1-11

 秋津に飲みに誘われたのはそれからいくらもしないうちのことだった。正直家にこもっていても悶々とするだけだったので、連れ出してもらえるのはありがたかった。
 二人の家の最寄りの中間あたりの駅で待ち合わせをし、話をしながらダラダラと居酒屋へ向かう。一応、秋津に対してはまだ多少取り繕っていたので、相手の話に相槌を打ちながら道を歩いた。
 折しも、紅葉の季節だった。秋二と出会ったのもこんな季節だったな、と思って並木を眺めていると、隣を歩いていた秋津がふと言った。
「綺麗だなー。おれ、桜より好きかも」
「いいですよね」
「前に嵐山の紅葉見にいったときにさ、もう一生これ以上のものは見ないだろうって思ったけど……今の方が綺麗かも。天野君がいるから」
 その言葉に違和感を覚えて横を見やると、真剣な表情の秋津と目が合った。
 そのまっすぐな瞳――純粋で明るく、意志の強い瞳に囚われて、信は身動きできなくなった。
「ごめん、こんなこと……困るよな? でもなんか今日下心で動いちゃいそうだからさきにハッキリさせときたくて。おれ、バイなんだ。で、天野君のこと、ずっと気になってて……。気持ち悪くてごめん」
「………」
「キモいだけだよな、こんなオッサンからそんなこと言われても。でもなんか、今日綺麗すぎて、ふたりだけで飲んだら間違いが起きそうで。
 あー、なんでそんな色っぽいんだよー。こんなこと言うつもりなかったのになぁ。家庭教師失格だよな」
「……私も、ストレートじゃありません」
「え?」
「男の人が、好きです」
 きっとこんなことは言うべきではなかったのだろう。はっきり断るべきだった。
 だが理性でそうだとわかっていても、あれほどに想っていた秋二と瓜二つの男に告白みたいなことをされて、つっぱねられるわけがない。
 秋二が海外へ旅立つ前だったら違っただろう。
 だけど今は……抗うことは不可能だった。
「えっとっ……え、マジ?」
「ええ。隆之さん……。私のことも名前で呼んでください」
 そう言って手を握ると、相手が握り返してきた。
「信君……。だったら居酒屋じゃなくてさ、別の店行こうか」
「そうてすね」
 信は頷き、秋津について歩き出した。
 秋津が選んだレストランはイタリアンの店だった。
 かしこまってはいないが品があり、客層もよさそうなところだ。ビルの上階にあって眺めも良かった。
 メニューを注文してまもなく食事がくると、二人は食べ始めた。
 緊張しているのかいつもより口数が少ない秋津に代わって話を切り出す。
「いいところですね。こうしていると、本当にたくさんの人がこの地上にはいるんだなって思います。……当たり前ですが」
「そーだよなー。あのヘッドライトひとつひとつに人生があって、看板の明かりをくぐるひとりひとりに人生があって、あのビルの中にわーって人が集まってるかと思うと……圧倒される」
「ええ。世の中には本当にたくさん人がいますよね」
「うん。でもある人としか人生は交錯しない。不思議よなー」
 そう言って秋津はエビのソテーをパクパク食べた。ソースのかかったエビがあっというまに消えてゆく。
 信はクスッと笑って、そんな急がなくても誰も取らないですよ、と言った。
「あっ、ごめんっ……ちょっと緊張してるみたい」
「私もですよ……。お料理、おいしいですね。雰囲気も静かだし、穴場ですね」
「そう? よかった」
 そして秋津は花のような笑みを浮かべた。信は思わず目を見開いて相手を凝視してしまった。
 無意識でテーブルに置かれた秋津の手を握る。すると、相手は驚いたようにこちらを見た。
 手がびくっと震え、少し怖じているようにも見える。それでも信はその手を放せなかった。
「隆之さん……」
 姿かたちはまったく別物。しかし中身は秋二そのもの。
 絶対に放したくない、という思いで、手をぎゅっと握った。
「信……」
 秋津はちょっと複雑そうな顔をしたのち、手を握り返した。
 自分が最低のことをしている自覚はある。相手の気持ちを踏みにじって、秋二の代わりにしようとしているのだ。
 叶わなかった恋を実らせようとしている。
 しかし自覚したからといってどうにかなるようなものでもなかった。
