その晩、アルは結局姿を現さなかった。車でラザロと信の脱出を手助けするはずだったのに来なかったのだ。
そしてパウロの家に避難した二人が翌日になって知ったのは、アル一家がルカの部下に誘拐された、ということだった。
どうやらラザロの屋敷が襲撃を受けた直後にアルも自宅で襲われ、妻子と共に連れ去られたらしいのである。当初おそらくこの誘拐は保険だったのだろう。ルカの身に何かあった時のための交渉材料だ。
そして危惧した通りルカが人質になった時、部下たちはその切り札を使って交渉しようとした。アルがマウリの腹心の部下であることを知っていたからだ。
だがその時に対応したのはラザロだった。ラザロは一匹狼であり、アルのことを何とも思っていない。だからアル一家は交渉材料にならなかった。そしてそのまま連れ去られたのである。
これは非常に不穏な展開だった。
アル一家に利用価値がないと判断された場合、彼らの身が危険に晒される可能性が高くなるからだ。
信は早くマウリが戻ってくれることを願っていたが、一向にその気配はなかった。
襲撃から二日経ってもラザロはラザロのままだった。そしてファミリー内の内通者を吐かせるという名目のもと、嬉々としてルカを拷問している。正直これは見過ごせなかった。
確かにラザロはルカから凄惨な拷問を受けた。全治三か月の大怪我を負わされ、焼印を押され、力づくで忠誠を誓わされた。
その仕返しをしたいのはわかる。
だが明らかにやりすぎなのだ。朝から晩までルカを監禁した地下室にこもり、まるで玩具のように色々な方法で苦痛を与えてはその反応を見て愉しんでいる。
ラザロがルカを殺してしまわないようにいざとなったら止めようと付き添った信が最初の数時間でその場にいることが耐えられなくなるほどにラザロは容赦なかったのである。
彼は腕を折られた仕返しとばかりにルカの脚の骨をハンマーで叩き割り、水責めし、鞭打ち、さらには爪を剝がしにかかった。
さすがに止めようとしたが、ラザロは聞かなかった。どころかすごい目で信を睨みつけ、やられた分やり返しているだけなのになぜ止めるのか、と低い声で聞いてきたのだ。
信は恐怖でそれ以上何も言えなくなった。そのときのラザロの目は、がらんどうの暗闇だったのである。
その目の奥から深淵がこちらを覗いていた。
信は恐怖から過呼吸の発作と立ちくらみを起こし、耐えきれずに地下室を飛び出した。
以来二日間、地下室には行っていない。怖くて行けなかったのだ。
その間はパウロがついていてくれたが、聞いた感じラザロの暴力はどんどんエスカレートしているようだった。
それで三日目の朝、つまり今朝、信は覚悟を決めて地下室へ行った。これ以上引き延ばしたらルカの命が危ないと思ったからだ。
ルカが閉じ込められている地下室に降りてみると、思った以上に酷い惨状になっていた。
元は備品倉庫として使われていたらしい石造りの暗い部屋で、ルカは虫の息だった。
鎖で手足を拘束され、暖房もないひえびえとした部屋の床に転がされている。
傷だらけで、顔は人相がわからないほど腫れあがり、唇は切れて血がこびりついている。
そして上半身は裸で、さまざまな色と大きさの痣と裂傷に覆われていた。
下半身からも出血があり、ズボンがあちこち切り裂かれている。
その姿を一目見た時、信はルカが死んでいると思った。
「あ……あ……」
頭が真っ白になって何も考えられない。
また自分の周りで人が死んだ。自分がラザロを止められなかったから、怖気づいてこの場を離れてしまったから、ルカは残酷にも嬲り殺された――。
そう思ったとたんに足の力が抜けてその場にへたり込みそうになる。かろうじて立っていられたのは、同行してくれたパウロが支えてくれたからだった。
パウロは信の体を引き上げると、跪いてルカの首に指を当て脈をチェックした。
「まだ生きてますよ」
「っ……!」
「だが処置をしなければ長くはないでしょうね。医者を呼びますか?」
「病院に連れて行きます」
「ですが……」
ラザロに手当てはするなと言われている。だがそんなわけにはいかなかった。
ルカをここで死なせるわけにはいかない。ラザロがまだ寝ている早朝のうちに運び出すしか方法はないのだ。
朝早くに地下室に来たのはそのためだった。
信は躊躇なく携帯を取り出し、救急車を呼んだ。
