翌朝、信はマウリの泣き声で目が覚めた。
驚いて飛び起きると、寝室の半開きの戸の隙間からマウリの姿が見える。
彼は裸の体にシーツを巻き付けただけの姿で、泣きながらリビングを右往左往していた。
「おにぃちゃーん! ひっく、ひっく、ルカ、おにぃちゃああぁん」
泣きながら兄を呼んでいるが、マウリに兄はいなかったはずだ。それに、様子も明らかにおかしかった。
銃弾を受けても眉一つ動かさない男がこんな大声で朝から泣くだろうか? 何かがおかしい。
信はわけがわからず混乱しながら急いで洋服を着てリビングに行った。
「ひっ……」
窓から外の様子を窺っていたマウリが物音に気付いて振り返る。その目は怯えていた。
「お、おじさん、誰?」
「おじさん?」
「来ないで!」
近づこうとするとマウリが悲鳴を上げる。その時に確信した。これはマウリではない。そしてラザロでもない、と。
おそらくはそのどちらでもない人格が出てきたのだ。まだ信が知らない第三の人格が。
「ごめん、じゃあここにいるね。私は信だよ。君は?」
「……サムエーレ。ここ、どこ?」
「わからない。誰か探してる?」
するとサムエーレはごにょごにょと言った。
「ウン……ぼく、ぼくはねえ、おにいちゃんさがしてる。おじさんがぼくをつれてきたの?」
「うーんと、それはねえ……」
「おじさん、わるいひと? ぼく、かえりたいよぉ。おうちに、ぐすっ、かえりたい。おにぃちゃん、おにぃちゃーん」
そこでまた泣き出してしまう。イタリア語で喋っているが、簡単な単語しか使っていないところを見るにサムエーレは子供の人格らしい。
マウリと出会って解離性同一性障害というものを知ってからその病気について少し調べていた信は、多くのケースで子供の交代人格がいると知っていた。
マウリとラザロはおそらく隠していたのだ。だが、先に言っておいてくれれば心の準備ができたのに、と少し恨めしく思う。
サムエーレは一向に泣き止まない。そして結構大声で泣いているので、隣室や廊下に声が聞こえている可能性がある。それは危険だった。
早く泣きやませなければ、と思った信が取った作戦は、とりあえず何か食べさせる、だった。
「あの、サムエーレくん? お腹空いてない?」
「えーん、かえりたい……えぇーん!」
だが話ができるような状態ではなかったので、もう直接お菓子で釣ることにする。
信はお茶うけに買っておいたクッキーの缶を出してきて、それをサムエーレの近くのテーブルに置き、開けた。
すると、サムエーレが興味をそそられたようにそちらを見る。まだ泣いているが、明らかに食べたそうだ。
信は安心させるように微笑んで言った。
「食べていいよ」
すると、カーテンの陰に隠れていたサムエーレがおずおずと近づいてきて、クッキーを一個取って口にする。
「ひっく、ひっく、ひっく……もう一こ……?」
「どうぞ。好きなだけ」
サムエーレはローテーブルの前に座り込んでクッキーを食べ始めた。だんだん落ち着いてきたようだ。
信はその場をそっと離れると、キッチンに行ってオレンジジュースをコップに注ぎ、持っていってテーブルに置いた。
サムエーレは近づいてくる信に怯えて一度カーテンに隠れたが、信が距離を取るとまた戻ってきてジュースをごくごくと飲んだ。
そして美味しそうにクッキーを食べる。膝を内側に折り、ぺたんと女の子座りしてクッキーを頬張るサムエーレの姿は何というか背徳的だった。見てはいけないものを見てしまった気分になる。
弱みを見せないマウリもラザロも見せたことのない、無防備な姿だった。
クッキーをたくさん食べたサムエーレは満足したのか、いつの間にか泣きやんでいた。そして、ダイニングテーブルに座ってそれを見守っている信を窺うように見る。
先ほどよりは警戒心が薄れているようだった。そこで聞いてみる。
「サムエーレ君が探してる人ってなんていう名前?」
「ルカおにぃちゃん。ルカ・バルドーニ」
「そうなんだ……」
「おじさん、おにぃちゃんのこと知ってる?」
サムエーレの返答に呻きそうになる。サムエーレが兄と慕う人物は、ドン・ネロの長男ルカだった。
ラザロを散々利用し、痛めつけ、挙句の果てには拷問した男だ。その男をなぜサムエーレが兄だと思っているのかはわからないが、とにかくこの部屋から出さないことが第一だった。
サムエーレはどう見てもマウリとラザロの弱味である。ファミリーに知られたら足元をすくわれる原因になりかねない。
