6-11

 信はそれから二日間、サムエーレとの共同生活を送った。
 サムエーレは、子供特有の気ままさは多少あるものの、基本的に従順で素直な扱いやすい子だった。
 夜はルカを想って泣くが、それ以外は信の手をわずらわせることもない。
 その後アルが持ち込んでくれたぬいぐるみやおもちゃや児童書も奏功し、ある程度この生活に慣れてくれたようだった。
 相変わらずおじさんと呼ばれるのはちょっと悲しいが、六歳のサムエーレからしてみれば三十過ぎの自分などおじさんでしかないので、無理に訂正はしなかった。
 三日目の朝、戻ってきたのはラザロだった。ラザロは『奥』から見ていたようで、ある程度事態を把握していた。だから起きるなりベッドに持ち込んでいたテディベアを床に投げ捨て、信に謝罪した。

「信、ごめん。あいつ……サムエーレが迷惑かけただろ?」
「いや、いい子だったよ。初めて会ったときはびっくりしたけどね。知らなかったから」

 知らなかった、という単語を若干強調して言うと、ラザロは少しバツが悪そうな表情になった。

「言っとくべきだったよな……」
「言いづらかった?」
「……嫌がられると思ったから。俺のこと、嫌いになった?」

 ラザロは瞳を揺らしてそう聞いた。聞いたことがないほど弱弱しい声で。
 信はしっかり目線を合わせ、首を振った。

「そんなわけない。可愛かったよ、サムエーレ君」

 すると、ラザロは拍子抜けしたような顔になった。

「嫌じゃないのか? 普通に考えて気持ち悪いだろ、大の男が幼児返りとか」
「全然。男って思ってないから。サムエーレ君のときはね。素直でかわいい子供だよ」
「可愛いとか言うなよ……」

 そう言いながらもラザロは怒っていなかった。むしろ安堵したような表情に見える。
 ラザロはベッドから立ち上がり、服に着替え始めた。

「つうかこれ信の服じゃん。アイツが我儘言ったのか?」
「ううん。マウリとかラザロの服は好みじゃないみたいだったから。今度似たような服揃えておくよ。次に会ったときのためにね。ラザロってサムエーレ君の記憶全部あるんだっけ? 説明必要なとこある?」
「いや、全部はない。断片的にというか、そんな感じ。マウリのはほぼあるけど。あいつって謎なんだよなー」
「そっか。じゃあ重要なとこだけ話しておくね。とりあえず、サムエーレ君はこの部屋から出ていない。それで、私もサムエーレ君も、あとアルさんも捕まってここに閉じ込められてることになってる。食事は毎日アルさんが持ってきてくれて、ここで済ましてる。あとは、トイレもシャワーもキッチンもあるから全然暮らしていける感じ。サムエーレ君はそのテディベアがお気に入りで、他にもアルさんにぬいぐるみとかおもちゃを買ってきてもらってそれで遊んだり、アニメを観たりして比較的落ち着いて過ごしてる。ただ、夜はやっぱり寂しいみたいでルカさんの名前呼びながらぐずってるから、それを寝かしつけてあげる感じ。でも概ね順調にいってるよ」

 赤いシルクのシャツに黒のスラックスというド派手な服に着替え終えたラザロは言った。

「夜は本でも読んでやると落ち着くと思う。あいつ、いつもルカに読み聞かせしてもらって寝てたみたいだから」
「あっ、そうなんだ! いい情報ゲット。わかった、今度試してみるね」
「面倒かけて悪いな。よろしく。着替えたら朝飯行こうぜ」
「うん。あ、そうそう、ラザロはこの二日間熱だしてたことになってるから。アルさんがそういうふうにしてくれたみたい」
「まあいつもの手だな。了解。信も二日部屋から出てないんだろ? 今日はアルと一緒に買い物でも行ってこいよ」
「えっ、いいの?」

 ラザロは頷いた。

「家にいるばっかじゃ息が詰まるだろ? この辺のこともよく知らないだろうし、アルに案内させるよ。カード渡してたよな?」
「うん。でも……使っていいの?」
「当然。渡したときに言い忘れてたんだけど、口座に入ってるの信の金なんだ。俺のじゃない」
「えっ、どういうこと?」
「自由革命同盟を潰したときに信から個別で謝礼貰っただろ? あれが全部入ってる」

