6-13

 その日の午後はビアンカとその友達のサーラ、アリーチェと共にデパートに行った。
 ローマのダウンタウンにある老舗デパート『アルフォンソ』は流行のブランドショップが多く入る大型店舗で、半日がかりでも回りきれないほど広かった。
 信はそこでビアンカのオススメショップを巡り、洋服を何着か購入した。その際にサムエーレが好みそうな生地の柔らかい明るめの色の服も買っておく。
 恋人とサイズが同じだとこういうときに便利だった。
 ビアンカは今回バッグ目当てで来たらしく、ブランドショップの新作を色違いで大量購入していた。
 他にもアロマのお店やネイルサロンを回り、夕方になる頃には彼女たちのボディガード達は両手一杯のショップ袋を持たされていた。
 あれでは護衛任務にも支障をきたしそうだ。だがいつものことなのか、皆慣れているようだった。

 一方、信に同行したアルは荷物こそ少ないものの、こういった買い物に慣れていないらしく、女の買い物は何でこう長いのかね、とぶつくさ文句を言っていた。
 それを宥めながら午後いっぱいかかった買い物を済ませ、帰途に就く。
 帰りの車の中でアルはこれでもかとばかりに伸びをし、やっと終わった、と言った。
 信はちょっと笑ってそれを労う。

「ふふっ、お疲れ」
「あ〜〜、永遠にあの店から出れないかと思ったぜ。まさに悪夢だな」
「こういうの苦手?」
「得意な男なんていないだろ。永遠に試着してるじゃねーかあいつら。嫁と完全一致だよ」

 アルは妻子持ちである。結婚が早かったらしく上の子は今年成人だと言っていた。

「奥さんとも買い物行くんだ」
「たま〜にな。だいたい送り迎えだけ。イライラして喧嘩になるからさ。あーいうのは女友達と行った方がいいんだよ。旦那なんていらない。つーか行きたくない」
「そうだね」
「でもお前めちゃくちゃ楽しんでたよな? 楽しそうにビアンカと服選んじゃって。溶け込み方が半端ねぇわ。俺仲間だと思ってたのにさあ、裏切られた」

 その物言いに思わず吹き出してしまう。

「裏切られたってなにそれ」
「だって男だろ? 男同士分かり合えると思ったのにさあ」
「フフッ、男でも買い物好きはいるよ」
「頼むから次の誘いは受けないでくれ。精神衛生に悪い」
「でも付き合いもあるからなぁ。そしたら別の人に来てもらうよ」
「頼むそうしてくれ。あれは無理だ。信もよく付き合えるよなぁ、あのお喋り女達に」
「女友達多かったからかも。小さい頃ヴァイオリン習ってて音楽教室行ってたんだけど、そこ女の子ばっかりだったからね。慣れてるのかも」

 すると、アルが興味深そうな表情になった。

「ヴァイオリン弾けんだ」
「うん。昔はね」
「へぇ〜、すげえ。つーか信の子供時代の話って聞いたことなかったけどどんな感じだったの?」
「恵まれていたけど恵まれていなかった、という感じかな」
「どゆこと?」
「物質的には恵まれていた。中流家庭で全部与えてもらって何不自由なく育ったと思う。だけど、父親が母親に対して色々酷くて……そのことを考えない日はなかった」

 アルは気の毒そうに信を見た。

「信も色々あったんだなぁ」
「うん。だから母が死んだ日は自分を責めたよ。今も……自分のせいだと思ってる。あの家を出るべきだった。貧しくなっても」
「っ……そんなこと言うなよ」
「でもそうだから。私ってね、死神なんだよ。小さい頃から周りの人が次々死ぬ。だからマウリやラザロやサムエーレくんのそばにいるのも正直不安で。何かよくない影響を与えてしまうんじゃないかって時々思ってしまうんだ」

 すると、アルは強い口調で言った。

「死神なんて言うな。そんなこと絶対ない。ただの偶然だよ」
「そうかな……?」
「ああ。だから気に病むな」
「アルっていい人だね。なんかお父さんみたい。理想のお父さんというか」
「そんな善人じゃねえよ。悪いことも散々してきた。けどまあ……世話焼き体質なのは否定できねぇな。いろんな奴から言われるし」
「アルがマウリとラザロのそばにいてくれてよかったよ」

 素直に思ったことを言うと、アルが照れたように頭をかいた。

「そんな照れるじゃねぇか。けどまあ~……守り切れなかったのは俺も同じだからな」
「マウリが初めて人を殺めたときのこと?」
「ああ。あの時――守ってやれればマウリはマウリのままだったと思う。聞いてるか? あの時のこと」

