6-2

「ラザロ……」
「信!」

 部屋の扉を開けて入ってきたラザロは全身血だらけだった。
 ジャケットとその下の防弾チョッキがしとどに濡れている。
 信はそのことに恐れおののいた。

「ラザロ、傷が……」

 あまりに動揺して英語で話すことすら忘れる。
 ラザロは駆け寄ってきて信を抱きしめた。
 動けているところを見るとすべてがラザロの血というわけでもなさそうだが、確実に怪我はしているようだった。
 ラザロは片手に銃を持ったまま信を強く抱いた。

「ラザロ、手当てしないと……」

 しかしそれには答えず、ラザロ体を離して信をじっと見つめた。
 透き通るようなスカイブルーの目は狂おしく信を求めていた。
 そうして口を開く。

「信……俺を愛してる?」

 その問いに信は頷いた。

「愛してるよ」

 その瞬間、ラザロが泣き笑いのような表情を浮かべる。ずっとこの言葉が欲しかったのだろうな、と思った。
 誰にも愛されず、孤独に育った子供。暴力でしかその寂しさを紛らわすことのできなかった男。
 その男が再会して開口一番聞いたのは、自分を愛しているか、だった。

「俺も、愛してるよ。愛してる、信」

 そうしてキスをされる。キスは、血の味がした。
 ラザロは信の背信を微塵も疑っていなかった。状況から考えれば十分にありうることだっただろうに、信を信じて助けに来てくれた。
 あるいはラザロのこういうまっすぐさと強さに惹かれたのかもしれない。
 同情から入った関係だったが、付き合いを続けるうちどんどん惹かれていった。
 そして今は一番大事な人になっていた。
 キスを終えると、ラザロは信の足枷からベッド足に伸びた鎖を銃で撃ち抜き、行くぞ、と言った。

「応援が来ないうちに離れないと。歩けるか?」
「うん」

 そうはいったものの、二か月外に出ていないせいで足元がおぼつかない。
 ラザロに手を引かれながらなんとか一階に着いた時には息が切れていた。
 階段にも、降りた先の廊下にも浩二の部下らしきスーツの男達が死屍累々と倒れている。
 もしかしたらラザロの部下もいるかもしれない。
 その非現実的な光景に気が遠くなりながらなんとか進むと、一階の応接間で倒れている浩二を発見した。

「浩二さん!」

 信は思わず駆け寄ってそばに跪いた。浩二は目を見開き、頭から血を流してこと切れていた。
 手にはまだ拳銃が握られている。
 ついさっきまで話していた相手が死んでいる。
 その事実に動揺しすぎてパニックになった信は、詮無い問いだとわかりながらもこう聞かずにはいられなかった。

「何で……何で殺したの?」
「……そうするしかなかった」
「殺さなくてもよかったのに!」

 そう言って睨むと、ラザロは何ともいえない表情になった。

「ハタケヤマのこと、憎んでたんじゃなかったのか……?」
「憎んでないよ!」
「じゃあ愛してる?」
「愛してはいない」
「……だったらなぜ気にする?」
「気にするよ! だって人が亡くなったんだよ、平静でいられるわけない……」

 すると、ラザロが嘆息した。

「お前の世界ではそうだろうな。だけど俺たちの世界では違う。殺すか殺されるかしかない。信は、俺が死んだ方がよかったか?」

 信が首を振ると、ラザロは腰をかがめて手を差し出した。

「ほら、行こう」

 信は無言でその手を取り、立ち上がった。そしてラザロの後について屋敷を出る。
 久しぶりの外の世界だった。
 冬真っ只中で、空気は凍り付くほど冷たい。ぶるりと体を震わせると、ラザロがジャケットを脱いで肩にかけてくれた。
 だがそのジャケットも血まみれである。
 これがラザロの血ではないことを祈りながら礼を言うと、ラザロが一緒に来ていた部下に言った。

「撤収するぞ」

 その声に、男たちは一斉に止めてある二台の黒いバンに分乗して乗り込み、扉を閉める。
 信もそのうちの一台へラザロと共に乗り込んだ。
 スライド式の扉が閉まり、即座に車が発進する。
 窓の外を見ると、畠山邸が後方に流れ去って見えなくなった。
 ため息をついてそこから視線を戻すと、隣に座ったラザロが言った。