 信はマウリに仕事を依頼した際、玉東時代に貯めた貯金をはたいて謝礼を支払っていた。
 浩二が取り引きの材料に使った銃器と麻薬の欧州販路というのに追加でマウリ個人に五百万円。ユーロ換算でいくらかは忘れてしまったが、それで仕事を引き受けてもらったのだ。

「でも、仕事の報酬だからあれはラザロのものだよ」

 するとラザロはニヤッと笑って言った。

「体できっちり払ってもらったからな。金は必要ない」
「ふふっ、なにそれ」
「ってのは冗談だけど、恋人から金は取らねえよ。だから返金する。それはお前のものだ。まあでもそんなんじゃ足りないだろうからこれもやるよ」

 ラザロは寝室の金庫の前にしゃがみ込み、ダイヤル錠を回して扉を開け、その中からマウリ名義のクレジットカードを取り出した。
 そしてベッドのサイドテーブルの上に置く。

「名義はマウリだけど、まあ大丈夫だろ」
「ええ、いいよこんなの」
「冗談だよな? 全然足りねえだろ」
「だって家賃も食費も負担してもらってるし……。とりあえず自分の分……というか自分のでもないけど、とにかくこっちのカードだけでいいよ」

 すると、ラザロは近づいてきてサイドテーブルからカードを取り、ベッドに膝をついた。
 そして信にキスをしながらそれを手に握らせた。
 やむを得ず受け取ると、ラザロが信の髪を撫でてその瞳を覗き込んだ。

「不自由させたくねえんだよ。ただでさえ不自由な生活だからな。これからお前にはアルをつけるから、自由に外出していい。マウリの奴はそんな配慮もできなかったようだがな」
「忙しかったから仕方ないよ。……わかった、じゃあ大事に使わせてもらうね。ありがとう」
「ああ。好きに使って。その方が嬉しい。さて、朝飯でも食いに行くか」
「えーと、そろそろアルさんが持ってきてくれる頃だと思うけど……。ほら、サムエーレ君のために毎食持ってきてくれてたからーー」

 信がそう言い終わる前に扉をノックする音が聞こえた。
 二回、三回、間を空けてまた二回。アルだという合図だ。信は立ち上がって寝室を出て部屋の扉を開けた。
 すると食事を載せたお盆を持ったアルが入ってきた。

「おはよう、信。サミーはどうだ?」
「おはよう。サムエーレ君は……」

 そこで後ろからやってきたラザロが言った。

「もういねえよ」
「ラザロか。朝飯持ってきてやったぞ」

 アルはすぐにラザロだとわかったようだった。

「パンケーキ? 何だこのふざけた朝食は」

 ラザロがお盆の上の物を見て露骨に顔を顰める。そこにはバターとメープルシロップ付きのパンケーキとフルーツ、そして牛乳が載っていた。サムエーレの好物だ。

「ほら、サミーが好きだからさ。これあげると一日ご機嫌でいてくれるから」
「そうやってお前が甘やかすからあのガキはいつまでも成長しねぇんだよ。いい加減やめろ」
「だけど泣かれたら困るだろ? 家に帰りたいって泣いて初日は大変だったんだからな。対応してやった信と俺に感謝しろ」
「はっ、感謝しろって言うやつに感謝したい気持ちになる奴はいねぇよ。それに信にはもう謝った」
「ったく、ああ言えばこう言う……。ありがとうとごめんなさいは人としての基本だぞ?」

 アルは呆れたように言いながらお盆をダイニングテーブルに置いた。
 
「はいはいお母さん。置いたらとっととでてけよ」
「ラザロ、アルさんはすごく助けられたんだよ。サムエーレ君の好きなおもちゃとか本とか用意してくれたり、ファミリーの人にうまく言ってくれたり。アルさんがいなかったらサムエーレ君のこと、隠し通せなかったかもしれない」
「……迷惑かけたな」

 ラザロが渋々といった感じで言うと、アルは笑顔でその肩をポンポンと叩いた。

「よくできました。いやー、やっぱ婚約者の言葉は違うな。これからも調教をよろしく」
「婚約?」
「ああ。したんだろ? マウリが幹部たちの前で宣言してたぜ、信以外とは結婚しないって」
「そうだったのか……」
「お前知らなかったの? まぁ色々あるかもしんねぇけど頑張れよ。信が嫁に来るんなら大歓迎だ。なんせラザロもマウリもサムエーレも手懐けてるからな。俺の負担が減る」
「そんな、全然アルさんほどじゃ……」