 信は今やっと、かつて愛ゆえに自分の前で死のうとした客の主張を真に理解した。
 店にいた頃、信への想いを持て余し刃傷沙汰を起こしたその客は小岩雅貴といった。
 容姿端麗で知性も教養もあり、紳士然とした客だった。
 だから玉東では数々の傾城と浮き名を流し、話題になっていた。
 男の傾城も女の傾城も皆落ちるという噂だった。
 その男が自分のもとにやってきたときに一番に感じたのは、反感と嫌悪感だった。
 苦しい境遇にある者ばかりの傾城を自己中心的な欲求のためにゲームの駒にするーーそれも、感情を弄ぶような形で。
 とことん悪趣味だと思ったし、こんなふざけた男は地獄に落ちろと内心思っていた。
 だから、好きだと言われても信じなかった。何度告白されても適当にあしらっていたのだ。
 だが、小岩は本気だった。そうして思い詰めた挙句に信の目の前で死のうとした。
 これに度肝を抜かれた信はとっさに刃物を取り上げようと手を出して、もつれあった拍子に刃物が体に刺さってしまったのだった。
 騒動後小岩は店を出禁になってしまったが、それ以前に彼が再三、愛とは理性を超えるものだと言っていたのを思い出した。人間から合理的な判断力を奪うのが愛なのだと言っていた。
 当時信はその言い分を、ただの欲望の言い訳だと切って捨てていた。
 小岩本人が愛を言い訳に信の目の前で死のうとするなどという愚行を犯したせいもある。
 だけど今はわかる。愛はすべてを狂わせるのだ。
 大脳の良識的な判断でどうにかなるものではない。もっと根源的な、脊髄反射的なものなのだ。
 信は秋二が手の届かない場所にいってしまって初めて、そのことを知った。
 そして、本当に秋二が好きだったのだと自覚した。
 ただひたすら相手を放したくないという狂気じみた欲望。傷つけることを正当化する都合のいい脳。そしてそれに振り回される理性。
 信はこのとき初めて愛の何たるかを知ったのだった。
「ついに手ェ出したか。よくやった」
 秋津を他の家庭教師と代えてほしいと頼んだとき、森がまず言った言葉はこれだった。
 付き合い始めてから、とにかく気が散って勉強に集中できないのだ。
 それは秋津の方も同じなようで、別の人に頼んだ方がいいと言われた。
「……そういうんじゃ、ないけど」
「なに、ガチ?」
「………」
「でもないんだろ? 秋二君のことあんだけ好きだったもんなあ。そんな簡単に心変わりなんてするようなタイプじゃないだろ?
 まあそれはそれとして、元気になってよかったよ。一時は本当にしおれちゃって……正直あのままだったらあのタヌキにやるのやめようかと思ってたけど、これはこれでまあいい。愉しもうぜ」
 口角を引き上げて笑った森に、見抜かれている、と思った。
 秋津を秋二の代わりにしようとしていることを、見抜かれている。そして、それがいい結果に終わるはずがないことも。  
 それはわかっている。だがどうしようもないのだ。
 秋二に会いたくてたまらない。
 それが叶わぬのなら、似た人に心の隙間を埋めてほしい。
 自分はこんなに最低な人間だったのだろうか、と思いながらも、それでも信は秋津を手放せなかった。
 そうして二人は付き合い始めた。
 家庭教師は辞めてもらったが、恋人同士となり、休日を共に過ごすようになった。
 信は罪悪感に苦しみながらも、秋津と過ごす時間に幸せを感じていた。
 この週の週末も一緒に出掛けていた。
 秋津に運転してもらって神奈川まで足を伸ばし、眺望が良いという山に登る。
 頂上に着くと、秋津が遠くを指差して言った。
「見ろよ、あれ富士山」
「わあ、綺麗だね」
 秋津が指さす先を見ると、確かに山々の向こうから富士山がちょこんと顔を出していた。
 秋津は学生時代よくここへ来ていたらしい。
 初級者向けとか言われたが、勾配がきつかったり足場が悪かったりで、登るのが結構大変だった。ひとりだったら途中で帰っていただろう。
 しかし、この景色を眺めるためならその価値もある。
 近場にこんな穴場があったとは、と思いながら、信はリュックからお弁当とおにぎりを取り出してお昼にしようか、と声をかけた。
 山頂には、平日ということもあって他にひとりしか登山客がいなかった。
「やー、いいね。登るの大変だっただろ? 大丈夫?」