「生け捕りにできればよかった。ごめん」
「……大丈夫。こちらこそごめん」

 そう言ってラザロを見ると、今更のようにその傷が気になりだした。
 防弾チョッキの下は見えないが、腕の部分はシャツの柄が見えないほどに出血し、シートに背を預けて肩で息をしている。
 顔も血の気が引いて真っ白だ。
 止血しないと、でも布がない、と思っていると、ラザロはおもむろにポケットからハンカチを取り出し、自分でそれを左腕と右肩に巻いて止血した。
 ベージュのハンカチは即座に赤く染まった。

「ラザロ、病院行かないと」
「貫通してるから平気だ」
「でも……」
「拠点に戻ったら自分で手当てするから大丈夫。こういうの、慣れてるから」

 しかしとても大丈夫とは思えない。信は考えた末に言った。

「ラザロ、お金ある?」
「いくらかは」
「お金さえあればかくまってくれるところを知ってる。医者もいる」
「……どこ? いや待て、今は言うな」

 そう言って周りの男達を目で示す。
 どういう意味かと首を傾げると、ラザロは顔を近づけて耳打ちした。

「こいつらは雇った連中だから信用できない。車に乗り換えてから」
「雇った? 部下じゃないの?」
「違う。現地調達した傭兵。だから金で簡単に裏切る」

 部下だと思っていた男達は部下ではなかった。とすると本当に一人で来たのだ。
 部下を連れてこれなかったということは、それなりの事情があるのだろう。

「……そっか」
「レンタカー借りて近くに置いてあるからそっちに乗ってから話そう」

 ラザロの言葉通り、五分ほど走った先の河原には一台の白い車が置いてあった。
 ラザロと信はそこでバンから降りて男達と別れ、その車に乗り込んだ。

「運転するよ」

 運転席に乗り込もうとしたラザロを制して言うと、相手は頷いて助手席に乗った。
 そして深々と息を吐き出す。かなり体がきつそうだった。

「あの……部下はどうしたの? パウロさんとか」
「ああ。あいつらは部下じゃなくなった。俺は不適格ってことで後継者の資格を剥奪されたから」
「まさか、私と逃げようとしたせいで?」

 すると、ラザロは安心させるように笑って見せた。

「お前のせいじゃねえよ。元々そんな資格いらねえし使う気もなかったし」
「……ビデオ、観たよ。あの時の傷は?」
「ああ、もう平気。で、かくまってくれる場所って?」
「前に働いてた玉東のお店。白銀楼っていうんだけど、流連(いつづけ)っていう客が泊まれるシステムがあって、それでかくまってもらってる人を何人も見たことがある。支配人はお金に目がないから、お金さえ積めばかくまってくれると思う。それに、ちゃんとしたお医者さんもいるし、近くに病院もあるし」

 信の提案にラザロは微妙な表情をして顎に手を当てた。

「……どうかな。金に目がないってことは、簡単に買収されるってことでもあるから……」
「けど、九龍には買収されないと思う。あそこは別のヤクザが仕切ってるから」
「でも九龍を敵に回すようなことをするか? 信、話はありがたいけどやっぱり俺の拠点に行こう。その方が確実だ」
「……でも治療は?」
「自分でやる」
「……わかった」

 信は最終的に折れ、ラザロに従った。怪我は心配だが無理矢理行かせることもできない。
 そうしてラザロの指示に従って車を運転し、都心から少し離れた住宅街の外れにある古い一軒家に向かった。
 平屋建てのその家は、もうだいぶ前に家主が出て行ったらしい廃屋だった。
 だが室内は片付いていて生活できるようになっている。ラザロがしばらく住んでいるのだろう。
 玄関で靴を脱ぎ、上がり框を上がると廊下があり、それがリビングダイニングへと続いている。
 二人は懐中電灯の明かりを頼りに廊下を進み、リビングに入った。
 そこは合わせて二十畳ほどのこぢんまりしたリビングダイニングだった。
 入ってすぐのところにダイニングが、向かって右手にリビングがある。そこが生活空間のようで、シートが敷かれて雑多な生活用具や武器が置かれている。
 室温は外気とほぼ同じで、凍り付きそうなほど寒い。
 ラザロは床置きのランタンをいくつかつけると、懐中電灯を切って石油ヒーターのスイッチを入れた。
 すると部屋が明るく、暖かくなり始める。
 ラザロは防弾チョッキを脱ぎ、ソファにどさりと座った。

