淳哉が住んでいるのは、彰の部屋の四分の一位のこぢんまりしたマンションだった。
築五十年で間取りは1DK、最寄り駅までは徒歩十五分。
売れなかった時代の淳哉が負担できるぎりぎりの家賃の部屋だ。
部屋に着くなり、我慢していたらしい彰が口を押さえてトイレに駆け込む。
淳哉はとりあえず酔い醒ましのスープでも作ってやろうと、キッチンに向かった。
対面式のキッチンは、間取りのわりには広く取られていて使いやすい。
淳哉は、冷蔵庫から材料を出してスープを作り出した。
ネギ、卵、豆腐の生姜を効かせたスープが、酔い醒ましには一番いい。
ケトルで湯を沸かし、豆腐、生姜、調味だしと一緒に鍋に放り込む。
火にかけ、無心で煮込んでいると、気分が落ち着いてきた。
ひとまず話し合いが必要だ。昨晩の事故をどう処理するか。
なかったことにするしかないような気もするが、彰の反応次第だろう。
淳哉は色々考えながら、鍋の火を弱火にして卵を流し入れた。
そして火を止め、ねぎを多めに入れる。
その時、リビングのドアが開く音がして、彰がよろよろと入ってきた。
「洗面所借りた」
「ああ。とりあえず座っとけ。今できた」
「うん」
彰はフラフラしながらリビングのソファまで行き、ドサッと腰掛けた。
淳哉は、スープを鍋からカップに注ぐと、何度か別のカップと移し替えて冷ました。
彰は猫舌なのだ。
そうして温くなったスープを、大きいスプーンと箸と一緒にリビング兼ダイニングに持っていった。
そして、彰の前のガラステーブルに置く。
彼は、うなだれていた。
「ほら」
「うぅ……ありがと」
彰は礼を言って、スプーンでスープを掬って飲み始めた。
淳哉はテレビをつけ、同じスープを飲み始める。
テレビでは、昼の情報番組が始まったところだった。
タレント達が驚くほどの笑顔で、春休みに行きたいテーマパークの紹介をしている。
音量を低くして、それをぼんやり見る。
しかし、内容は頭に入ってこなかった。
これからどうすべきかで頭が一杯だったからだ。
彰が怒っていないのは不幸中の幸いだったが、友達と、それもグループのメンバーと一線を超えてしまったのだ。
これからどうすればよいのかわからなかった。
悶々と考えていると、彰がカップを置いて息をついた。
見ると、三分のニほど減っている。
「落ち着いたか?」
「ああ、だいぶ。ありがとな、色々」
「いや……」
彰はこちらを見ているが、顔を見られない。
前を向いたままでいると、相手が不意にソファから立ち上がり、絨毯に両膝と両手をつき、首を垂れた。
いわゆる土下座だ。
驚いて思わず見ると、彰は叫ぶように言った。
「ごめん! 謝って済むことじゃないけど、本当にごめん! マジでやっちまった」
「………」
「マジ最悪だよ。よりによって淳哉の前であんなんなって……」
その言葉に少なからずショックを受ける。
最悪? 自分と寝たことが?
「俺、酔いすぎるとたまにああなっちゃうことがあって……。お前の前ではそうならないようにって気をつけてたのに……本当、よりにもよってお前とか」
「俺じゃなきゃよかったのか?」
「だって一番ダメだろ。だけど、誓う。お前をそんな目で見たことないし、今後もう絶対ないから。だから、許してくれ。別の奴と勘違いしたんだ」
「お前、男が……?」
すると、彰は顔を上げ、バツが悪そうな表情をした。
「まあ、どっちもって感じ……。キモいよな」
「いや、別に……それぞれだと思うけど」
つい最近までは、同性愛など未知の世界だった。
嫌うほどではないが、聞くとなんとなく落ち着かなくなるような存在。
それが同性愛者、あるいはバイセクシュアルだった。
だが今、淳哉は当事者になってしまった。
「マジか。よかった……。けどほんと、昨日のことはごめん。俺達、やっていける?」
「正直わからない。だって俺……拒まなかった」
その言葉に彰が形のいい大きな目を見開く。
琥珀色の目に吸い込まれそうになりながら、淳哉は続けて言った。
「そうすべきだったのに、拒まなかった。だから俺、お前と同じだと思う」
「それって……」
「男なんて好きになったことなかったけど、何か今は……」
「マジかよ。俺のせい?」
「そうじゃない。俺の問題だと思う」
沈黙が落ちる。レースのカーテン越しには青空が広がり、室内は差し込む陽の光で明るかった。
シリアスな雰囲気が場違いに思えるほどいい天気だ。
しばらくして、床に正座したままの彰が口を開いた。
「それって、男がってこと? それとも……」
「わかんねえ。けど、お前以外にそんなふうになった奴なんていなかったし、考えられない」