そこで色々と考えて、信はサムエーレと同じ立場になることにした。
「うん、知ってるよ。友達」
「そうなの? じゃあわるいひとじゃない?」
そこで明らかにサムエーレの態度が軟化する。
「うん。実はねえ、悪い人はこの部屋の外にいるんだ。私もここに連れてこられたんだよ」
「わるいひとってだあれ?」
「わからない。でも、部屋から出ようとしたら怖い人が一杯いたんだ。だから、ここに隠れていた方がいい」
「えぇっ? こわいひといたの?」
サムエーレは怯えた顔でドアの方を見た。
「そう。銃を持ってた。私は最初別の部屋に閉じ込められてたんだけど、逃げ出してこっちに来たんだ。こっちの方が安全みたい」
「そっかぁ、おじさんもつかまってたんだね」
「うん。でもね、ルカさんが助けにきてくれるって信じてる。助けが来るまで二人で頑張ろう」
「……うん、わかった!」
結構めちゃくちゃな設定だが、幼いサムエーレは信じたようだ。信を見る目はもう怖がっていなかった。
余裕が出てきたのか、サムエーレは目元の涙をぬぐい、下半身にかけたシーツを掴みながら、もじもじと言った。
「あのねえ、おようふくないの。おじさんもってる?」
「寝室のタンスにあったみたい。今見てくるよ」
信はそう言って立ち上がり、寝室に移動すると、タンスを開けて適当な服をニ、三着手に取り、リビングに戻った。マウリとラザロの普段着を両方見せてみる。
しかし、サムエーレは渋い顔で首を振った。
「それ、おとなのふくでしょ。ぼくそういうのはきない」
「じゃあいつもどういうの着てる?」
すると、サムエーレは信が着ている服を指さした。今日はアイボリーのタートルネックにカーキのチノパンを履いている。非常事態の中で組み合わせも考えずダッシュで着替えたが、サムエーレは気に入ったようだ。
「わかった。じゃあちょっと待ってて」
信は寝室に再び戻り、着ている服を脱いで別の服を着、タートルネックとパンツをサムエーレに渡した。
「はい、これ着ていいよ」
「ありがと」
サムエーレは礼を言うと寝室に行って信の服に着替えてきた。サイズがほぼ同じなので体に合ったようだ。
サムエーレはリビングに戻ってくると、ソファにぽすんと座った。その目は、飾り棚に向けられている。
信はゆっくり歩み寄ってソファの腰かけた。サムエーレは逃げない。
そのことにほっとしながら聞いてみる。
「何見てるの?」
「クマさん」
「欲しい?」
サムエーレは黙って頷いた。どうやら棚に飾ってあるテディベアが欲しいらしい。
ぬいぐるみというほど大きくはない、目にガラスがはまった置き物だった。
信は立ち上がってそれを手に取り、サムエーレに渡した。
「いいの?」
「いいよ。誰のかわかんないけど」
「これ、おじさんのじゃないの?」
「ううん、違う。だから持ってていいよ」
テディベアを貰ったサムエーレは初めて微笑みを浮かべ、十五センチほどのそれを大事そうに抱きしめた。
そして寂しそうに言う。
「おにぃちゃん、いつくるのかなぁ?」
「どうだろうね。今探してるんじゃないかな?」
「ねてるあいだにつかまっちゃったのかなぁ? おにぃちゃんのおうちにいたのに」
「そうかもしれない。私も、全然記憶がないんだよ。どうやって来たのかもどこなのかもわからない」
「……」
サムエーレは心細そうにテディベアをぎゅっと抱きしめる。
長いまつ毛を伏せ、唇を噛み締めて泣くのを耐えていた。そのあまりの可愛さに衝撃を受けるのと同時に、これではマウリが言いたがらないわけだ、と思う。
金髪碧眼に綺麗な二重の目とすらりとした四肢が特徴的なマウリは、通りですれ違った人が振り返るような正統派の美男子である。
顔立ちは男らしいというより中性的で、男も虜にするような魅力があった。
その美貌は幼少期には更に破壊的だったに違いない。
成長しても言いよる男や女は多数いただろう。そしてそれと同等以上に、特に男社会のマフィアでは見た目で舐められたり、やっかみも受けてきただろう。
だからマウリは自分を舐めてかかってくる男に強く当たる。そうしなければマッチョな男社会では生きてこれなかったからだ。
マウリとラザロの気の強さは自分を守る鎧なのだ。
だが、サムエーレにはそれが全くない。無防備すぎるのだ。
おそらくこれが元々の性格なのだろうが、これではつけ込まれる。だからマウリもラザロも隠し通してきたのだろう。
「まだ教えてもらえるほどじゃないってことか……」