「すべて私が独断でやったことにします。だからパウロさんはもう行って」
「でも……」
「いいから。ほら行って」
信が促すと、パウロはためらったのち頷いた。
「こちらのファミリーがいつも利用している病院が近くにあります。そこなら通報されないのでそこに運んでください」
「わかりました」
その病院の名前を聞き、パウロを見送って地下室に戻るとルカが意識を取り戻していた。
駆け寄ってそばに跪くと、ルカはこちらを見上げ、わずかに皮肉っぽい笑みを浮かべた。
「くたばるのを見に来たか……それともとどめを刺しにきたか」
「救急車を呼んであげてもいいですよ」
その言葉にルカがわずかに瞠目する。
「……条件は?」
「真実がほしい。聞きたいことがあります」
「何だ?」
「サムエーレ君を虐待したかどうか。それが聞きたい。正直に答えてください。これまでにサムエーレ君を身体的、あるいは性的に虐待したことがあるか。もし嘘をついたら救急車は呼びません」
「虐待……? そんなことをするわけがない」
「暴力を振るわなくても、無理矢理じゃなくても、子供を手懐けて欲望のはけ口にしたら虐待ですよ。それ知ってますか?」
するとルカは呆れたように鼻で笑った。
「またその話か。どんだけこだわるんだよ? 手は出してねえっつってんだろうが。そんなことは考えられない。考えたこともない」
「本当に?」
「本当だ。聞きたいことはそれだけか?」
「もう一つ……あなたはラザロがロマーノさんにされていたことを知っていましたよね?」
「……何のことだ?」
「知っていたはずだ、あの屋敷の『別館』に行ったことがあるなら。サムエーレ君からだって聞いたでしょう?」
「……サミーは知らない」
それは、信の問いを肯定したも同然の答えだった。ルカは虐待の事実を知っていたのだ。
孤児を引き取る慈善家として知られたロマーノが陰でその子たちを欲望のはけ口にしていたことを知っていた。
知っていて何もしなかったのだ。そのことに腸が煮えくり返る。
これほど腹が立ったのは久しぶりだった。
信はルカを見据えて静かに聞いた。
「知っていてなぜ介入しなかった? あなたにはそれができたはずだ」
「……父には言った。だが、口を出すなと言われた」
「それであっさり引き下がったのか? あんなに汚らわしいとかなんとか言ってたのに」
「父達には逆らえない」
今度は信が相手を鼻で笑う番だった。
「その程度の男がドンの息子とはね。あなたはトップにはなれない。例え向こうに戻れたとしてもね」
「何だと?」
「自分の意志も貫けないような人は天下を取れないよ。それに自己中な人間も。サムエーレ君を独占できればそれでよかったんだろ。最低だな」
吐き捨てるように言うと、ルカは信を睨みつけた。
「よそ者が口を出すな。何も知らねえくせに。話はもう終わりだ。殺すなら殺せ」
ルカはそう言って目をつぶった。だが信は話を続けた。
「『最大の悲劇は悪人の残酷さではなく、善人の沈黙である』」
「いきなり何を言い出す? 説教でも始める気か?」
「あなたはラザロをこそ助けるべきだった。だけどそうしなかった。性犯罪者を野放しにして子供たちを犠牲にした。何人も、何十人も。そしてラザロが苦しんでいるのをただ黙って見ていた。傍観というのは一番質が悪い。あなたは……あなたの立場なら、ラザロを助けられたはずだ。だがあなたは手を差し伸べなかった。私はそれを許さない。……一生」
「……」
「ラザロはあなたからの愛を欲していたのに無視された。だから誰のことも信じられなくなって、暴力という手段でしか社会に所属できなくなってしまった。それはとても哀しいことだよ。……だけど今からでも遅くはない。ラザロを愛してあげてほしい。サムエーレ君やマウリと同様に」
「はっ、そんなのラザロが求めてない。あいつが執着してるのはお前だろ? お前がお得意の手法で『癒して』やればいい」
そうではない、と信は首を振る。ラザロがこれほどルカを憎んでいるのはそこに感情があるからだ。
「あなたはラザロにとっても特別だ。それは見ていてわかる。その胸の印――どうでもいい相手にそんな印は刻まない」
そう言ってルカの右胸に押された焼印を見る。それはルカがラザロに押したのとまったく同じ鷲と盾と剣の紋章――バルドーニ家の家紋だった。これは間違いなく所有印である。