「今は?」
「……今もある。俺おかしいよな?」
「それさ、俺のこと好きなんじゃねえの? 普通拒否するだろ」
核心をつかれて、淳哉は固まった。
自分を見上げる彰から目を離せなくなる。
正論に、何も言い返せなかった。
「正直、体、結構痛いし、泥酔してた俺がそんなに動けるかなって」
「痛い? 頭以外にか?」
「腰が痛えんだよ」
「ああ……」
途端に気まずくなって目を逸らす。
彰は再びため息をついた。
「これからどうすんの」
「どうって……」
「俺と付き合いたい?」
その問いに、思わず彰を見る。
相手は探るような、誘うような目をしていた。
「けど、付き合ってる奴いるんじゃねえの? 勘違いした相手」
「別れるよ。もう潮時だったし。お前がそうしたいなら」
「そうしたいならって、お前は? お前、さっき俺をそういうふうに見たことないって言ったじゃん」
「ああ、嘘だよ。ぶっちゃけいいなって思ってた。けど、そんなん言ったら引くだろ? 淳哉はノンケだと思ってたし、それで変な感じになりたくなくて」
「ああ……」
「ただ一緒に踊れればいいって思ってたけど、こんなことになったら期待しちまう……。淳哉、無理なら無理って、今言ってくれ。じゃないと俺……」
ああ、またこの顔だ。
べそをかいている子供の顔。
これをされると、いてもたってもいられなくなる。
淳哉は思わず手を伸ばして頬を触った。
「泣くなよ」
「泣いてねえよっ……」
「まあ、確かに。けど、泣きそうな顔してる」
目を潤ませて俯く彰に、庇護欲がくすぐられる。
小さい頃もよくこうして話を聞いてやっていたのを思い出す。
彰は、第二次性徴が来るまで体が小さかったから、ガキ大将の標的になりがちだった。
「お前のせいだろ。思わせぶりなこと言うから……。どうせ無理なんだろ?」
「正直混乱してる。男と付き合えるかもわからないし……」
「けどヤったじゃん! 勃ったんだろ?」
「まあ……。だけど、それとこれとは別だろ? お前とはずっと友達で、今は仕事仲間でもある。今までの関係性を壊していいかわからないんだよ。付き合うってそういうことだろ? 一時の感情でぶち壊したくないんだよ」
「じゃあ、相手は誰でも良かったっていうのかよ! 気持ちなんてなくて、男を試してみたかっただけ? ふざけんなよ!」
彰はついに涙をこぼして叫んだ。
次から次へと涙が溢れて頬を濡らす。
彰は、頬を触っていた淳哉の手をはたき落とし、立ち上がった。
「そうじゃない。落ち着けって」
「その気がないならあんなことするなよ! もうめちゃくちゃだよ!」
そう言って家から出て行こうとする彰の腕を掴む。
すると、すごい力で振り払われた。
「離せよ!」
「だから聞けって! 好きじゃないなんて言ってない。昨日だって、相手がお前じゃなきゃ殴り飛ばしてた。だけど、昨日の今日ですぐ整理できるわけねえだろ! それに自慢じゃないけどな、男は初めてだったんだよ」
「……だろうな」
「……だから、そんなに早く処理できない。お前と違ってな。気持ちはあるよ。気づかなかったけど、好きだったみたいだ。けど、ほら、お前小さい頃色々あっただろ? だから、傷付けたくなかった」
彰は幼少時に母親の恋人から虐待を受けていた。そして、それを知っているのは淳哉だけ。
親に相談しようとしたら誰にも言うな、と言われ、重い秘密をずっと抱えてきた。
だから、彰をそういう対象として見てはいけないと、無意識に気持ちを抑えていたのかもしれない。
「だからとにかく、時間をくれ。お前とのことはちゃんと考えるから」
「……わかった。怒鳴ったりして悪かった」
「いいよ。こっちこそごめんな」
そう言って抱きしめると、腕の中の体がわずかに震えた。
淳哉は、これからどうすべきかを考えながら、そのまましばらくそうしていた。
◆
淳哉は、二週間悩みに悩んで、結局、彰と付き合うという選択をした。
これまでの関係性が崩れることや、仕事仲間、それもグループメンバーと関係することへの葛藤は当然あった。
深い関係になってグループ活動に支障が出たら、これまでの努力が水の泡になるだけでなく、メンバー全員に迷惑がかかる。
リーダーとして、それは絶対に許されなかった。
だから、彰とは仕事に持ち込まない、絶対に秘密にするという取り決めをした。
それで全てが解決するとは思わなかったが、最終的に付き合うことにしたのは、彰にあの顔をされたからだった。
昔から絶対に逆らえない、彰の泣きそうな顔。
あれを見てしまっては、無かったことにはできなかった。
