撮影は、優馬演じる篠崎純也が探偵事務所に入るところから始まった。
南野演じる城山霊人に肩を抱かれて入口から中に入ると、事務所に勤務する六人が一斉にこちらを見た。
所長の城山豊、天才ハッカーの秋月良樹、催眠術が使える習志野博人、主人公の幼馴染みの佐久間心、その友人で未来予知ができる名雲えり、そして殺意や憎悪といった人の負の思念を感じ取ることができる相川怜治である。
それぞれ、所長役はベテラン俳優の北沢北進、良樹役は子役出身の実力派俳優、寺澤英治、博人役は先程演技論を熱く語っていた東田東、心役は神崎くるみ、そしてえり役を小松桐花、怜治役を彰が演じている。
皆の視線を浴びながら、霊人が明るく言った。
『おはよーっす』
『おはよう。おう、篠崎君。この間ぶり』
所長が鷹揚に片手を上げる。
『お世話になります、篠崎純也です。これからよろしくお願いします』
そう言ってペコリと頭を下げると、事務所のメンバーは口々によろしくー、と返した。
その後に霊人が言う。
『純也はねえ、見たものをそのまんま記憶できるっていうスゲー能力があるんだよ。いわゆる映像記憶って奴。それ使ってこれからうちで活躍してもらおうってわけ。なあ? おっちゃん』
霊人は叔父である所長をおっちゃんと呼んでいた。
それに所長がわずかに顔をしかめて返す。
『俺のことをおっちゃんって呼ぶな』
『いいじゃん、俺にとっておっちゃんはおっちゃんだし』
『だからここではちゃんと呼べと何度言ったら……まあいい。皆に改めて篠崎君の特殊能力を説明しておこう。篠崎君は一度見た光景を忘れない。細部まで再現できるんだ。つまりはケチな刑事に一瞬で事件現場から追い出されても、その一瞬で全部記憶できるわけだ。容疑者の部屋も隅々まで覚えられる。これはすげぇことだぞ。だから今回、俺がウチにスカウトした。お前らの能力と組み合わせたらすげぇことになるって思ってな。当面は名雲と組んでもらう。異論はないな?』
すると、えりの隣に座った秋月がサッと手を上げる。
『秋月、何だ?』
『異論あります! えりりんをこんな何処の馬の骨ともわからん奴なんかと組ませるなんて……不服です!』
えりりんというのは秋月のみが呼ぶえりのあだ名である。えりは、元地下アイドルという設定だった。秋月はその頃のファンである。
鼻息荒く反対する秋月に、えりがぼそりと言う。
『キモ……』
『キモいってなんだよ。酷い、えりりん。でも嬉しくもある! あぁ、何だこの気持ちはぁっ』
秋月はそう言って身悶え始めた。それに苦笑し、所長が言う。
『秋月、能力者には特有の問題とかが色々あってだな、指導者は同じ能力者の方がいいんだ。わかってくれ』
『だったら! 怜治でいいじゃないっすかぁ。誰とも組んでないし、空いてるでしょ?』
そこでつまらなそうに成り行きを見ていた怜治が口を開く。
『俺は誰とも組まねえ』
その言葉どおり、怜治は一匹狼のキャラだった。それに秋月が抗議する。
『たまにはいいだろ? ちょっとは協調性身に付けないと。ねえ、所長もそう思いますよねぇ?』
『うーん、まあ個人の適性というものがあるからな』
所長は歯切れ悪く返事をする。そこで純也の台詞が回ってくる。
純也は隣の席のえりにこそっと尋ねた。
『怜治さんは誰とも組まないんですか?』
『そうだねえ。組んでるのは見たことないかも。多分、怜治君の能力が関係してると思うんだけどね』
『能力、ですか?』
えりが頷く。
『怜治君ってほら、人の負の感情を察知するじゃない? 普通の人でも、あ、この人不機嫌だなーとかわかるもんだけど、感度がその比じゃないんだよね。何十倍、下手したら何百倍の感度がある。だからこそ犯罪者も嗅ぎ分けられるわけだけど、日常生活はすっごく疲れると思う。ちょっとした苛々とかも敏感に感じとっちゃうからね。だから、あんまり人といたくないんだと思う』
『なるほど……』
秋月はそれからしばらくグチグチ言っていたが、最終的には折れたようだ。結局、えりが純也の指導に入ることになった。
それが決まると、えりが笑顔で言った。
『よろしくね。わからないことは遠慮なく聞いて』
『よろしく、お願いします』
純也はここで初めて心からの微笑を浮かべ、シーンが終了する。突然恋人を亡くし、闇の中を彷徨っていた純也の心に光が差し込んだ瞬間だった。
台本には「笑みを浮かべる」としか書いていないが、優馬はそう解釈して演技をした。先々のエピソードで二人がいい感じになる描写があったからだ。
最終話までの台本はまだ貰っていないが、おそらくえりは純也にとって救いのような存在になってゆくのだろう。
果たしてこの演技で良かっただろうかと監督を窺っていると、郷田は声を張り上げて言った。
