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 四日後、優馬はダンス練習のために事務所が所有するビルのダンススタジオに赴いた。

 この日は来月発表する新曲が発表され、その振り覚えの日だった。そのため、珍しく全員が集合している。彰の加入によって一気に知名度が上がり、メンバー個人の仕事も増えたため、このところ全員で顔を合わせる機会が減っていたのだ。

 スタジオに着いて真っ先に確認したのは、彰と淳哉が和解したかどうかだった。

 ドラマの役横取り事件から半月余りーーそろそろ仲直りしてくれないと困る。

 だが、まだのようだった。少し前まで心底楽しげに談笑していた二人が、今は当たり障りなく話す程度。周囲には気付かれぬよう振る舞っているが、元の状態とは程遠い。

 結構深刻な喧嘩のようだった。

 

 後で二人に事情を聞いて仲裁に入るべきか、誰かに相談すべきかと思い悩んでいるうち、振り付け師が来て新曲の振り覚えが始まる。

 かなりのアップテンポでステップや振りも多く、複雑なため色々考える余裕がなくなって一旦はそちらに集中する。

 体を動かしているうちにここ最近感じていたストレスがなくなっていくのを感じた。

 

 やっぱりダンスは楽しい。それに自分に合っている。

 やっぱり人には適性というものがあるのだ。興味本位でたいした勉強もしていない演技

 に手を出したのは間違いだった。

 これを手痛い学びとして今後は歌とダンスに集中しよう。

 そう決めると気持ちがスッキリとした。

 優馬は晴れ晴れした気分でステップを踏んだ。大抵の曲ならば二、三回で振りが入る優馬にとって、新曲の振り覚えはさほど大変な作業ではなかった。

 しかし、淳哉、彰、東條、隼人は何度か確認が必要である。

 グループ内で振りが早めに入るのが拓、秋、優馬、そして遅めなのがこの四人だった。

 

 例えば淳哉などはダンスの精度の高さが評判だが、それは努力の賜物だったのだ。拓や秋のレベルに追いつくべく必死に努力してきたのだろう。

 だから淳哉は誰よりも練習するし、体づくりのための筋トレも欠かさないし、食事にも気を遣っている。そういうストイックさが、きっとリーダーに選ばれた所以だと思う。

 だから、そこまで努力しても鳴かず飛ばずだった頃は相当悔しい思いもしただろうし、

 自分を置いて華々しく売れていった彰への嫉妬心もあっただろう。

 それもあってか、彰加入当時一番当たりが強かったのは淳哉だった。

 それを何とか乗り越えてこの一年頑張ってきたのに、彰の所業でまた一年前に逆戻りである。

 やっぱり事情を聞いてみようか、と思いながら優馬はその日の練習を終えた。

 

 ◇

 

 練習を終えて帰り支度をしていると、不意に彰に話しかけられた。

 

「優馬君、この後暇?」

「ええと、はい。帰るだけですけど」

 

 顔を上げると、ジャージ姿の彰が立っていた。灰色地に黒の縁取りがあるなんてことないジャージなのに、モデルみたいに決まっている。

 制汗剤のいい匂いがした。

 彰はわずかに湿った黒髪をかき上げ、言った。

 

「よかったらこの間言ってた台本(ホン)読みしない?」

「これからですか? あっ、でも僕台本……」

「二冊持ってきた」

「二冊あるんですか?」

「うん。どっかに置き忘れたりとかあるからいつも二、三部作ってる。それ貸すよ」

「いいんですか?」

「うん。そこら辺の空いてる会議室でやろうぜ」

 

 そう言って居残り練習をする淳哉をチラリと見る。淳哉は今日も残って練習していた。

 全身鏡の前で振りのビデオを見ながら細かいところの所作までチェックしている。

 以前ならこういう時、よく彰も一緒に残って練習していたものだった。そして漫才のようなかけ合いをしながらいかにも楽しげに居残りしていたのだ。

 それが今はない。優馬は練習室に他に誰もいないのを確認し、押さえた声で言った。

 

「彰さん……リーダーと何かありました?」

「えっ?」

 

 彰が意表をつかれたような顔でこちらを見る。

 

「いや、何か……いつもと違うんで」

「え、そう? いやいや、何もないよ」

「……見ちゃったんです。一週間ぐらい前、自販機のところで……」

「……ちょっとこっち」

 