そうして、二人は付き合い始めた。
初めは、気まずくなって仕事に差し障るかもしれないと思っていた。
グループメンバーの、それも男の幼なじみと一線を越えているという秘密は、背負うには重すぎる。
嘘が得意ではないのはお互い様だし、どこかでボロが出るのではないかと思うと、気が気ではなく仕事どころではない。
少なくとも淳哉はそういう状態だった。
しかし、彰は違った。
彰は涼しい顔で今までと変わらず振る舞い、拍子抜けする位変わらなかったのである。
二人の関係に感づく者もいないだろうと思えるくらい、普通だった。
それに安堵する反面、複雑でもあった。
彰が、もはや以前の彰とは違うのだと思い知ったからだ。
昔は、こんなに重大な秘密を簡単に取り繕える男ではなかった。
彼は変わったのだ。恐らくは淳哉がしたこともないような経験とキャリアを積んで。
これまでそれを認めなかったのは、プライドのせいだ。
彰が遥か上まで行っていると思いたくなかった。
対等ではないにしろ、自分だってそれなりに経験を積んできたし、ダンスも磨いてきた。
露出こそ少なかったかもしれないが、その点では負けていないと思ってきたし、今でもそれは変わっていない。
だが、彰がダンス以外の領域において、淳哉に勝っているのは事実だ。
それを認めなければいけない時期にきていた。
だから淳哉は、不要なプライドは捨てて、彰に心を開くよう努力した。
その結果は、驚くべきものだった。
彰は、自分を受け入れた淳哉を歓迎し、弱味や本音を見せるようになったのだ。
以前の彰は、フレンドリーだが、心の奥底を誰にも、淳哉にさえ見せていないような印象があった。
明るくて人当たりはいいが、どこかよそよそしい印象を受けるのはそのせいだった。
家庭に恵まれなかったのが影響しているのかもしれない。
だが、付き合い初めてからは、時折本音を言ってくれるようになった。
そして、弱い部分を見せ、甘えるようになった。
それは、幼い頃を思い起こさせる変化だった。
彰は小さい頃、泣き虫だった。
ちょっとしたことですぐに泣き、淳哉を頼ってきた。
体が小さくて女の子に間違われることもしばしばで、淳哉は、いつもそんな彰を守ってやらなければ、と思っていた。
だが、いつの頃か、彰は弱味を見せなくなった。
思春期に入った頃からだったか。
それ以降、彰は対等な友達としての付き合いを望むようになった。
だから、淳哉はそれに応じた。
そして関係を築いてきたが、一線を超えたことで、昔の彰が戻ってきたようだった。
その変化を、淳哉は嬉しく思った。
ずっと兄につもりで接してきたのに、突如独り立ちした可愛い弟がまた戻ってきたように感じたのだ。
親には顔向けできない秘密ができたが、それ以上に、彰が頼ってくれるようになったことが嬉しかった。
それに、最初の経験があまりにも強烈だったのもある。
あれほどの快楽を得たのは、人生で初めてだった。
彰は、淫らで、美しくて、一度も見たことのない顔を見せた、
それが淳哉を虜にした。
あれほどに綺麗で魅力的な人間を、ほかに知らなかった。
そしてまた、彰を組み敷くことが、所有欲を満たしもした。
彰が、自分だけを見て、自分だけに心と体を開く。
その事実に満足したとき、彰を単なる庇護対象として見ていなかったことに気づいた。
自分は、彰をそういう意味で好きだったのだ。
それをついに自覚した淳哉は、彰にハマっていった。
そして、淳哉がハマるのと同じかそれぐらい、彰も淳哉に執着するようになった。
淳哉がいつ、誰とどこに行くのかを知りたがるようになり、スマホに位置共有アプリを入れられた。
微妙な気がしつつも、拒否はしなかった。
それを許せる位、彰が好きだったからだ。
この頃、淳哉は自分の気持ちを自覚していた。
ただの欲や興味本位で手を出したのではない。
本気で好きになったのだ、と確信した。
今まで一度も、彰をそういう目で見たことはないと思っていた。
だが、よくよく考えてみれば、女性と付き合った時にどうしても彰と比較してしまったり、彰からのスキンシップをどこか嬉しく感じていたり、小さい頃から、何かにつけ守らなくてはと思っていたりと、その兆候は端々にあった。
単に気づかなかっただけなのだ。
いくらなんでも、ある日突然好きになるはずがない。
そして、自分の感情を抑え込んでいた理由にも心当たりがあった。
男同士というだけではない。
もし、それだけだったら、とうに行動を起こしているだろう。
そうではない理由があった。
彰は、幼少期にシングルマザーの母親の恋人から一時期、性虐待を受けていたのだ。
