案の定というか、二人の間に喧嘩が勃発したのは、キャスティングの発表直後だった。
イベントを間近に控えた日の練習終わり、お茶を買おうとスタジオの外の自販機コーナーに向かう途中、言い争う声が聞こえて足を止めた。
周囲の廊下には誰もいない。
だから、自販機のスペースからだろう。
タイミングが悪いな、と引き返しかけた時、聞き覚えのある声がした。
「お前、ふざけんなよ」
「リーダー……?」
それは、淳哉の声だった。
思わず足を止めると、今度は彰の声がした。
高ぶっている淳哉よりは冷静な声音だった。
「何だよいきなり」
「しらばっくれてんじゃねえ! 役盗っただろ?」
「役? ああ、ドラマのやつ?」
そっと忍び寄ると、自販機の横の壁にもたれて立った彰に淳哉が詰め寄っていた。
その表情は険しく、かなり怒っているのがわかる。
「そうだよ。オーディションに行ってほぼ決まりって言われてたんだぞ? それなのにオーディション受けてさえないお前が役決まるってどういうことだよ?」
「さあ……。ドラマのキャスティング事情なんて知らねえよ」
気色ばんだ淳哉が彰の胸ぐらを掴み上げる。
「知らねえ訳ねえだろっ! 俺が受けた役は元々お前にオファーしてたみたいなことを芹沢さんが言ってたんだよ。お前から返事がねえからオーディションしたみたいな感じだった。連絡、来てなかったとは言わせねえぞ」
「……」
「来てたんだな?」
「ああ、来てたけど……」
すると、淳哉が苛立ったように胸倉をつかんだまま彰を壁に押し付ける。彰は眉をしかめたが、抵抗しなかった。
「やっぱそうじゃねえか。で、最初は無視しといて何で今更受けたんだよ? 俺が大きな役やるのがそんなに気に入らなかったか?」
「そんなわけない」
「じゃあ何でだよ! 何でよりによってこんな時に……すげえチャンスだったのに」
「ごめん……」
だが、それ以上理由を言おうとしない。淳哉は手を離して吐き捨てるように言った。
「やり方が汚ねぇんだよ」
そして彰に背を向け、自販機コーナーから出てくる。優馬は慌てて向かいの給湯室に身を隠した。
淳哉が憤然と歩き去っていった少し後に彰も出てくる。その顔は今まで見たことのないような、何とも言えない表情をしていた。とても役をもぎ取った者とは思えない寂しげな表情。
それを見て、何か事情があるのかもしれない、と思った。だが、それを聞けるような仲でもない。
優馬は再び不仲問題が浮上してきたことに先を思いやられながら、二人と鉢合わせないようにして帰宅したのだった。
◇
三日後、『探偵・城山霊人』のドラマ撮影が始まった。探偵事務所の主要メンバーに選ばれたため、クランクインはW主演の南野幹久と神崎くるみと数日しか変わらない、早めの日程だ。
探偵事務所の撮影セットはテレビ局内にあるため、テレビ局での撮影だった。
優馬はその日、ドキドキしながら早めに目が覚めた。初めての経験で昨晩からずっと興奮している。
台本は頭に入れてあるが、その場の空気に呑まれてトチったりしないか心配だった。
だがそれ以上にわくわくしてもいた。英国に留学していた頃から演劇に興味があり、演じることに憧れていたからだ。
まさかそれがこんなに早く、しかもキー局の連続ドラマという形で実現しようとは夢にも思わなかったが。
しかし、芸能というのは一発勝負の世界である。もしこれで演技がダメだったら次のオファーはないだろう。英国の劇場に入り浸っている頃、そういう俳優を何人も目にした。
だから気合を入れて準備をし、本番を迎えた。テレビ局に誰よりも早く行き、挨拶周りをすべき共演者の楽屋を事前チェックする。そして、楽屋でストレッチをしたり音楽を聴いたりしてリラックスし、集合時間になるのを待った。
やがて撮影開始時間が迫ってくる。優馬は腰を上げ、楽屋のあいさつ回りに行こうとドアに向かった。
その時、不意に扉をノックされた。
「? はい、どうぞ」
まさか訪問者がいるとは思わず完全に不意を突かれて声が裏返る。息を呑んで扉を見つめていると、ドアの向こうから姿を現したのは彰だった。
ダークグレーのチェックのベストとスラックスにシルバーのネクタイを締めた姿だ。これが衣装なのだろう。
すらりと長い手足が引き立っていた。
「……先輩?」
「おう、お疲れ。偶然通りかかったからさ」
「すみません、わざわざ。今からご挨拶に行こうかと思ってたんですが……」
恐縮した優馬に彰はプッと吹き出した。
「なーにかしこまってんだよ」
「いや、だって……」
「メンバーなんだから挨拶なんていいよ。いや、一緒に挨拶回りしねえかなって」
その提案に、優馬は一も二もなく飛びついた。内心、初対面の相手しかいない現場で心臓が飛び出るほど緊張していたのだ。
「いっ、いいんですか?」
「うん。一緒に行こうぜ」
「あ、ではぜひ」
「よーし、じゃあまず東田さんからな」
彰はそう言って楽屋から出てきた優馬と一緒に廊下を進み、少し先にあった東田の楽屋の扉をノックした。すると、中から野太い声がする。
「ほい」
「お疲れ様です、水沢です。ご挨拶よろしいでしょうか?」
彰がはきはきと言うと、東田が答えた。
「どうぞ」
「失礼します」
「失礼します」
彰について中に入ると、サングラスをかけてスカーフを巻いた中年男が楽屋中央のソファでふんぞり返って座っていた。彼が東田東。名脇役として知られるベテラン俳優である。優馬も民放のドラマで何度か見たことがあった。