 あの時、というのはマウリが少年野球のコーチに襲われて、その後殺した事件のことだ。ラザロからことの真相を聞いたときの衝撃はいまだに忘れていなかった。
 信はこちらを窺うように聞いてくるアルに頷いた。

「聞いてるというか、無理矢理言わせちゃったかな、ラザロに。でもマウリは知らないみたい」

 するとアルは暗い表情で言った。

「ああ、そうだ。多分あれはラザロができた引き金だと思う。マウリは耐えきれなかったからラザロを作ってそこに記憶を閉じ込めた。そういうことだろ。だからマウリには……サムエーレにも言わないでくれ。多分耐えられない」
「わかった」
「あんなことさえなけりゃなあ……」

 アルはそう言って深々とため息をつく。それには信も全く同意だった。
 年端もいかない子供にそんなことをしようとする人間の存在が信じられない。というか、同じ人間とさえ思えなかった。

「それでさ、」
「なに?」

 アルは真剣な表情で言った。

「襲撃日が二週間後に決まったのは知ってるか?」
「そんなような話は聞いたけど……決定なの?」
「ああ。その時に一個気になってることがあって、ルカのことなんだけど」
「ルカさん?」

 アルは顎を引いた。

「俺は正直……ルカとマウリを戦わせたくない。それには二つの理由があるんだが……まず第一に、ラザロはこれまで何度もルカを仕留め損ねている。とどめを刺せないんだ。だからルカとやり合うと非常に危険だ。で、第二に、仮にラザロが成功してルカが死んだ場合でも、おそらくサムエーレは耐えられない。あの子はルカを拠りどころにしてるからな。つまりは、ルカだけは生かして捕えたい。それを俺から言っても聞いてもらえねえから、信の方からラザロとマウリに言ってほしいんだ」
「ルカさんを生け捕りにすると……? でも危なくない? 彼はラザロに大怪我を負わせたじゃない」

 ルカがラザロを拷問する映像を思い出す。あれほど凄惨な暴力は、生まれてこのかた見たことがなかった。だからあんなことをした人間を生かして捕えるというのは単純に理解できない。生け捕りというのはそれだけリスクもあるからだ。
 しかしアルはこともなげに言った。

「酷く見せてるだけであんなのはたいしたことねえ。俺たちの世界ではな。あのとき、ルカが制裁を下さなければマウリは一族の者に殺されていた。百倍苦しむ方法でな。だからルカは温情をかけたんだよ」
「温情……」
「これまでだってそうだ。問題児のラザロが何かやらかすたびに尻ぬぐいをしてきた。ルカは敵じゃない。あいつはサムエーレに執着してるからマウリもラザロも絶対殺さない。サムエーレの『器』だからな」

 そこでずっと気になっていたことを口に出す。

「ルカさんとサムエーレ君ってずいぶん親しいみたいだけど……どういった関係なのかな? サムエーレ君はルカさんのこと実のお兄さんだと思っているみたいだけど」
「それなあ……正確にいつからかは俺もわかんねえんだ。俺があの家に行ったのが十七年?ぐらい前だからあのときサムエーレ……というかマウリは九歳だったはずだ。だがすぐには見つけられなかった。マウリは『別館』にいたからだ。ロマーノの屋敷に別館があるのは知ってるか?」
「うん。そこで引き取った孤児達を育てていると聞いたけど」

 ロマーノの屋敷には本館の他に別館があり、裏庭の奥の建物がそうだった。
 信も何度か庭で走り回る子供たちを目にしたことがある。彼らの八割は少年で、マウリのような金髪碧眼だった。

「そうだ。マウリも十二歳まではそっち側にいた。だから見つけられなかったんだ。俺たち護衛は立ち入れなかったからな。ただ、ルカは時々来ていたようだ。その時に出会ったんだろう。だからいつからかは正確にわからんが、まあマウリが十歳とかそのぐらいだろうな。その頃にはもう別人格ができてたんだろう」
「なるほど。それで……ルカさんはロマーノさんと同類だと思う?」

 その問いにアルは言葉に詰まった。

「同類ってつまり……」
「ルカさんがサムエーレ君に手を出したかどうか」
「そこは正直わかんねぇな。ないとは思うけど……。ルカは女にしか興味ねぇし、普通に結婚してるしな」
「カモフラージュしてるゲイとかバイなんて山ほどいるよ。私だって日本にいた時は女性と結婚する予定だったし」
「まあなあ……」
「正直、もしそうだったら殺すなとは言えない。だってルカさんがやったことは虐待だから。体は大人でも、サムエーレ君の知性と判断力は子供だろ? その子供を懐柔して関係を持つって虐待だよ。それは許されないと思う。だから説得するならそれを確かめてからかな」