 彰が淳哉の様子を窺うそぶりを見せながら、優馬の腕をつかんでスタジオの外に連れ出す。廊下に出た二人は対峙した。

 優馬は腕組みをしてこちらを見据える彰に腰が引けそうになりながらも言った。

 

「相川怜治の役……何で彰さんになったのかはわからないけど、事情があったんですよね? 僕、良かったらリーダーに説明しますよ。何があったんですか?」

「……関係ないだろ」

 

 彰の表情が明らかに固くなる。優馬を拒絶するような雰囲気だった。

 いかにも不愉快そうな表情を向けられ、これまでそんな顔をされたことのなかった優馬は戸惑う。どうやら地雷を踏み抜いたようだった。

 これ以上言ったら嫌われるかもしれない。しかし、言うべきだと判断し、優馬は口を開いた。

 

「関係なくないです。僕もスパロウの一員なんで。その……彰さんはオーディションは個別で受けたんですよね? 日程が合わなくて。それで、それが予想外に良かったから監督が気を変えた、そういうことですよね?」

 

 すると彰は少し意外そうな顔をしてからあいまいに言った。

 

「まあ……そんな感じ」

「だったらそう言いましょうよ。そうしたらきっとリーダーも納得してくれます」

「無理だよ。めちゃくちゃ怒ってるし。ほとぼり冷めるのを待つしかねー。……冷めるかはわかんねぇけど」

「じゃあ僕の方から説明します。そしたらリーダーも聞いてくれると思うし」

 

 そう言うと、彰は怪訝そうに小首を傾げた。

 

「何でそこまでしてくれんの? 無視してりゃいいのに」

「だって……お二人にはうまくいって欲しいんで。リーダーといるときの彰さん、めちゃくちゃ楽しそうだし、逆もまた然りだし。喧嘩は長引かせると良くないですよ」

 

 すると、彰は先ほどまでの不機嫌そうな表情を引っ込めた。

 

「わかった……。多分無理だと思うけど言ってみてくれる? 駄目だったら駄目でいいから。グループ活動にはなるべく支障出さないようにするし、いつかは許してくれると思うから」

「わかりました。お話ししてみます」

「あと、このことは……」

「わかってます。誰にも言いません」

 

 その言葉に、ほっとしたように表情を緩める。まるで陶器のように皺一つない頬に、わずかに笑みが浮かんだ。

 

「ありがと、頼むな。じゃあ台本読み入ろっか」

「はい、よろしくお願いします!」

 

 二人は一度荷物を取りに練習室に戻った。鞄を取って顔を上げた刹那、鏡越しに淳哉と目が合ったような気がする。

 優馬は会釈をして言った。

 

「お疲れ様です。お先失礼します」

「おう、お疲れ」

 

 それに引き続いて彰が声をかける。

 

「お疲れ」

「おう」

 

 返事は何となくそっけなかった。しかし気になるほどではない。優馬がいるからだろう。

 優馬はレッスンスタジオを出て、彰に先導されるまま近くの空き会議室に入った。白い長机がロの字型に並べられた広い会議室だ。壁にかかった時計の針は午後三時を指していた。

 午前九時からお昼を挟んで振り付けを覚えて、終わったのが今の時間だ。このところ夜遅い撮影ばかりだったのでこの時間に仕事が終わるのは嬉しかった。

 

 二人は手前のテーブルに荷物を置き、奥のテーブルに横並びに腰かけた。

 そこは全面ガラス張りの窓に面した席で、窓の外には通り向こうのビルと通りを行き交う車や人が見える。三階なので並木の葉が下の方にあった。

 椅子を一つ空けて隣に座った彰は、二部持ってきた台本のうち一つを優馬に渡した。

 

「はい、これ」

「ありがとうございます」

「ちょっと書き込み入ってるかもしれねえけど気にしないで」

「えっ? コピーの方でいいっすよ」

 

 普段使っている台本を渡されたのかと思い返そうとすると、彰は首を振った。

 

「いや、それ予備の方。ほら、重要なことは予備にも書いとかねーとさ、いざというとき困るだろ?」

「あ、そうなんですね……」

 

 台本を開いてみると、見開きページには相川怜治の生い立ち、およびほかのキャラクターとの関係性までがびっしり書き込まれていた。

 驚いて思わず彰を見てしまう。

 

「これ……」

「ああ、キャラ説明ね。それ俺も教えてもらったんだけど、便利でいいよ。いちいち全部読み返すの面倒だしさ」

「すごいですね」

 