 そう言うとアルは安心させるように笑った。

「謙遜すんなよ〜。ラザロが素直にいうこときく奴なんてこれまでいなかったんだからさ。マジすげぇよ」
「そうなんだ……」
「そ。コイツは言うなれば誰にも飼い慣らせない野生の虎って感じかな。うっかり寄るとガブリ、だ。俺も何度殺られかけたか。けど信だけは撫で撫でできる。そんな感じかなぁ。信にだけは全然殺意がないっていうか隙ありありっつうか。ラザロを殺せるとしたら信だけかもなぁ、なんて。ハハッ」

 すると、ラザロがアルを睨みつけた。

「くだらねえことをぺちゃくちゃと喋ってんじゃねぇよ。女かお前は。さっさと失せろ」
「おー怖。はいはい、邪魔者は退散しますよっと。あ、それから今日の昼に階下の食堂で食事会あるから参加しろよ。サミーのままだったら無理かと思ったけどちょうどよかった。体調回復したから参加って伝えとくわ」
「誰が参加すんだよ?」
「幹部とその家族ほぼ全員。ロッシも来るからヘマするなよ」
「わかったよ」
「じゃあごゆっくり〜」

 アルがそう言い終わらないうちにラザロは部屋の扉をバタンと閉めた。そして軽い悪態をつき、振り返って信を見る。

「さっきの婚約の話って本当か? のわりに指輪もないけど」
「ううん、あれは何か私の安全のためにそう言ったみたい」

 するとラザロはあからさまにホッとした表情になった。

「なんだ、そうか。だよな」
「でも嬉しかったよ。真剣なんだってわかって」
「そうか……」

 ラザロの微妙な表情に、信はそれ以上何も言えなくなった。気まずい沈黙が落ちる。それを破ったのはラザロだった。

「飯食う?」
「そうだね。着替えてくるよ」

 信はそう言って寝室に戻った。そしてパジャマを脱ぎながら複雑な思いを味わう。
 マウリがあまりに堂々と結婚宣言をしたためすっかりその気になっていたが、ラザロにその気はないようだ。正直これには少し落胆した。
 秋二が外国で結婚したと聞いたとき、一番に感じたのは羨ましさだった。家庭を持つことに憧れがあったからだ。
 子供が好きだし、なにより自分が母親から貰ったような大きな愛情を子供に注ぎたいと強く思ってきた。
 母親は心を病んでいたが、その愛は本物だった。全てを信に捧げ、誰よりも深い愛をくれたのだ。
 そのような愛をいつか子供に注ぎ、世界一温かい家庭を築きたいと思っていた。
 議員時代に女性との見合い話が持ち上がったときも、一番に考えたのはそれだった。
 同性愛者であるがゆえに女性に欲望は抱けない。だが、人間として、子供の母親として愛し、共に家庭を築くことはできると思った。そして玉東時代に客から女性とセックスしろと言われた時、媚薬を飲めばそれができることを知った。
 だから見合い話も受けたし、ゆくゆくは結婚するつもりだった。叶わなかったのは、その前に章介が穂波に誘拐されるという大事件が起きたからだ。あのことがなければ今頃は見合い相手である政治家の娘と結婚していただろう。
 信はそれぐらい家庭を持ちたいという思いが強かった。だからラザロの反応に少しガッカリしてしまったのだ。
 確かに体面を重んじる伝統的なマフィアのドンが同性婚するなどというのは前代未聞だろう。幹部はほぼ全員反対したし、思った通り他の構成員からの風当たりも強い。
 しかしマウリはそれでも結婚すると言った。それが嬉しかったので夢を見てしまったのだ。
 だが現実を考えればそれは難しいだろう。何よりラザロが望んでいない。多分、信を愛人にして表向きは女性と結婚したいのだ。
 しかし、玉東時代に散々妻子持ちの男と寝てきた身としては、そういうのはもう嫌だった。もう相手の女性を傷つけたくないし、罪深いこともしたくない。
 だからそのとき信は、ラザロの結婚相手が現れたら別れよう、と心密かに決心したのだった。