「カット! 赤城君、話始めもうちょっと間開けられる? ちょっと詰まっちゃってるなぁ」
「はい」
「じゃあもっかい! はい位置ついて〜。四、三、……」
二、一、と口パクでカウントダウン後に再びカメラが回り出す。優馬は再びセット奥の事務所入口に立った。
そうして南野がまたさっきの台詞を繰り返す。
『おはよーっす』
優馬はプレッシャーを感じながら演技を始めた。今のシーン、指摘されたのは優馬だけだった。つまり、他の人は全員オーケーだったのだ。
それを自分のせいでまた最初から撮り直し。絶対に成功させなければ、というプレッシャーが一気にかかってくる。
それのせいなのか何なのか、今度は上手く微笑むことができなかった。
そしてまたやり直し。どんどんプレッシャーが大きくなり、吐き気がしてくる。演技のプロの中に素人が一人紛れ込んだ気分だった。
次の次でなんとかオーケーが出たが、その頃には冷や汗で汗びっしょりになっていた。傍目に見ても気になるレベルだったらしく、次のシーンが始まる前にメイク担当スタッフが軽く直してくれる。
だが、それに礼を言う余裕もなかった。口の中がカラカラで台詞も上手く言えないし、上手く笑えない。
何より、最初に指摘された台詞の間の間合いの部分が上手くできない。喋り出しが早過ぎたり遅すぎたりで、監督の言う「自然な間」にならないのだ。
自然に、自然に、と思うほどに不自然になってゆく皮肉。だがどうにもならない。どうにもできない。
優馬は半ばパニックになりながらその日の撮影を何とか終えた。終えた、というより気付いたら終わっていた、という方が正しい。
ふと我に返ると彰と二人、テレビ局の地下駐車場に来ていた。ここに事務所の送迎車が来る予定で、優馬はその後直帰の予定だった。
もう深夜なので彰もきっと帰るのだろう。彰は港区の高層マンションに住んでいて、メンバーを招待してくれたこともあるが、ものすごく綺麗で広い部屋だった。そして何より眺めが最高だった。
あの部屋に帰れるなんて羨ましいなあ、と現実逃避気味に思いながら車を待っていると、それまでいじっていたスマホをしまった彰がこちらを見る。
もう普段着になっていて、地味なフード付きのパーカーに黒いパンツという飾り気のない格好だが、それさえも完璧に着こなしていた。
彰がポケットに手を突っ込み、足踏みしながら言う。
「ふぅ〜、寒ぃ〜〜」
「寒いですね」
「上着着てくればよかった。頼む車早く来てくれぇ〜」
寒さが底をつく二月始め、地下とはいえさすがに寒かった。
その上彰は上着を着ていない。それでは寒いだろう。
優馬は逡巡したのち、ジャケットを脱いで差し出した。すると、彰は戸惑ったように瞳を揺らした。
「これ、着てください」
「えっ、いいよ」
「どうぞ」
「いやいや、優馬君が寒くなるから」
「下にめっちゃ着てるんで大丈夫です。ほら、四枚」
頑なに受け取ろうとしない彰に服をめくって見せると、やっと受け取ってくれた。
「そう? じゃあお言葉に甘えて……。ありがと」
「はい」
「……」
「……」
少し近づいた拍子にフローラル系の柔軟剤の香りが鼻腔をくすぐる。香水があまり好きではないのか、つけていることはほとんどない。
たまに香水の香りがしてもいつも違う匂いなので、仕事かプライベートで接近した人の移り香なのだと思う。芸能人は香水をつけている人が多かった。
こんな風に観察している自分が気持ち悪いのはわかっているが、やめられなかった。彰のような人は芸術品として目で拝ませて貰うだけに留めるべきなのに、気付けばこういう風に詮索している。
またノンケに不毛な恋をしそうになっている自分は学ばないなあ、と思う。
もっと距離を置いて付き合わなければ、と自信を戒めていると、彰が言った。
「……今日、大変だった?」
「……はい」
「まあ初日であれだけやれれば大したもんだよ。俺なんてもっと酷かったし」
「そうなんですか?」
思わず顔を見ると、彰は美しい顔をこちらに向けて頷いた。改めてこの距離で見ると心臓に悪い。
「うん。台詞飛ばしまくって優馬君どころじゃなかったよ。優馬君、台本(ホン)完璧に入ってたもんなあ。それだけですごいよ」
彰の意外すぎる過去に少し気が楽になって本音が漏れる。
「そんなことないですよ。全然自然にできなくて……」
「あの監督は結構要求高いからなぁ。最初は俺も大変だった」
「……何かほんと、場違いだなって」
目を伏せて言ったその言葉を、彰は即座に否定した。
「そんなことないよ。郷田さんは見込みない人には何も言わないから、それだけ期待されてるってこと」
「そう、なんですか……?」