小太りで小柄、かつユニークな顔をしているため、ドラマではコミカルな役を演じることが多いが、実際会ってみると全く雰囲気が違う。これが役者というものなのだろう。
彼の向かい側にはマネージャーらしき人物が座っており、何か話していたらしかった。
東田は入ってきた彰と優馬を交互に見ると、彰に目線を向けてだみ声で言った。
「お疲れさん。その子は?」
「スーパーロータスの末っ子の赤城優馬君です。今日から撮影入ることになりました」
「若いねえ。いくつ?」
それに優馬が答える。
「二十一です」
「二十一、二十一かぁ」
昔を懐かしむように遠い目をする東田に、彰が言う。
「演技が初挑戦で色々至らないところもあるかと思いますが、お手柔らかにお願いします。色々教えてやって下さい」
東田の視線が優馬に突き刺さる。その検分するような目線に居心地の悪さを感じながら、会釈をして東田の代表的出演作品の名前を出した。
「『成り上がり刑事シリーズ』、好きでずっと観てました」
「ああ、そう」
東田の表情が満足げに緩む。この業界においては何をおいてもコネと根回しが大事である、と事務所会長の叔父から何度も何度も言われていた優馬は、この日に当たって共演者の過去出演作品をすべてチェックしてきたのだった。
「色々ご教授頂きたいです。よろしくお願いします」
「まあ、教えるっていうかねえ、盗むんだよ、演技ってのは」
「盗む、ですか?」
すると東田は気をよくしたようにぺらぺらと演技論を喋りだした。
「そうそう。習うより慣れろって言うでしょ? あれっていうかねえ、こう、感覚的なものなんだよ。自分の人生の経験がにじみ出てくるというか、だからどれだけ濃い人生送ったかってのが如実に出てくる、演技ってのは。だから……」
そうして延々十分近く、東田は演技論を披露し続けた。それがようやく止まったのは、他の共演者が楽屋あいさつに来た時だった。
そこで二人はこれ幸いと愛想笑いを浮かべながら東田の楽屋を脱出した。
廊下に出ると、彰が小声で言う。
「ふぅーっ、相変わらず話長ぇ」
「熱い方ですね」
「熱いっつーかしつこい。優馬君ぜってーロックオンされたから気をつけろよ。飲み会で隣に座ったら終了だ」
「でも結構ああいう話聞くの好きかもしれないです」
「変わってるねえ」
二人はそんなことを話しながら次の演者の楽屋へと向かった。そこは、主演の一人、南野幹久の楽屋だった。
南野幹久は売れっ子の中堅俳優で、年間を通じて何かしらのドラマには出ているという人物だ。切れ長の少し吊り上がった目に通った鼻筋、綺麗な顎のラインが特徴的なイケメンである。
歳は三十そこそこで彰よりは少し上だが、二十代半ばから俳優キャリアを開始したため、二十歳で俳優デビューをした彰とはほぼ同期という扱いだった。これまでに共演作品もある。一緒にインタビューに出ているのも見たことがあった。
だからさぞかし気心の知れた仲なのだろう、という優馬の思い込みは、楽屋に入った瞬間に打ち砕かれた。
南野は、挨拶をした彰を鼻で笑い、こちらに一瞥もくれずに言い放ったのだ。
「お前が挨拶来るなんて珍しいじゃん。何企んでんの?」
「今回、メンバーの優馬君が俳優デビューだから紹介したくて」
対する彰も、東田への対応とは明らかに違う小馬鹿にしたような声色で返す。この二人は仲が悪かったらしい。
「メンバー……? ああ、まだアイドルなんてやってんの?」
「それが何か?」
「色恋営業でファン騙して金巻き上げて、いい商売だよなぁ。俺もなれるもんだったらなりたいよ、アイドル」
あまりの物言いに頭に来て口を開きかけたが、隣の彰に制止された。その彰は怒った様子もなく、腕組みをして飄々と言い返す。
「じゃあなればよかったじゃん。なれなかったから俳優になったんだろ?」
「何だとてめえ!」
気色ばんだ南野が椅子から立ち上がる。そしてこぶしを握り締めて迫ってきたが、彰はその手首をがっと掴んで口の端を引き上げ、囁いた。
「あんたの顔とスキルじゃ無理」
「何だとこのっ! クソホモ野郎がっ! 知ってんだからなぁっ、てめぇが芹沢さんと寝て役貰ったこと。役者の風上にも置けねえ枕野郎がっ!」
彰の手を振り払おうとしながら南野が喚き散らす。優馬はその内容にショックを受けたが、彰は表情一つ変えず、むしろ楽しげに笑っていた。
「その枕野郎に先にカンパネラ賞取られるってどんな気分?」
カンパネラ賞というのは日本で最も権威ある演技賞で、毎年最も優れた演技をした俳優一人に贈られる賞だ。彰はそれを数年前に受賞していた。
「事務所のゴリ押しだろ」
「へえ、審査にケチ付ける気? 役者ともあろう人がねぇ?」
そこで彰の手を振り払った南野は彰のタイを掴み、力任せに引っ張った。
「お前みたいな奴がこっちに来んじゃねぇよ。この役者モドキが」
そして手を離すと同時に彰をドアの方へ突き飛ばした。ドアに体を打ち付けた彰はわずかに顔をしかめる。
「ははっ、いつもながら反応いいな。本番もその調子で頼むよ。ちょうどライバル役だしな?」
「出てけ」
その言葉と共に二人は楽屋から締め出された。彰は心底楽しそうにケラケラ笑いながらネクタイを直し、次行くかあ、と歩き出した。
色々と聞きたいことだらけだったが何か言える雰囲気ではなく、彰の後について挨拶回りを再開したのだった。