「座って」

 頷いて隣に腰を下ろすと、部屋の全貌が見えた。
 どうやら左側には掃き出し窓があるらしく、天井から床までのカーテンがかかっている。カーテンは閉まっているが、そのカーテンレールには男物のジャケットやシャツ、コートといった衣類がかかっていた。
 ソファの向かいの壁にはテレビ台があり、後ろには納戸がある。
 テレビはないがテレビ台の前には昔の住人の子供のものであろうぬいぐるみが落ちていた。
 今いる場所はリビングの中央で、ソファはテレビ台に向くようにして置いてあり、その前にはおそらくローテーブルがあったのだろうが、持ち主が持っていったらしくなかった。
 代わりに寝袋と卓上コンロなどの生活用品、そして銃器を置くスペースになっている。
 
 辺りを見回していると、ラザロがそばの救急箱を取って止血帯にしていたハンカチをほどき、シャツを脱いだ。
 その上体が露わになった瞬間、息を呑む。酷い惨状だった。
 まだみみずばれややけどの跡が残る体に二か所、血の穴があいている。
 右肩と左腕だ。それに、頬にも銃でできたようなかすり傷がある。
 その体を見た時、ラザロは銃創だけで苦しんでいるのではないとわかった。
 まだ拷問を受けた時の傷が完治していないのだ。
 それなのに、信を助けに来た。
 そうまでしてくれたのに、自分はなぜ浩二を殺したのかと詰ったのだ。

「最低だな……」
「ん?」

 日本語で呟くと、淡々と傷の処置をしていたラザロが顔を上げる。

「いや、なんでもない」
「この先どうするかだけど……」

 眉をしかめ、傷口にドバドバ消毒液をかけながらラザロが言う。

「ここに長居はしない。避難先を見つけてある。だから今晩出発しよう。航空チケットももう取ってある。メルボルンだ」
「今晩って……そんなに早く? ちょっと休んでからの方が……」

 信はソファそばのサイドテーブルに置かれた時計を見た。ラザロが持ち込んだものらしく動いている。
 その時計が指す時刻は午前四時前。夜まであと半日しかない。
 だがラザロは首を振った。

「なるべく早くここから離れるべきだ。長くいればいるほどリスクは高くなる。怪我は大丈夫だから。信こそ平気か?」
「うん、大丈夫。ラザロに比べたら全然……」
「でも、ハタケヤマに酷いことされてたんだろ? ちょっと傷見して」

 ラザロは腕と肩を包帯でぐるぐる巻きにして新しいアイボリーのシャツを羽織ると、信の方に手を伸ばした。

「いや、大丈夫」
「いいから見せて」

 押し切られて渋々ラザロが貸してくれたジャケットとその下のパジャマを脱ぐ。
 鞭打たれた痕は残っていたが、傷になるはどでもない。
 浩二は信を長くいたぶるために深い傷を、最初に激怒したとき以来付けていない。
 そしてその傷はもう完治している。
 信の怪我がたいしたことないことを確認したラザロはパジャマを返した。

「大丈夫そうだな。よかった。どんなことになってるかと思ったが……。薬物は? 何か打たれたりしたか?」
「ううん」
「そうか。でも今晩は疲れただろう? ちょっと寝た方がいい。ソファ使って」

 そう言って立ち上がろうとするラザロを押しとどめる。

「いいよ。ソファはラザロが使って。そんな怪我人を床で寝させられないよ」
「別に寝袋あるからいいけど」
「駄目。今日はそこで寝て」

 すると再びソファに座らせられたラザロはぼそっと言った。

「優しいな」
「普通だよ」
「普通じゃねえよ」

 そしてラザロはサイドテーブルのペットボトル水で何か薬を飲んだ。痛み止めかなにかだろう。

「その辺の、適当に飲み食いしていいから。口に合わないかもしれねえけど」
「うん、ありがとう。じゃあお水もらうね」

 床には十本程度のペットボトル水と携帯食が置かれていた。食事らしいものは何もない。
 ラザロはどのくらい長い間ここでこうして生活したのだろう。
 信はそう思ってソファに横になったラザロの顔を見た。
 長いまつげが目元に陰影を落とすその顔は紙のように白い。
 元々色白だが、今はそれを通り越して青かった。完璧な造形もあいまって、まるで彫刻のようだ。
 思わず手を伸ばしてその頬に触れると、ラザロが顔をこちらに向けた。
 まっすぐ見上げてくる目を見て言う。

「あの……さっきはごめん」
「さっき?」
「うん。浩二さんの家で取り乱してしまって。ああいったことは経験がなかったから動揺して」
「いい。ほらこっち来い。一緒に寝よう」