家に帰りたがらない彰を不思議に思い、理由を聞いた淳哉に、べそをかきながら変なことをされる、と言って自分の大事な部分を触った。
それで、いけないことをされているのだとわかった。
すぐに親に言おうとした淳哉を、彰は口止めした。
母親がそれを知ったら、彼氏を盗ったと嫌われるから、と。
前にそんなようなことがあったような口振りだった。
だから、淳哉はそのことを誰にも言わなかった。
あの時の行動が正しかったのか、今でも思い悩むことがある。
彰は結局、母親がその恋人と別れるまでの一年余り、虐待を受け続けていた。
小学三年か四年の頃で、まだ体が出来上がっていない頃だったから、最後まではされていないだろう。
そんなことをすれば流血沙汰になり、虐待は発覚していたはずだ。
だが、その男ーー須藤は巧妙だった。
証拠を残さず、彰を懐柔し、やるだけやって逃げおおせた。
今も何ら罪に問われることなく、のうのうと生きている。
それを思うと、腸が煮えくりかえるような怒りを覚える。
同時に、不甲斐ない自分への怒りも。
もしあのとき、大人に相談すれば、須藤は逮捕され、裁かれ、罰されたはずだ。
そして、生涯性犯罪者という烙印を背負っていくことになったはずだ。
彰の一年分の苦しみはなく、カウンセリングなども受けて傷は浅くすんだかもしれない。
しかしその行動は同時に、彰から母親を取り上げたかもしれなかった。
彼の母親は、良い意味でも悪い意味でも自分を大切にする人で、恋人が途切れたことがなかった。
そこそこ良い会社勤めで、不規則な仕事ではなかったが、遊びに出てしまうので夜はいつも遅く、彰は半分育児放棄のような状態で育てられた。
それを察した淳哉の母親が近所付き合いのあった彰の母親に、夜面倒をみると申し出、毎日夕食を、時には朝食や昼食も、一緒に食べるようになったのだった。
彰の母親はこういう人物だった。
児童相談所に通報したら、あるいはネグレクトで逮捕されたかもしれないような人物。
だから、虐待を告発した時に、彼氏をとった、と被害者の息子を責める可能性は十分にあった。
淳哉の家庭では考えられないことだ。
そんな母親の愛などいらぬ、と切って捨てられたら楽だっただろう。
しかし、人間はそんなに単純ではない。
どんな母親でも、子供にとってはたった一人の母親であり、その愛が欲しいのだ。
少なくとも、彰の場合はそうだった。
だから彰は、須藤の仕打ちに耐えることを選んだ。
同じ状況になったら、ほぼ全ての人間がそうするだろう。
淳哉は結局、彰の意思を尊重し、そのことを誰にも言わなかった。
そういう経緯があったのだ。
だから、彰を性的な目で見ることに罪悪感を覚えていた。
長い間、自分の気持ちに無自覚だったのは、そのせいかもしれない。
彰を傷付けてしまうのではないかと怖かったのだ。
だが、付き合ってみてわかったのは、彰はそれを乗り越えたということだった。
専門家の助けもなしで、あれほどの経験を乗り越えたのだ。
やはり彰は強い。
自分とは比べ物にならないほどに。
だから、スターになれたのだろう。
そんな思いを抱きながら、淳哉はアイドル活動に邁進していた。
スパロウは今が正念場だ。
このチャンスを生かすか殺すかで未来が変わってくる。
そう思い、淳哉は全力で仕事をこなした。
そんな中で出した、七人体制になって初めての新曲は、スパロウ史上最高の売上を叩き出し、音楽チャートで数週間連続トップ10入りという驚くべき成績を残した。
更に、次のシングルも、その次のカップリング曲も同様に売れた。
驚くべきことだが、秋に彰が加入し、冬が過ぎて春になる頃には、それまでスパロウが売り上げた数を上回っていたのだ。
事務所からの待遇も良くなり、それまで存在をほぼ無視されていたスパロウに、優先的に仕事が回ってくるようになった。
大きな箱でのコンサートツアーを基軸として、拓と秋にはミュージカルの仕事が、明彦・隼人にはバラエティ番組の仕事が、優馬には他のアーティストとのコラボ企画が、そして、彰と、なぜか自分には、ドラマ・映画・モデルの仕事が優先的に入るようになった。
演技経験ゼロ、モデル経験ほぼゼロの自分になぜそのようなオファーがあったかといえば、彰のバーターしかない。
これにはプライドがだいぶ傷付いたが、このチャンスを生かすべきだと判断し、芝居とモデルの猛勉強を始めた。
このように、仕事面では絶好調の日々が続いた。しかし、私生活ではそうはいかなかった。
なぜならば、恋人になった彰が予想の斜め上をいく恋愛依存の束縛男だったからである。