞こえてくる。

「っ……!」

 周囲に身を隠す場所はない。信は足音を忍ばせて降りてきた階段を上り始めた。
 しかし一歩踏み出した瞬間に誰かが叫んだ。

「誰だ!?」
「……ラザロ?」
「信か?」

 それはラザロの声だった。振り返って通路の方へ歩いてゆくと、やがて長身の男と歩いてくるラザロの姿が見える。
 ラザロの前を歩いていたのは茶目茶髪の眼鏡の男ーールカ・バルドーニだった。
 ルカは白のスーツに黄色のネクタイ、そして黒いシャツ姿で、片足を引きずっていた。
 多量ではないが膝の上あたりから出血しており、白いスーツを染めている。
 そしてその背にはラザロの銃が突きつけられていた。
 ルカは信を見て片眉を上げた。

「プリンセスが戻ってきたぞ、ラザロ」
「信、ルカに近付くなよ、危ねえから。つうか何で戻ってきた? アルは?」

 ラザロに言われて一歩下がりながら答える。

「まだ来てないみたい。何か変だと思って戻ってきちゃった。無事でよかったよ」
「ああ。お前の言う通り生け捕りだ。殺してもよかったんだけどな」

 するとルカが鼻で笑う。

「いきがるな。俺を殺ったら今頃お前も死んでるぞ。しかしお前も少しは頭を使う様になったようだな、サミーのフリをして隙を突くとは」
「はっ、残念だったな、可愛いサミーに会えなくて。てめえはもう一生アイツに会えねえよ、俺が『封印』したから」
「できるわけがない。消えるとしたらお前の方だ。問題ばかり起こして誰にも必要とされず、愛されもせず……哀れだな」

 その言い様にムッとして反論する。

「私には必要ですよ。それに愛してる」
「プリンセスに庇われて情けなくないのか?」
「プリンセスじゃない。信という名前です」

 するとルカは眼鏡の奥から蔑むように信を見た。

「プリンセス以外の何者でもないだろ。守られて、何もできない女々しい奴が偉そうに言うな。女子供ならともかく男でこれではどうしようもない。これだから同性愛者は嫌いなんだ」

 その言葉を聞き、ラザロが銃口でルカの背中を小突いた。

「信を侮辱するな。次言ったら殺す」

 そこで二人が階段下に到着する。信はその前に立ち塞がって数段上からルカを見下ろし、言った。

「同性愛嫌悪の同性愛者は多い。違いますか?」
「何が言いたい?」
「あなたはサムエーレ君を愛している。そういうことでしょ?」

 すると、ルカはあからさまに顔をしかめた。

「そんな汚らわしい関係なわけないだろ。お前らはそういうことしか頭にないのか? 気色悪ぃ」
「でも好きでしょう?」
「家族としてはな。だがそういった汚らわしい感情を持ったことは一度たりともない。だいたいあの子は六歳だ。そんなことすら知らない。……ここではっきりさせておくが、お前がもしサミーに手を出すようなことがあれば命はないと思え」

 そう言って信を睨みつけるルカの目に嘘はないように感じた。後でサムエーレ本人に確認は必要だが、どうやらルカとそういった関係ではないらしい。これは正直意外だった。

「ルカさんにとってサムエーレ君は何ですか? なぜそんなに執着するんです?」
「宝物だ……一番大事な。あの子は俺が育てたんだ、お前なんかには絶対に渡さない。あの子には手を出すなよ変態」
「そんなに大事ですか?」
「誰よりも」

 信はそこでずっと言いたかったことを言った。

「それほどにサムエーレ君を愛しているなら、なぜラザロやマウリには違う態度なんですか? 三人は同一人物ですよ」
「お前は馬鹿か? 全然違うだろ。マウリはともかくラザロは視界に入るだけでも頭痛がする」
「それでも、ラザロもサムエーレ君ですよ。あなたは全員愛するべきだった。サムエーレ君だけを可愛がるのは愛じゃない。それは条件付きの愛だ。従順で御し易い部分が都合がいいだけだ」