 すると、アルは複雑そうな表情になった。

「だけど……虐待だったとしてももう依存関係が出来上がってるんだぞ? そのルカがいなくなったらサムエーレはどうなる? 病むよ。そうしたら他の人格にも影響するかもしれない。そのときどうするか策はあるのか? 例えばサムエーレが消えてそのしわ寄せがマウリとかラザロに来たらどうする?」
「それは……」
「信には話してねえかもしれねぇけど、お前との駆け落ちに失敗して連れ戻されたとき、マウリは人格統合の治療を受けた。そして重度のうつ状態と不安障害その他もろもろ精神疾患を併発した」
「っ……そんなことが?」
「何が言いたいかわかるか? 一つの人格が急に消えるってことはあいつの一部がなくなるってことなんだ。それは無理なんだよ。それがあの治療で判明した。マウリもラザロもサムエーレも今は消せない。いずれ時が来れば消えていくかもしれないがな。だからマウリとラザロにはルカを殺さないよう説得をお願いしたい。強く」

 アルの言葉に、信はしばし考え込んだ。サムエーレは確かにルカに依存している。だがいなくなったとしてもその穴を自分が埋められるのではないか、と思っていたのだ。
 まだ出会ったばかりだがサムエーレとの関係もうまくいっていると思っていたし、この調子でいけばその心を掴めるかもしれないと思っていた。
 だが信よりはるかに付き合いの長いアルはそれを無理と判断している。少なくとも現時点では。
 おそらくそれが真実なのだろう。ここはアルに従った方がいいかもしれない。
 信は長考の末、結論を出した。

「わかった、言うよ。アルさんの言う通りにする」
「よかった! 頼むな」
「うん」

 信は頷き、マウリとラザロを、特にラザロをどう説得するかを考え始めたのだった。

 ◇

 マウリにルカの件を話したのはその翌日の夜だった。最初にラザロに話したかったのだが、時間が取れた時にたまたまマウリが出てきていたので最初に話すことになった。
 だが、ラザロはマウリのほぼ全ての記憶を持っているので、このやり取りも見えているだろう。
 信はそんなことを思いながら、夕食後にリビングでくつろいでいるマウリに話を切り出した。

「マウリ、ちょっと話しておきたいことがあるんだけど今いい?」
「うん、何?」

 マウリはテレビの音量を下げてこちらに目を向けた。テレビでは動物ドキュメンタリーが流れている。
 雪原を駆ける狼の群れを横目に信は話を続けた。

「半月後にナポリに行くって決まったらしいね」
「ああ。まあ行くしかねえよな」
「抵抗ある?」
「まあ……親父がいるしな。けどそいつが偽物だっていうんならしょうがない」
「そっか……。ルカさんのことはどう思ってる?」
「俺のひぃじいちゃん?を殺した奴の子孫なんだったら普通に許せねえけどな」
「でももし……ルカさんがサムエーレ君の大事な人だったら?」
「サムエーレ?ってあのサムエーレか」
「うん。サムエーレ君がルカさんを実のお兄さんだと思ってるのは知ってるよね?」
「聞いたことはあるけど本当かどうかは疑わしいな、正直。実際見たわけでもねえし」

 懐疑的なマウリに、信は静かに言った。

「見たんだ、サムエーレ君がルカさんを恋しがって泣くところを。何度も、何度もね」
「っ……!」
「この間出てきてくれたときが初対面だったんだけどね、ずっとルカお兄ちゃんはどこ、お兄ちゃんはどこってそればかりだった。夜は特に寂しいのか泣いてルカさんを呼んでたよ」
「まさか……」

 マウリは信じられないという目で信を見た。サムエーレがルカを呼び続けたときに感じた不快感を思い出して、でもその感情は伝わらないよう淡々と続ける。

「だからもし私を信じてくれるのなら、ルカさんには手をかけない方がいい。サムエーレ君はルカさんを失うことに耐えられないよ。作戦のときも生け捕りにすべきだと思う」
「でもルカは一族の敵だ。そんなことはできない」
「できるよ、君が命じれば。なんてったってファミリーのドンだからね」
「名前だけだ」
「とにかく、ルカさんは殺さないで。サムエーレ君が悲しむところを見たくないんだ。私にとってはマウリとラザロ同様大切な存在だから」

 その言葉にマウリがハッとしたように信を見る。

「あいつのことも……?」
「うん。全員愛してる。だって全員マウリだから」
「……信にとってはそうだよな」
「うん。それになんていうのかな、人格のバランスが崩れるのも心配なんだ。誰か一人に重大な何かが起こった時、それが他の人格に影響しないとも限らないだろ? もしルカさんのことでサムエーレ君が心のバランスを崩して、それがマウリに波及したらって思うと心配なんだ。だからルカさんは生かしてほしい」
「……わかった、できる限りルカは生け捕りにする」
「よかった。ありがとう。でも自分の身が危険に晒されたら無理にそうしなくていいから」
「ああ」