 もう一枚めくると、本文前のページにドラマの監督、演出家の好みの演技、注意点等が箇条書きで書かれている。そのうち一つに「かけ合いのリズムは速すぎないように」というのを見つけ、息を呑んだ。

 これはまさに優馬が何度も注意されたことである。あの時、彰はほとんどNGを出していなかった。それにも関わらず注意をメモし、さらにそれを予備分の台本にまで複写しているのだ。

 彰は天才肌だという思い込みが誤りであったことを今痛感する。彼はある意味淳哉と非常によく似ていた。

 彰の演技はこうした地道な努力の賜物だったのだ。

 

「そんなことないよー。結構皆やってるよ」

「そう、なんですね……」

「よし、じゃあ始めるか。三話分のロケって終わった?」

 

 優馬演じる篠崎純也は三話で依頼人として登場し、四話から事務所の一員となる。しかし、登場回である三話の撮影はまだだった。

 

「明日からです」

「じゃあそこやろうか。とりあえず通してやる? 自分が出てないシーンもやっとくと結構いい感じになるから、最初からやろうか」

「お願いします!」

「じゃあ麗美の台詞読んでみな」

「はい」

 

『探偵・城山霊人』第三話は、純也の恋人・麗美が自宅で何者かに襲われるところから始まる。犯人は顔見知りのストーカーの秋津で、配達員を装ってアパートを訪れる。

 そして鍵を開けさせたところを押し入り、想いを遂げようとするが拒絶され、逆上して麗美を殺してしまう、という典型的なストーカー殺人の話だった。

 このシーンには当然純也は出てこず、台詞もない。また、犯人の台詞もなく、麗美だけが喋る形になる。

 このシーンの台詞は読んだことがなかったが、読んでみるというのも斬新でいいなと思った。

 優馬は、ひと呼吸置いてから麗美の台詞を読み始めた。

 

『はーい。どちら様ですか?……あ、少々お待ちくださーい』

 

 無防備に玄関のカギを開けた麗美は、配達員の顔を見て硬直する。

 この配達員は秋津だが、その正体は冒頭では明かされず、以後カメラはずっと犯人視点となる。

 

『あなたは……』

 

 犯人はドアの隙間に足を差し入れ、無理矢理こじ開ける。その手にはナイフが握られていた。

 麗美がひゅっと息を呑む。

 

『っ……!』

 

 部屋の奥へと逃げ込んだ麗美を犯人がゆっくりと追い詰めてゆく。麗美はとっさにテーブルの上にあったスマホを手に取った。

 そして通報しようとした瞬間、犯人が迫ってきてスマホを取り上げようとし、二人は揉みあいになって床に倒れこむ。

 

『離してっ……嫌だっ……!』

 

 犯人が手を振り上げ、ナイフを麗美に突き立てる。

 

『ああぁぁっ……! ぐっ……うぅっ、純也……』

『はあ、はあ、はあ……』

 

 犯人が麗美から離れる。包丁の突き刺さった腹からはとめどなく血が溢れだしていた。

 犯人はしばし茫然自失の状態でその場に立ち尽くしていたが、ふと我に返ったようにその場を立ち去った。

 麗美は瀕死の状態でスマホに手を延ばそうとするが届かない。

 

『純也……いつか、また……』

 

 麗美はそう囁き、力尽きた。そうして部屋には静寂が訪れた……。

 ここで冒頭のシーンは終了だった。

 息をつき、台本を置くと、彰が拍手をした。

 

「すげー! マジうまい。憑依型っていうの? マジで麗美だった」

「ありがとうございます」

「じゃあ次行く? 純也が探偵事務所に依頼するシーンから」

「はい、お願いします!」

「俺、純也以外全部読むね」

「お願いします」

 

 優馬はそうして二時間ほど、彰に付き合ってもらって台詞回しの練習をした。こうしてやってみると誰かと読む台本は一人で読むのと全然違う。相手との呼吸を合わせて掛け合いをしなければならないからだ。

 こんなことならもっと早くからこういう練習をしておけばよかったと思いつつ、確かな手ごたえを感じ、その日の練習は終了した。

 というよりも、強制的に終了させられたと言った方が正しい。午後五時少し前に事務所の社員がやってきて、ビルを閉めるから帰ってくれと言ってきたのだ。

 それで二人は追い出されるような形で事務所を出たのだった。