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 二人はそれから一時間ほど、他愛無い話をしながらコース料理を楽しみ、それからまた台本読みに入った。

 彰にところどころアドバイスをもらいながら何度も繰り返し三話の台本を読む。

 そのうちにだんだん監督が要求する間合いが掴めてきたような気がした。

 これである程度の自信を持って明日の撮影に臨めるというものだ。

 やがて午後九時近くなって退店の時間が迫り、台本読みは終わった。

 優馬は借りた台本を返しながらお礼を言った。

 

「今日はありがとうございました。会話の呼吸っていうのが少しわかった気がします。明日本当に不安だったので、彰さんに色々アドバイス頂けて本当によかったです。ありがとうございました」

「良かった。明日頑張ってね。どうだったか後で聞かせて」

「はい! 撮影の後、芹沢さんも色々教えて頂けるとのことなので、それも併せてまたお話しします」

 

 すると、帰り支度をしていた彰の顔色が変わった。

 

「芹沢さんってあの……脚本家の芹沢さん?」

「はい。マンツーマンで演技指導して頂けるそうです。ご飯誘って頂いて」

「それ、行かない方がいい」

 

 打って変わって硬い声で言う彰に、首を傾げる。

 

「何でですか?」

「芹沢さん……ゲイだから」

「ゲイだから人を襲うわけではないですよね?」

 

 よくある偏見に少しカチンときて言い返すと、彰はこわばった顔で首を振った。

 

「そうじゃないけど……でもあの人はやるから」

「まさか。そんな人じゃないですよ」

 

 芹沢は叔父のいい友人で、優馬もたまにご飯に行くが全くそんな素振りはない。

 彰の言うことがとても信じられなかった。だがここでまたも南野の中傷を思い出す――知ってんだからなぁっ、てめぇが芹沢さんと寝て役貰ったこと。役者の風上にも置けねえ枕野郎がっ!

 

「そんな人だよ」

「……経験あるんですか?」

「……」

 

 部屋が恐ろしいほどの沈黙に包まれる。それは肯定だった。

 

「まさかそんなことを……?」

「勘違いすんなよ、俺は合意だったから。けど、そういうの無理な子もいて……そういう子から色々聞いてたから。優馬君もそういうの絶対無理だろ?」

「合意……仕事上の上下関係ある中で迫ることが? 俺はそう思いません」

「いや別に無理矢理とかじゃなかったから。つうか俺の話はいいんだよ。とにかく、そういうの無理だったら行かない方がいいよってだけ。俺からうまく言っとくからさ」

 

 早々に話を切り上げて部屋を出ようとする彰の腕を掴む。彰は少し怯えたように振り返った。

 

「なに?」

「俺は、脚本家という立場のある、それも歳が上の人間が俳優にそういったアプローチをすることじたい、不適切だと思います。無理矢理じゃなくても、それは搾取ですよ」

「別にいいんだよ。今んとこウィン-ウィンだし」

「今も続いてるんですか?」

「関係ないだろ」

 

 そう言って優馬の手を振り払おうとする。しかし、優馬は離さなかった。

 

「関係あります。あなたのことが大事だから」

「? それってどういう……?」

「俺、男性しか愛せないんです。それで、彰さんのことが好きなんです」

 

 その告白に彰が目を見開く。優馬は覚悟を決めて言った。

 

「でも安心して下さい。俺は『安全なゲイ』なんで。彰さんとどうこうとか、一切思ってません。彰さんノンケですよね? だったら芹沢となんて嫌ですよね? 俺、実は事務所の会長の甥なんです。だから、俺が言えば芹沢は絶対やめます。俺がやめさせます」

「えっ? ちょ、待って、情報量多すぎて……。えっ? 優馬君会長の甥っ子さんなの?」

「はい……。特別扱いされたくなくて黙ってたんですけど。叔父は業界で顔広いんで、芹沢干すのなんて簡単ですよ。つうかそんな性犯罪者野放しにしたくねえし。本当、信じらんねえ……今時そんなことしてんのかよ」

 

 すると、どうしたことか彰が笑い出した。

 