 マウリは頷いて隣に座る信を抱き寄せ、キスをした。
 そうして至近距離からじっと見つめてくる。その髪を撫でて少し冗談っぽく言う。

「正直ルカさんにはちょっとだけ嫉妬しちゃったよ。サムエーレ君があまりに寂しがるから」
「嫉妬する要素なんて何もないだろ。全部勝ってるし、ルカとどうこうなんて絶対ならない。気持ち悪すぎる」
「そっか」
「ああ。俺はお前のものだよ」

 そう言って安心させるように笑うマウリに、今度は信がキスをする。その唇はとても甘かった。
 そのままソファに押し倒されながら、ルカに勝てる日はいつか来るのだろうか、と思う。
 ルカがサムエーレと十五年かけて築き上げてきたものを凌駕することができるだろうか。そして、二人は一線を超えているだろうか。
 側から見ていて、ルカのサムエーレへの執着も、サムエーレのルカへの依存も、正直度を越しているように思える。自分に兄弟はないが、兄弟のいる周りの友達でもこんなに兄、あるいは弟とベッタリなんて人はいなかった。
 むしろ嫌い合っているのが普通である。
 だからいらぬ邪推をしてしまうのだ。
 実際、ルカの担当看護師なども二人が恋人だと思い込んでいるようだし、信の考えは全くの的外れというわけでもない。
 そうである場合、自分は二人の関係を許すべきだろうか?
 サムエーレの幸せのために見て見ぬふりをすべきだろうか?

 こういうことを考えるときりがないとわかっていても考えざるを得なかった。
 そうしてそれを考えるたび胸がもやもやするのが嫉妬だと最近やっと気づいた。
 これまでそういう感情を持ったことがほぼない信はその感情が何なのかしばらくわからなかった。
 だがそれが巷でいうところの嫉妬なのだと、ごく最近気づいた。そして本当に恋に落ちたのだと自覚した。
 マウリもラザロもサムエーレもすべて自分のものにしたい。そして全員幸せにしたい。
 こんなに強くそういう感情を抱いたのは、店で秋二に出会って以来初めてだった。

 そこでふと秋二のことを思い出す。
 秋二は、白銀楼にいた頃指導をしていた後輩で、強い意志を宿したオリーブ色の目の可愛い子だった。その目に強く惹かれたことを思い出す。
 明るく天真爛漫で、かつ自分をしっかり持っているところがとても魅力的だった。
 初めて出会った日に店の裏手の山の頂上まで連れて行かれ、玉東の外に連れて行く、と宣言されたのを昨日のことのように覚えている。
 あのとき、信は恋に落ちた。強く、まるで恒星のように光るオリーブの目の少年と共に生きてゆきたいと強く思った。

 だがそれは叶わなかった。信が店を去ったのち、秋二もまた店を出て、その後信には何も言わずに渡米してそのまま帰らなかったのだ。そして米国で母親と再会して就職し、結婚して家庭を築いた。
 結婚相手が男性だと知ったとき、正直信は歯噛みする思いだった。店にいた頃、秋二はそういった気配を全くにおわせていなかった。だからてっきり異性愛者だと思い込んでいたのだ。
 だから想いを伝えることもしなかったし、リスクの高いストライキを決行して結局は店を出ることになった。
 だがもし知っていたらそんなことはしなかった。秋二が成長するまで待ち、想いを伝えただろう。
 店を出て以来十年、実はその後悔をずっと引きずっていた。

 だが今、その未練は完全に断ち切れた。秋二と同等かそれ以上に心惹かれる存在ができたからだ。
 マウリと秋二はタイプが全く違う。大胆不敵で明るく、陰のない秋二を太陽とすれば、マウリは夜の湖の中で燃え盛る炎である。真っ暗な湖の底は深く、その深淵はどこまでも続いている。ふと気を抜けば自分まで引きずり込まれそうな底のない深い深い湖だ。
 だがその深淵の中では青い炎が燃えさかっている。酸素も燃料もない水の底でただ自分だけの力で燃える炎。それがマウリなのだ。
 まるで自分の命を削るようにして必死に生きるマウリに、ラザロに、サムエーレに、だから惹かれた。秋二とは真逆の強さを持った炎のような男と恋に落ちた。
 だからいつかルカを超える存在になりたいと思う。今は無理でもいつかサムエーレの心も掴みたい。そして三人全員と幸せになりたい。
 信はそんなことを思いながらその日の夜をマウリと過ごしたのだった。