その日から、優は山神と友だちになった。
いや友だちになった、と思い込んでいたと言った方が正しい。子供特有の押しの強さと傲慢さで相手を友だちということにしていたのだから。
山頂までに十分ほどの山道から少しそれたところにあるその大木の洞は、優と神さまとの待ち合わせ場所になった。
神さまは行くと大抵迎え入れてくれて、そこで聞いたこともないような面白い話を聞かせてくれるのだった。
そんなふうにして数年が過ぎた頃だった、事件が起こったのは。
いうことをきかずに相変わらず裏山に行く優に家族はこの頃ほとんどお手上げ状態だったが、再三の捜索にもかかわらず不審人物の痕跡が一切出てこないことでちょっとは優の言い分を信じる気になったらしく、東の大木の洞に一緒に来てお供え物をしていったり、神様を決して怒らせないよう言い含めたりするようになっていた。
どうやら彼らにはあの美しい青年は見えないらしく、山神が穏やかな表情でお供え物にそっと触れているのにいつも気づかずに山を下りてゆくのだった。
優は自分の感覚と経験から、この山の守護神が決して怒りで人間を罰することがないのを知っていた。
彼はどんなに愚かしく傲慢な人間が何度同じ場所で遭難しようと、いつも救いの手を差し伸べていたし、そのことに対して憤るようすもなかった。
ただ人間だから間違うのは当たり前だと言って山への冒涜を許してやっていた。事件が起こったその日も、彼はそんな人間を助けに向かっていた。
その日は雨が降っていた。
だいたい、雨の日に山登りなどバカのやることなのだが、足場が比較的しっかりしたルートを知悉している優は懲りずに山神に会いに行っていた。
彼は半ばあきれたような顔をして、それでも優を迎え入れてくれた。
「まったくおぬしは、また雨の日に来て」
彼はそう言いながらも洞に入った優の服を乾かして温めてくれた。
「ごめんって。でもセラに会いたかったんだからしょうがないだろー」
この頃優は山神をセラと呼んでいた。本当の名前はもっと長いのだが――簡単には覚えられないくらい長くて発音も難しかった――、毎回言い間違いをする優に、頭文字をとってセラでいいと相手が言ったのだ。
「生憎だが、今日はあまり相手をしてやれぬと思うぞ。雨の日は忙しいんでな」
相手の言葉通り、優が到着してまもなく異変が起こった。
優とトランプをしていたセラの顔色が変わったのを見て、優はすぐに誰かがまずい状態にあることを察した。
セラはカードを置くと、立ち上がった。
「行かねば」
「優も連れてって」
優は咄嗟に立ち上がってセラの腕を掴んだ。
相手が怪訝な目でこちらを見てくるのに構わず、親を含むほとんどの大人を陥落させてきた頼りなげな眼で相手を見上げた。
「お願いー。ヒマになっちゃうのイヤなんだよー」
相手はしばしの間葛藤していたが、やがて渋々頷いた。
「私のそばを離れないと、約束できるなら連れて行ってやろう」
「するする!」
正直長時間放置されるのが嫌だった優は即答した。
相手はため息をついて、ではいくぞ、と呟き、瞬間移動をした。
神さまだからすごい速さで動けるのは当たり前だが、相手につかまっていれば人間も一緒に瞬間移動ができるというのは驚きだった。
次の瞬間には暗い木々に囲まれた山奥に着いていた。
増水した沢の近くの岩場に臥せっている男は、案の定足を滑らせて滑落したらしかった。
自分も人のことは言えないが、よくもこんな天候の日に山にのぼろうとしたな、と内心思いながら近づいてみると、相手は既に虫の息だった。
多量に出血し、意識もなく、呼吸も微弱――死に瀕した人間を初めて見た優は強い恐怖に、パニックになってしまった。
そして、何とかしなければ、と強い思いでその男に触れた瞬間、彼がひゅっと息を呑み、そして絶命した。
「わっ!」