 すると、ルカは目を細めて信を睨みつけ、低い声で言った。

「わかったふうな口をきくな。お前に何がわかる?」
「わかりますよ、あなたが愛しているのは自分自身だけだということぐらいは」
「この男娼が!」

 ルカは激昂して信に掴みかかってこようとした。それをラザロが頭を殴りつけて阻止する。
 後頭部を銃床で殴られたルカは階段に膝をつき、頭を手で押さえた。
 その体を蹴りつけ、ラザロが怒鳴る。

「その言葉を使うなっつってんだろうが!」
「だが事実だ。この男が何人と寝てきたか知ってんのかお前?」

 ルカが呻きながら言う。

「過去は関係ねえ! それに望んでやったんじゃない」
「だったらなぜ店でトップだった? 聞いたぞ男娼、お前が玉東とかいう東京の街で有名だったことは。望んでないならなぜそこまでいけたんだ? おかしいよなぁ?」

 その問いに信は落ち着いて答えた。

「トップを取らなければ条件の悪い店に売られることになっていたからそうせざるをえなかったんです。店主と少し揉めましてね。あそこは人身売買の温床だったんでどうしようもなかったんですよ」
「見え透いた嘘だな。好きでやってたんだろう、淫売。ぐっ……!」

 そこでまたラザロがルカを殴る。

「証明できますよ。この間ラザロが助け出してくれた友人、章介が証明します」
「口裏を合わせるに決まっている。本当に嘘ばかりだ、だから信用できなかった。今だってどうせまだ九龍と繋がってるんだろう」

 信はため息をついた。

「浩二さんは亡くなりました。恩があったのは彼だけです。だからもう関わる意味もない。信じてはもらえないでしょうがね」
「フン、信じられる根拠が皆無だな」
「まあいい。いずれ時間が証明します」

 信はそう言って階段の端に寄り、道を開けた。
 ルカは立ち上がり、相変わらず見下した目でこちらを見ながら前を通り過ぎた。
 その後ろからラザロも階段を上がっていく。ラザロは渋い顔をしていた。

「コイツは何言っても聞かねえよ。後で今信に失礼した分はきっちり罰しておくわ。どうせ内通者も吐かせなきゃいけねぇしな」
「うん……」

 久々に面と向かって侮辱され、少し消沈しながら後に続く。ルカは差別主義者だった。
 だが自分が言ったことは間違っていないと思う。ルカはサムエーレだけでなく他の二人も同等に愛するべきだった。なぜなら条件付きの愛は愛ではないから。
 そこをつかれて図星だったんだろう、ルカは激昂し口汚く信を罵った。
 それにはまあまあ傷ついたが、収穫もあった。ルカのサムエーレに対する執着は本物らしいとわかったことだ。
 アルはルカが危険ではないと言っていたが、信はラザロの拷問ビデオを見て以来それには懐疑的だった。
 単純に考えてあれほど躊躇なく人を傷つけられる人間が安全なはずはない。だからアルの言うことは内心あまり信じておらず、したがってルカのことも信用していなかった。

 だが先ほどサムエーレが宝物だと言ったルカの目に嘘はないように見えた。そして信を強く牽制した態度にも。
 おそらくルカは何があってもサムエーレの『器』であるラザロを殺すことはないだろう。そう確信できるだけの反応だった。
 ラザロとルカは互いに憎しみ合っている。だが互いを殺せない。そういうことなのだ。
 そうと分かれば今後自分が取るべき行動は、ルカを懐柔しこちら側に引き入れることだ。個人的にルカにはいい感情を持っていないが、ラザロのためを考えればそれが最善だ。
 今後は敵対せず、懐に入るため好意的に接するべきだろう。
 信はそんなふうに算段しながら階段を上り切って、迎えに来たパウロの車に乗ってパウロの自宅へ向かったのだった。