二人が互いの胸にその焼印を押した意味は明白だった。
「単に仕返ししただけだろ。笑いながら押してたよ。あいつはマジでぶっ飛んでやがる」
「そんな単純なことじゃない……」
ルカとラザロの間には断ち切れない絆がある。それが憎しみという形をとっていようと、それは他の誰の介在も許さぬ深い絆だ。それを見せつけられた気分だった。
「おい、いつまでグダグダ喋ってんだよ。俺を罰したいなら殺せばいいだろ。正直このまま嬲り殺されるよりはそっちの方がマシだ。あいつは俺を生かす気なんてさらさらねえしな」
「いや、殺さない」
「フン、だったらさっさと失せろ」
「だから救急車呼ぶって言ってるだろ? その代わりに誓ってほしい」
「何を?」
「ラザロとマウリとサムエーレ君に、一生の忠誠を。そしてラザロを愛する努力をすることを」
するとルカはつぶやくように言った。
「サムエーレにはとうに誓っている。だからまあ……同じ体を共有する二人にも実質的にはそういうことになるんじゃないか?」
「……?」
「父かサムエーレか、どちらか選べと言われたらサムエーレを選ぶ。それはもう決まっている」
「それほどに……?」
ルカは再び目を閉じて静かに言った。
「ああ、愛している。俺はずっとサミーのそばにいる」
「でもご家族は? 奥さんも子供さんもいるのに」
「ただの政略結婚だ。別居してたし、妻にも子供にもたいした思い入れはない。俺にはサミーだけだ」
「……その言葉を信じるよ」
そう言ったとき、遠くからかすかに救急車のサイレンが聞こえてきた。信は立ち上がってルカを一瞥し、地下室を出て救急隊員を迎えに行ったのだった。
◇
ラザロが病院に来たのはそれから三時間後だった。
ルカはその頃諸々の検査と診察を終え、入院病棟に移されていた。
ルカに下された診断は全治三か月で、主要な臓器の損傷はなかったが、左足の粉砕骨折は手術を要する重傷だった。ラザロがハンマーでかち割った方の脚だ。
医者は一目見て事件性のある怪我だとわかっただろうが何も言わずに応急処置をし、三日後に手術とだけ伝えた。ファミリーのかかりつけ医だからこういう怪我は見慣れているのだろう。
ルカはそれから入院病棟の個室に移された。
幸いラザロに貰った偽造パスポートとクレジットカードかあったので入院手続きをして生活用品等入院に必要なものを院内の売店で買い集め、病室へ戻った。ラザロが現れたのはまさにそのときだった。
「ラザロ……」
廊下の向こう側から歩いてくる金髪の男に、信は病室の入り口の前で生活用品の入った袋を持ったまま固まった。
ラザロには復讐の邪魔をするなと言われている。にもかかわらず無断でルカを入院させたのだ。激怒しても不思議はない。
またあの目で、恐ろしい虚無の目で見られるのだろうか、と背筋が寒くなる。だが何を言われようと引き下がる気はなかった。
ルカは絶対に死なせない。もうこれ以上自分の周りで人が死ぬのは嫌だった。
ラザロが一歩、また一歩と近づいてくる。傍らにはパウロもいた。
まさかルカを連れ戻す気だろうか? 二人がかりで来られたらこちらはなすすべがない。その時はどうするか……大声で警備員でも呼ぶべきだろうか、と色々考えていると、ついにラザロが入り口前まで来た。
今日は普段着姿で、アイボリーのタートルネックに茶色のコートを羽織っている。
ラザロは目の前まで来ると立ち止まった。そして口を開いた。
「おにぃちゃんはどこ?」
「っ……サムエーレ君?」
「うん」
それは、ラザロではなかった。その分身の幼い子供、サムエーレだったのだ。
「この部屋にいるよ。ちょっと怪我しちゃったみたい」
「怪我……?」
サムエーレは不安そうな表情になって病室のスライドドアを開け、中に入った。そして声を上げる。
「おにぃちゃん!」
「……サミー?」
「おにぃちゃんどこ行ってたの!」
サムエーレはベッドに駆け寄り、上半身を半分起こしてベッドによりかかっているルカに抱きついた。
「元気だったか、サミー。ごめんな、迎えに行ってやれなくて」
「うわああぁぁん」
ルカは泣きだしたサムエーレの背中をポンポン叩いてやりながら、柔らかい声で慰めの言葉を何度も囁いた。
呆気に取られて見ていると、後から病室に入ってきたパウロが扉を後ろ手で閉めて言う。