この重大な秘密を、マウリもラザロも信に言わなかった。つまりそこまで信用していないということだ。
これには少々ショックだった。
ひそかに落ち込んでいると、足をぶらぶらさせて辺りを見回していたサムエーレが不意に聞いた。
「おじさんってがいこくじん? なんかイタリアごがへん」
「うん、そうだよ」
「おうちどこにあるの?」
「日本っていう国から来たよ。地球の反対側かな」
「にほん? あっ、ぼくねえ、にほんのアニメ見たことあるよ! えーとねえ、えーとねえ……」
そして次々と見たアニメを列挙する。どうやらアニメが好きなようだった。
これは使えるな、と思ってサムエーレの話が終わったところで口を開く。
「アニメ好き?」
「うん!」
「これで観れるかも」
「えっ、ほんと!?」
明らかにテンションが上がった様子のサムエーレのところにラップトップを持っていき、動画配信サイトを開く。
そして作品を色々見せてやると、目を輝かせてこれ観たい!と子供向けの海外アニメを指さした。
「じゃあちょっと待ってね」
信は立ち上がってラザロから渡されていたクレジットカードを財布から引き抜き、その番号で視聴契約をした。
そしてその作品を再生して音声をイタリア語にしてからサムエーレにラップトップを渡した。
「はい」
「わー、やったぁ!」
サムエーレは歓声を上げてその作品を観だした。
とりあえずこれで一安心、と肩の力が抜ける。
信は紅茶を淹れ、ダイニングテーブルでサムエーレが残したクッキーをお茶うけにしながらそっとサムエーレを観察した。
ソファに座ってテディベアを大事そうに抱き、食い入るようにアニメを観ている。
リビングには声優のコミカルな声と陽気な音楽が流れていた。
時計を見るともうすぐ九時だった。まだ朝食を食べていないのでお腹も空いているが、正直それどころではない。
さてこれからどうしようかと思案していた信は、そこでアルの存在を思い出して携帯を取り出した。そしてメッセージアプリを開いてアルに向けてメッセージを打ち込む。
ナポリでマウリの付き人のようなことをしていたアルがサムエーレを知らないはずがない。だから今後どうすべきかアドバイスをもらおうと思ったのだ。
それでも万一知らなかった場合に備え、メッセージはすぐにそれとわからないようにする。
『おはようございます。サムエーレを知っていますか?』
こう送った三分後に、アルが息を切らして部屋にやってきた。
その姿を見たとたん、サムエーレが立ち上がって歓声を上げ、アルのもとに駆け寄った。
「アルおじちゃん!」
「よお、サミー」
やはりアルはサムエーレを知っていたらしい。そしてサムエーレもアルのことを知っている。
サムエーレは戸口にいるアルの手を引いてぐいぐいと部屋の中に引き入れ、扉を閉めた。
「おじちゃん、あぶないよ。そとはきけんなんだ」
「きけん?」
「そう。わるいひとがいっぱいいるよ。おじちゃんもつかまっちゃったの?」
その言葉に問うような目でこちらを見るアルに、信は目くばせしてみせた。すると、勘のいいらしいアルはすぐに話を合わせてくれた。
「そう、そうなんだよ~。もう困っちゃったよ」
「でもここはね、安全だからだいじょうぶだよ」
「あっ、そうなんだ。その人誰?」
「えっとねー、信おじさん。つかまっちゃってこのへやににげてきたの」
「あ、そうなんだ。よろしくなー、信」
「よろしくお願いします」
アルはサムエーレと繋いだ手とは反対の手を信に差し出した。
その手を握り、握手をする。それが終わるとサムエーレはアルをリビングの方へ連れて行った。
「おじちゃん、いまねえ、アニメみてたんだよ。いっしょにみる?」
「いいけどちょっとこのおじさんと話してからな。大人の話があるんだ」
「えー、そうなの? わかった。じゃあおわったらきてね。それまでとめておく」
「いいよ、先に観てて。俺それ一回観たから」
「わかった」
サムエーレは素直に頷き、アルの手を離してリビングに戻り、アニメ視聴を再開した。
それを見てアルと信はダイニングテーブルにつき、抑えた声で話し始めた。
アルが口を開く。
「サムエーレ、出てきたんだな」
「ご存じだったんですね」
「ああ。知らなかったのか? マウリの第三の人格」
「ええ」
「そっかぁ~あいつ言ってなかったのかぁ~。たまげただろ? あの子は子供だよ。多分子供の頃のマウリ。でも永遠に成長しない」