驚いて尻もちをついた優に気付いたセラが今にもこちらに転がり落ちてきそうな上方の岩を安全な場所に動かそうとする手を止めて振り向いた。
そして、一瞬でそばに来てああ、と息を漏らすような声を出した。
「優……」
「あの、優っ、優っ、だいじょうぶかなって、ちょっと触ったら、あの、そのおっちゃんがっ」
必死に弁明する優に、セラは安心させるように優しく言った。
「だいじょうぶだ、彼はそうなる運命だった」
しかし彼の目はそれが真実ではないと言っていた。
「優っ、優何もっ、何もしてないよっ!」
「優、おぬしは何一つ悪いことはしていない。けれど今日はもう帰るのだ。少し用ができたのでな。今日中には帰れぬ」
勢いを増してきた雨の中で一切濡れていない衣を身に纏った光の君子が手を差し出してくる。優を麓まで送るつもりだろう。
少し躊躇したが、それでも自分がしてしまったかもしれないことと向き合うのが怖くて、一刻も早くこの場を離れたくて、優はその手をとった。
次の瞬間、優は山の入り口に立っていた。
◇◇◇
その日は眠れなかった。
沢に落ちた登山客を自分が殺してしまったということは直感的にわかっていたから、いつ発見されるだろうとそればかりを気にしていた。
あのとき、彼は確かに生きていた。優とセラが到着した時は、死にそうだったが息はあった。
それが、優が手を触れた瞬間に死んだのだ。偶然とは思えなかった。
いったいあれは何だったのか、あのとき自分は何をしてしまったのか、わからないことばかりで、ぐるぐる堂々巡りの自問が続いた。
眠れぬ一夜を過ごし、優が下した決断は、通報することだった。
あのときは恐ろしくてとても親に言い出せなかったが、しかし亡くなっていたとしても発見されるのが早ければ早いだけいい。
優は勇気を振り絞って、親に昨晩の出来事を話した――もちろん、自分が手をかけたということを除いて。
「母さん……ちょっと話したいことがあるんだけど」
その日はちょうど日曜日で、平日働きに出ている母親が家でのんびりしているのも幸いした。
優は居間のローテーブルでお菓子片手に映画鑑賞をしている母親にそう話を切り出した。
「なに……? っていうかあんた、昨日山で遭難した人に会わなかった?」
以心伝心――まさに俺が今言おうとしたことを母は言い当てた。
「どうも連絡がないらしいんだよ。この辺の人じゃないから昨日はあんまり騒ぎにならなかったんだけど」
「うん、そのことなんだけどさ……」
「なに、やっぱ見たの?!」
リラックスモードだった母が真剣な表情になってこちらを向いた。その表情に気圧されながらも、優は何とか口を開いた。
「うん……|羽金沢《はがねざわ》の上の方で……亡くなってた」
「何で昨日言わなかったのっ!」
顔を青くした母親はスナック菓子を放って立ち上がり、すぐに電話をかけはじめた。
「はい……はい、地元の者ですが、ええ、昨晩息子が偶然登山していた方を見ていまして……羽金沢の上流だと言っていました……。
ええ、それがもう亡くなっていたと………申し訳ありません、何分まだ小学生ですので、ショックで言えなかったのだと思います……。
ええ、山登りが好きでしょっちゅう……それは存じてませんでした……ええ、申し訳ありません。はい、はい……わかりました、すぐ支度させます」
電話を切った母親は、少し疲れたような表情で近づいてきて、膝をついた。
「優……ごめんね、ちょっと今お母さんもびっくりしちゃって……怖かったよね、ごめんね」
そう言って抱きしめられた瞬間に、優は嗚咽を漏らしていた。思った以上にショックを受けていたらしい。
しゃくりあげる優に、母は優しく言った。
「怖かったね、よく頑張ったね……でもね、倒れていても亡くなっているとは限らないから、そういうときは言わないとダメだよ」
「ううん、死んでた……セラと一緒に確かめたから」
母親は一瞬驚いたように優の顔を見たのち、そう、とだけ言った。