 信の手を取り、自分の方へ引き寄せた。

「でも、狭いよ」
「こうすれば大丈夫」

 ラザロはそう言ってソファの背もたれのクッションを外し、床に放った。
 そして場所を開けて信が寝られるようにする。
 信は細心の注意を払ってラザロの上に乗らないようにし、そこに横になった。
 すると髪を撫でられ、キスされる。それは触れるだけのものではなく、思ったより情熱的だった。
 舌を絡めて応じると、ラザロが吐息を漏らす。目をつぶり陶然とした表情はとてつもなく色っぽかった。
 それ以上のこともしたくなるが、満身創痍のラザロにそんな無理はさせられない。
 信はある程度のところで身を引いた。
 するとラザロが不満げにこちらを見る。

「なに、終わり?」
「だって怪我してるし、寝ないと……」
「信が乗ってくれれば問題ない」
「えっ? 私が抱くってこと?」

 信の言葉にラザロは噴き出した。

「いやいや。騎乗位だよ、き・じょ・う・い」
「……」
「頑張ったんだからご褒美くれよ」
「……いいよ。でも傷に障りそうだったらやめるから」
「オッケーオッケー。ほら乗って」

 言われた通りに服を脱ぎ、体重をかけないように腰の上に乗る。
 するとラザロは信の腰を掴み、顔の方へ引き寄せた。

「えっ、何?」
「前戯もせずに突っ込むワケねーだろ、童貞じゃねーんだから。最初はここ可愛がってやらなきゃなあ?」

 そして躊躇せずに信のものを咥えた。
 熱い口腔粘膜につつまれてびりり、と電流が背筋を走る。
 ラザロが舌を使いだすと、快感がさらに増し、硬くなってくる。
 舌を絡めてしごき、先端を吸い、隅々まで舐めしゃぶる。その快感に、信は思わず吐息を漏らした。

「はっ……」

 ラザロはそれを見て満足げな表情をし、それを咥えたままサイドテーブルの引き出しからジェル付きのコンドームを取った。
 そしてそれを指にはめ、信の後ろにゆっくり挿れた。

「んっ……うぅっ……」

 指はゆっくり進み、奥まで到達するとやがて一点を見つけてやんわりそこを押す。そこは信の前立腺だった。
 普通の人間より奥にあり、抱かれる側であまり快感を感じることがない信のその場所をラザロは完璧に把握している。
 だから、ラザロは信が受け身で感じられる数少ない相手だった。
 ラザロは口の動きを再開し、後ろと同時に責めた。
 くちゅくちゅといやらしい音が響き、徐々に指が増やされて動きも激しくなる。
 信はラザロの顔の両脇に膝をついて腰を浮かせながらかすれた悲鳴を上げて達した。
 するとラザロは出たものをすべて飲み下し、唇をぬぐってにやりと笑った。

「美味かった」
「はあ、はあ、はあ……」

 ラザロはチャックに手をかけ、自身を取り出すと、息を整えている信の腰を持ち上げてその上に乗せた。

「ゆっくり腰下ろして」
「はあ、はあ……」

 言われた通りにすると、圧倒的な質量のものが入ってきて奥のしこりを抉った。

「んっ」

 体重をかけないように慎重に根元まで入れる。すでに敏感になった体には辛いぐらいの刺激だった。

「あっ、あぁっ」
「いい眺め。綺麗だよ」
「んっ……ラザロもね……。体……痛くない?」
「大丈夫」
「じゃあ、動くよ……んっ……」

 信はゆっくり腰を動かし始めた。自分の重みで内奥が抉られ、快感の電流が背筋を抜ける。
 ラザロを見ると、薄い唇をわずかに開けて吐息を漏らしていた。
 その匂い立つような色香に、腰がずくりと疼く。抱いたらどんな顔をするのだろう、と考えながら信は動き続けた。
 途中から下から突き上げる力も加わり、信は再び達した。
 その際の締め付けで刺激されたのか、ほぼ同時にラザロも達する。
 ゴムを着けてくれたらしく、中には出されなかった。ラザロはマナーだと言っていつもゴムを着ける。
 一見粗野に見えてそうやって気遣いができるところも好きだった。
 信は後ろからそれを引き抜き、身をかがめてラザロにキスをした。そして囁くように言う。

「愛してる」
「俺も愛してる」

 ラザロは満ち足りたような顔になってそう言った。

「おやすみ」
「おやすみ」

 隣に横になるとラザロは毛布を引っ張り上げ、信の額にキスをした。信は相手に身を寄せ、目を閉じる。
 そうして二人は互いの温もりの中で眠りに落ちたのだった。