「何歳ですか?」
「六歳とかいってたような。精神年齢はもっと幼い感じするけどね」
「そうなんですね……」
何で教えてもらえなかったんだろう、と落ち込んでいると、アルは同情めいた表情を浮かべた。
「まあ、アイツは……マウリとかラザロはさ、強がりっていうか、好きな人には弱いとこ見せたくないんだよ。恥だと思ってんじゃないかな? だからあんま気にすんな」
「そうですね……」
マウリにはプロポーズめいたことまでされたのに、一番重要なことは教えてもらえていなかった。その事実が胸に突き刺さる。
相手の気持ちを疑うわけではないが、どの程度真剣にこの関係を考えているのかわからなくなった。
こちらは家族になりたいとさえ思っていたのに。
「とりあえず、これからどうするかだけど、サムエーレは部屋から出すなって言われてる。ナポリにいたときはルカの家に行けばよかったけど、こっちじゃそうもいかないからな。それでマウリかラザロが戻ってくるまで待つ。信が機転利かせてくれてよかったよ、サムエーレのことはこっちのファミリーでも極秘扱いだからな。ボスと側近と俺しか知らない。ボスってのはカミラさんのことだけど」
「カミラさんがボスなんですか?」
「元はマウリの父親のリコに仕えてた。そういう家系だからな。いいボスだったよ。それが亡くなってリコの姉のカミラの下に移ったって感じかな。だからロッシにはマウリの情報を流してない。アイツはこのことを知らないはずだ。それで今後も知られないようにしたい。知られたら絶対に狙われるからな」
「ロッシさんはドンの座を狙っているんですか?」
するとアルは眉をしかめて言った。
「正確には自由に操れるドンが欲しいと思ってる。野心家だからな。だからドンの名代だったボスのことも利用しようとしたが、ボスはマウリを呼び戻すことによってそれを回避したわけだ」
「なるほど……」
やっぱり利用されているな、と思いながら頷く。カミラは単に肉親の情でマウリを呼んだわけではなさそうだ。だから全面的に信頼するのは危険かもしれない。
「だからサムエーレのことは誰にも言うな。ここの大半の構成員はロッシと繋がってるからな。サムエーレは長くても二、三日でいなくなるはずだ。だからそれまでここで生活させてほしい。食事とか、必要なものは持ってくるからさ。マウリの屋敷に移動させるのも一手だが、できるだけ外に出したくねえからな。ここじゃ目撃者を簡単には消せねえし」
「屋敷?」
「ああ。ここから車で二十分ぐらいのとこに用意されてる。昨日移動しときゃよかったが夜遅かったからな」
どうやらここは仮住まいで、家は別に用意されていたらしい。
「そうですね」
「まあ仕方ねえ。とりあえず外に出さなければ大丈夫だから。初めてで色々大変だろうし俺がついててやりたいところだが、色々と外回りの仕事も多くてな。ずっとはいられないから、できたら見ててやってもらえると助かる」
「わかりました。サムエーレ君の好きそうなものを準備してもらえると助かります。ぬいぐるみとかおもちゃとか」
「了解。他に何か聞きたいことは?」
そう聞かれ、信は迷ったのちに聞いた。
「朝、ずっとルカさんを探していたようなんですが、お二人の関係というのは……?」
「サミーはルカが実の兄だと思い込んでる。ルカがそう教え込んだからな。だから、ルカの家が自分の家だと思ってるし、人格交代したときはそこで暮らしていた」
「なるほど……」
「そこに帰りたがって今後も寂しがるだろうが、帰してやれないからな……どうするか」
「そうですね……。なんとか方法を考えます」
「ああ。俺も考えてみる。じゃ、朝飯でも買ってくるよ。今朝食ってないだろ? パンでいい?」
「いえ自分で……」
するとアルは首を振った。
「一人で行かせたらマウリに殺されちまう。パパッと行ってくるよ。ついでに昼の分も買ってくる」
「すみません、じゃあお願いします」
「オッケー。サミー、隠れてちょこっと買い物してくる」
するとラップトップを見つめていたサムエーレが顔を上げた。
「おそとあぶないよ?」
「うん。けど、食い物ないと死んじゃうだろ? こっそり行ってみるよ」
「そっか……。きをつけてね」
「わかった」
アルは手を振って部屋から出て行った。サムエーレは心配そうにその背を見送った後、再びラップトップに視線を落とした。
信はその姿を見ながら、さあ今後どうしていこうか、としばらく思案に暮れていた。