「それが素かぁ。一年よく猫被ってたなぁ君」

「えっ? あっ、すみません、汚い言葉遣いを……」

「フフッ、そっちの方がいい。断然いいわ」

「そう、ですか……? じゃなくて、芹沢潰していいですよね?」

「いや潰すって……」

「だって作家の風上にも置けないですよ、あんな奴」

 

 すると、彰がためらいがちに言った。

 

「それなんだけどさぁ……優馬君が言ってくれたから俺も言っちゃうけど、俺、『ビッチのゲイ』なんだよね。一応女の子も抱けるけど断然男がいいっていうか……。で、誰かとセックスしないと夜寝れないんだよね」

「そう、なんですか……?」

 

 衝撃的な告白に脳が一瞬ショートする。

 彰がお仲間でしかもセックスしないと眠れない? なんなんだそれは。

 

「そう。実は今彼氏とうまくいってなくてさぁ、ご無沙汰っつーか。だから芹沢さんをちょうど良く使わせてもらってたっつーか……。はは、普通に最低だな、俺」

「そうなんですね……」

 

 そこでふと昔どこかで読んだ記事を思い出す。性暴力の被害者が性的に奔放になることがあるということを。

 彰はおそらく若い頃、権力者である芹沢に迫られ拒めなかった。その心の傷が癒えずにセックス依存症として、屈折した形で現れているのではないか、と。

 その場合、彰に必要なのは男ではなく治療である。

 

「それに恩もあるっていうか、演技を一から教えてくれたの芹沢さんだしさ。あの人いなかったら俳優やれてないと思うし。あと悩みとかも聞いてくれたり……。だからそんな悪い人じゃないよ」

「……」

 

 その言葉は、性被害に遭った者特有の防衛反応からくる否定としか思えなかった。傷が深すぎて認められないのだ。

 だが、その後に続く言葉は予想外だった。

 

「って、言いたいところだけど、あの人に手出されて病んじゃった知り合いいるんだよね。その子は本当に嫌だったんだと思う。で、芸能界も辞めちゃって。その子だけじゃなくて何人か……聞いたことあるから何ともいえないっつーか……」

「マジですか?」

「うん。まぁノンケだったらキツいよなぁ。優馬君もノンケだと思ってたから止めたんだけど」

「ノンケとかゲイとか……そういうの関係なしに嫌じゃないですか?」

「まあ……普通の感覚だったらそうだよな。けどこの業界、貞操観念ぶっ壊れてる奴ばっかだからさ、役貰えるんなら全然いいって人も全然いるし。……俺もその一人だけど」

「……で、芹沢はどうします?」

 

 判断を迫ると、彰は腕組みをして考え込んだ。

 

「うぅ~~ん……嫌がってるのを無理矢理っていうのは俺も良くないと思うし、役者辞めちゃった子……今でもたまに連絡取るんだけど、なかなか大変みたいで。だから……そういう子をもう出したくないっていうのもあるんだよなぁ。でも、色々良くしてくれた人だし……」

「俺は……普通に許せないですけどね。役者が、監督とか作家とかキャスティング権持ってる相手にそういうこと要求されたら拒めないのわかってて付け込んでるわけだし。普通に犯罪だと思いますよ」

「うーん……」

 

 イギリスにいた時に受けた性教育の中で、職場の上司が部下に関係を迫るのは立場を利用した性的搾取であり、場合によっては犯罪になる、と教えられた。そして加害者側が被害者を手懐けて行為を容易にする『グルーミング』という手法があるということも習った。

 彰の場合、まさにそれとしか思えなかった。だがあまり強く言っても傷つけるだけだろう。そう思って優馬は妥協案を出した。

 

「まあ、とりあえず保留にしますか? 彰さんが現状困ってないなら今すぐに決める必要もないし」

 

 すると、彰は明らかにほっとしたように頷いた。

 

「そうだな。ちょっと考えさせて」

「わかりました。でも……彰さんも何らかのケアは受けた方がいいと思います」

「ケア?」

「セックス依存症って、聞いたことあります?」

「……」

「何らかのトラウマでなることが多いって言われています。その根本を……治した方がいいんじゃないかなって。余計なお世話だったらすみません」

 

 彰は少し考えたのち、優馬の目を見て言った。

 