「そう。だから気にすんなって。台詞の間とかはさ、やってくうちに慣れるから。優馬君、台本読みって一人でやってる?」
「はい」
「それね、誰かに手伝ってもらうといいよ。結局台詞ってほぼ会話だからさ。友達でも誰でも、相手役してもらって練習するといいよ。何なら俺も手伝うし」
その言葉に思わず顔を上げる。
「先輩が?」
「うん。来月映画の撮影始まるまでは結構余裕あるし、もしよければ」
「よ、よろしくお願いします!」
そう言って勢いよく頭を下げた優馬に、驚いたような気配がする。顔を上げると、少し戸惑った表情の彰と目が合った。
「俺でいいの?」
「先輩がいいです。僕……昔から彰さんの演技に憧れてて。彰さんに習いたいです」
「教えるなんてそんな大層なことはできないけど……」
「『トライアングル・ラブストーリー』の雪人、めっちゃ好きだったんです。ああいう演技できたらなぁってずっと思ってて」
『トライアングル・ラブストーリー』は三年前に発表された恋愛映画だ。純文学のように登場人物たちの繊細な心の移ろいを描いた作品であり、文学技法である『意識の流れ』を取り入れた意欲作でもあった。
『意識の流れ』とは、ヴァージニア・ウルフの『ダロウェイ夫人』やウィリアム・フォークナーの『響きと怒り』に代表されるような小説技法で、各キャラクターの内的独白により物語が進行していくというものである。
各キャラクターの内面世界を追っていくので、客観的な時間経過がわからずわかりづらい、という難点はあるが、まるで虫眼鏡で見るようにそのキャラクターの内面をつぶさに見られるという点で、一定程度評価されている技法だった。
これを取り入れたのが彰がメインキャストとして出演した『トライアングル・ラブストーリー』である。幼馴染み三人が三角関係になるという非常にわかりやすい大筋だが、各登場人物の独り語りで物語の大部分が進行するため一般の視聴者にはわかりづらく、世間一般では評価されなかった作品だった。
しかし、英米文学にある程度通じている者にとってはその芸術性の高さは一目瞭然であり、一部のコアなファンにはいまだに愛される名作である。文学を多少かじったことがある優馬もそのうちの一人だった。
「え、あれ好きなんだ? 初めて言われた」
「あれは名作ですよ」
「へえ、面白い感性してるね。俺も結構好きだったんだよなあ、ああいうの。吉田監督ってすげぇ頭いいの。ああいう人を天才って言うんだろうな。だからまた監督の映画出たかったんだけど、なかなかタイミング合わなくてね。それっきりになっちゃったなぁ」
「先輩お忙しいですもんね。次の映画も楽しみにしてます。原作読んだことありますけど、結構内容ハードじゃないですか?」
彰が出演予定の映画『サマーナイト・パーティ』の原作は、貧困と虐待の中で育った青年が手段を問わずに成り上がり、ただ一人愛した女性にすべてを捧げるという物語だった。
王道といえば王道のストーリーだが、ヤクザとのトラブルでリンチや拷問をされたり、金持ち女に体を使って取り入ったりといった穏やかならざる描写もある。それをどの程度映像化するのかはわからないが、原作を読む限りではハードな印象だった。
それを伝えると、彰はちょっと驚いたような顔になった。
「え、そうなの? まあ濡れ場多いとは聞いてたけど」
「え、確認せずに受けたんですか?」
すると、きまり悪そうに頭をかく。
「だって俺、本読めねえし。漫画だったら読んだんだけどなぁ」
「マジですか……。普通にリンチとかありますよ。もっときつい……拷問とかも。まあもちろん、配慮して撮影はしてくれるんでしょうけど」
「へえ。あんまそういう役やったことなかったからなぁ……ま、勉強にはなるか」
軽く言う彰に、優馬は思わず言った。
「嫌なら断った方がいいですよ」
「いや無理だろ、もうキャスト発表しちゃってるし」
「無理じゃないですよ、撮影入ってないんだから」
「いやいや、無理。ていうか実際やるわけじゃないんだしさ、それこそ演技だから大丈夫」
「……わかりました。出過ぎたこと言ってすみません。……彰さんに、ああいう役やってほしくなかったんで」
すると彰は笑って優馬の頭をポンと叩いた。
「ピュアだなー、優馬君は」
「今度からは……映画とかの原作が本だったら僕に聞いてください」
「わかった。優馬君がチェック係な。次から頼む」
「はい」
そこまで話したところで車のエンジン音が聞こえてきて、間もなく送迎用の黒いバンが地下駐車場に入ってくる。優馬は彰に続いてそれに乗り込んだ。
やがてバンが出発する。優馬は後方に流れゆく外の景色を眺めながら、彰に詳細も知らせずに無茶な映画の仕事を振ったマネージャーはいったい何を考えているのか、と心ひそかに憤るのだった。