「今朝起きたらサムエーレさんでした。すぐに連れ出したので他の奴にはバレてません」
「ありがとうございます。いつも助かります」
ラザロの屋敷が襲撃を受けたため、自宅警備についていたパウロ以外の部下たちも一緒にパウロの家に移動している。
家はごく普通の一軒家で、部屋が何部屋もあるわけではないため、屋敷にいるときよりも格段にマウリに人格がいくつもあることがバレる危険性が高くなる。そのため、パウロと信は交代で常にラザロに付き添っているのだった。
パウロはナポリにいた頃からの側近ですべて心得ているため、アルがいなくなった今となってはとても心強い味方だ。ナポリでは主にこの二人が付き人をしていたようだった。
「まあひとまずよかったですね、サムエーレさんが出てきてくれて」
「ええ。ラザロだったらすぐにでも退院させそうだし……。でも本当に仲良いんですね、ルカさんと。昔からですか?」
「そうっすねえ……自分がボスに出会ったのって十三とか十四とかでしたけど、その頃にはもうあんな感じだったと思います。初めてっすか? お二人見るの」
「はい」
するとパウロはしたり顔で頷いた。
「いやびっくりしますよね。自分も最初見たときはめちゃくちゃビビったというか……だからわかります」
ともすれば恋人同士にも見える距離で再会を喜び合う二人に、嬉しい気持ちもありながらもどこか複雑だった。
サムエーレがあんな顔を自分に見せたことはない。あんなに泣いて自分を求めてくれたこともない。
この光景がなにより雄弁に、信がルカの代わりにはなれないことを物語っていた。
「おにぃちゃん、けがしちゃったの?」
「ああ」
「なんで? ぼくを助けにきたから?」
「違うよ。階段から落ちたんだ。俺も人のこと言えないな、いつもお前に怪我に気を付けろとか言っておいて」
「ふふっ、そうだねー。おにぃちゃんも気をつけないとだめだよ。あのね、ぼくね、ぼくね、へんな家でつかまってたんだけど、出られたんだよ。あのおじさんが助けてくれたの」
サムエーレがそう言ってパウロを指さす。すると、ルカは今まで見たこともないような柔らかい表情でサムエーレの頭を撫でた。
「よかったな。ずっと心配してたんだ。これからは一緒にいられるな」
「うん! ぼくねー、ぼくねー、看病してあげる。そしたらきっとすぐに治るよ!」
「ありがとな。ここに泊まるか?」
「うん泊まる!」
「じゃあベッドもう一つ入れてもらおうな。――おい、それでいいか?」
そう聞かれ、頷く。
「いいよ。だけど私も泊まる」
「なぜだ?」
明らかに不満げなルカに若干苛立ちながらわけを話す。
「だって明日の朝、もし他の誰かが目覚めたら困るだろ?」
もしラザロが今現れたらルカの命はないだろう。そんなことは誰にでもわかる。
それなのにルカは全くその心配をしていないようだった。
「サミーはしばらくいるよ。だろ?」
ルカがサムエーレに問うと、サムエーレはニコニコとルカの手を握りながら頷いた。
その手を掴んで引き離したい衝動をこらえながら物わかりの悪いルカに強めの口調で言う。
「でもゼロパーセントじゃない。あなたにもしものことがあったら困るから残る。お金出してるのは私なんだし、そっちが何と言おうとそうするから」
「フン、勝手にしろ。だけど邪魔するなよ」
ルカはそれだけ言うと、まるで信などいなかったかのようにまたサムエーレと二人だけの世界に浸り始めた。
ベッドのそばの椅子に座ったサムエーレと手を握り合いながら楽しげに談笑している。
これ以上ここにいたらとんでもなく苛々しそうなので、信は一旦病室から出ることにした。
極力感情を見せないように抑えた声でパウロに告げる。
「ナースセンターに行ってベッドの手配お願いしてきますね」
「了解です。昼間は自分がついてましょうか? ずっとだと大変だろうし」
「いや、今色々大変だと思うのでファミリーの方の仕事行ってもらって大丈夫です。その方がこちらに情報も入ってくるし」
「それは助かります。自分もアルさんのこと心配だったんで。じゃあ信さん戻ってきたら自分帰りますね」
「わかりました。じゃあちょっと行ってきます」
信は会釈をして病室を出た。
そして早足で廊下を歩きながら、自分はいったいあとどれぐらいルカとサムエーレのイチャイチャに耐えられるだろうか、と憂鬱に思うのだった。