「うん。隆之さんがフォローしてくれたから」
「よかった。あー、なんか幸せ」
 秋津は礼を言って信からおにぎりを受け取り、しみじみと言った。
 こういうふうに率直に感情表現するところも、本当に秋二によく似ていた。
「気持ちいいねえ」
「お弁当作ってくれてありがとな。いただきます! うわ、うま。唐揚げもふまい」
 昼食を口いっぱいにほおばってハムスター状態になっている秋津はとんでもなく可愛かった。こういうふうに子供みたいに無邪気な男が信のタイプだった。
「信君料理うまいよなー」
「レシピ見て作ってるだけだけどね。でもありがとう」
「いやうまい。いっつもうまいもん」
 このあたりで近くのテーブルで休憩していた登山客が気まずそうに立ち去ったので、山頂には二人だけになった。
 見下ろすと、麓には観覧車が見えた。
「あ、あっちが遊園地?」
「そう。スネークライダーっていうジェットコースターあるんだけど、めっちゃ楽しいんだよ。信君って絶叫系乗れる?」
「うん」
「よし、じゃあこの後行く?」
「この後?!」
 正直山登りでヘトヘトだった信は驚いて聞き返してしまった。
「あ、疲れたよな、ごめん」
「ちょっと休んだら行けるかも」
「いいよ、今度にしよう」
「でも体力あるねえ」
「まあなー。体動かしてるし」
 秋津は趣味でフットサルをやっている。だからこんな山登りくらい朝飯前なのだろう。
 秋津はお昼を食べ終えると、ベンチとは反対側に行って麓のリゾートパークを見おろした。
 信がその隣に並び立つと、秋津が手を回し、背後から信を抱きしめた。
「ふふっ、いきなりどうしたの?」
「好きだ」
 その言葉に、信は思わず振り向いた。
「なに?」
「ふ、不意打ち……」
 頬が熱くなっているのがわかる。こういうふうに純粋に好意を伝えられるのはどれくらいぶりだろうか、と思った。
 目を瞑ると、秋津がキスをしてくる。
 唇を割り、舌を絡めて歯列をなぞられる。体の力が抜けていった。
 秋津は腰に手を回してそれを支えながら、口内を貪る。
 しばらくそうしたのち、露出した首筋に唇を寄せられて、さすがに止めた。
「ダメだって……。人、来る……」
「大丈夫大丈夫」
「大丈夫じゃない。は、なせ……」
 そう言いつつも信は申し訳程度の抵抗しかしなかった。玉東での生活が長かったせいで、実は羞恥心なんてないのだ。
 だがあまりにあけすけだと秋津が冷めるかなと思ってそのフリをしているだけだった。
 しばらくそうやっていると、静かな山の中に足音と話し声が聞こえてくる、
 秋津は渋々信を解放し、一緒にベンチに戻って荷物を取った。そのときちょうど若い女性の二人組が山頂に姿を現した。
「あ、こんにちはー」
「こんにちは」
 二人は女性たちとあいさつをかわすと、リュックをしょって山を下り始めた。
 道中では少し照れたように、しかし的確に足場の悪いところを教えて下山を先導してくれた。
 大昔の地層が露出していて奇岩が多くみられる山はゴツゴツした岩場が多く、初心者向けの山にしてはアップダウンが激しかった。登り慣れている秋津はひょいひょい下りていくが、信はそう簡単には下りられない。
 足場に気をつけながら無心で下りていると、不意に森の言葉が蘇った。
『あいつは世の中の汚いものなんか見ずにすくすく育った人間の典型だ。他人を踏み台にしていることすら気づかずに、世の中の表面だけ見て生きてこられた人間。自分がどれだけの特権を与えられたかも知らずにのうのうと生きてる奴。そういう奴が落ちていって捨てられたら、どんな顔すんのかね?』
 確かに、秋津は恵まれた人間だろう。信などとは比べものにならないぐらいに恵まれた人間。
 人間の醜悪さを知らずに生きてゆける、幸福な人種。
 その境遇に嫉妬しなかったといったら嘘になる。
 だが、秋二との相似性に気づいた瞬間にそういった感情は消え失せた。そしてただただ欲しくなった。
 こんなことがいつまでも続くわけがないことはわかっている。
 いつか必ず真実は暴かれ、秋津を深く傷つけるだろう。
 だが今は、それから目を背けてこのあまやかなぬるま湯に浸かっていたい。
 そんなことを思いながら、信は山道を下り続けたのだった。