「俺と寝たくないの?」

「え?」

「いや、さっき好きって言ったじゃん? だから治療してやるって言われると思った」

 

 今までそういうことを言われたことがあるような口ぶりだった。程度の低い男と付き合っていたのだろう。

 

「いやいや、治療って……素人に治療は無理ですよ。そういうのは専門家じゃないと」

「へー。お前変わってるね。ヤらしてとか言わないんだ」

「言わないですよ、多分ますます悪化するんで」

「じゃあヤりたくないの?」

「いや、欲は…….ありますけど。でも付け込みたくないんです」

 

 その言葉に、彰が笑顔になって優馬の腕を逆に掴み、顔を近づけてキスをした。

 柔らかな、触れるだけのキス。だが背筋に電流が走ったような衝撃を受けた。

 

「ーーーっ!」

「お前ってマジいい男だよな」

「何を……」

 

 すると、顔を離した彰は悪魔的な笑みを浮かべて囁いた。

 

「俺もちょっと前からお前のこといいなって思ってたんだ。めっちゃ頭いいし、才能あるし、イケメンだし。こんな三拍子揃った男がお仲間のワケねーよなーって諦めてたんだけど」

「でも、彼氏さんいるんですよね?」

「いるはいるけど……ずっとうまくいってなくて。向こうがノンケでさ、事故でヤっちゃった責任取って付き合ってくれたんだと思うんだけど、何かもう駄目そうで」

「ああ……あるあるですね」

「経験あんの?」

 

 その問いに、苦い思い出を思い出して頷く。

 

「俺……高校の頃、ノンケと付き合ってたんですけど、それがもう最悪な結末で。長く付き合ってデートとかもしてめっちゃいい感じだったのに、いざってなったら『やっぱり男は無理』っつって振られたんすよ。俺はその時にもう一生ノンケに恋はしないって誓いました」

「うわーきっつ……立ち直れた?」

「二年ぐらい引きずりましたね。マジで辛かった。だから彰さんの気持ちもわかります」

 

 すると、彰は神妙な顔でうんうんと頷いた。

 

「やっぱノンケと付き合うとロクなことねーな。これで決心ついたわ。別れる」

「えっ、いいんですか?」

「うん。向こうからももう無理オーラ出まくってるし、このまま付き合ってもいいことないと思う。すげー好きだったけど……どうしようもないよな」

「……ですね」

 

 彰はそこで明るい表情になり、優馬の肩を抱いた。

 

「若いイケメンもゲットしたことだし、未練は断ち切るわ」

「えっ、ゲットって……?」

「好きって言ってくれただろ? 俺もさぁ、内心いいと思ってたんだよね。すげー可愛くて。でも可愛いだけじゃなくて男らしさもあって。……さっき、芹沢さんから守ってくれるっつっただろ? あんときマジ恰好良かった。あれで惚れたわ。優馬君はスキャンダル出さないために恋愛セーブしてるみたいだけどさ、男同士ならバレねぇよ。俺今までバレたことねぇし。誰も疑わねえからな。ほら、ゲイってこの社会でいないことにされてるじゃん?」

「それはそうですね」

「うん。ましてやメンバー同士なんて誰も疑わねえからさ、めっちゃ安全なわけよ。だからもし優馬君がよかったら……付き合ってもらえねぇかな?」

「……じゃあ、条件出していいですか?」

 

 一も二もなく飛びつきたいのを堪えて聞く。

 彰を想うならこの一線は守るべきだと思うラインを明確にしておきたかった。

 

「なに?」

「治療に取り組むこと。ちょっとずつでいいんです。俺も付き添うんで、月に一回でも二回でもセラピーに通って下さい。ちゃんとした医者は探しますから。それが付き合う条件です」

「うーん……それ絶対?」

「絶対です。根本を治療しないと、本当の意味で幸せになれないと思うから。彰さんに本当に幸せになって欲しいんです」

 

 そう言うと、彰は少し顔を曇らせて呟いた。

 

「……あんま舞い上がらせんなよ。そういうこと言われると別れるときが辛い」

「今からもう別れるときのこと考えてるんですか?」

「だって、俺重いし。いつか嫌んなるよ。今までの奴もそうだったし。最初は良くても結局……」

「まあ、別れないと保証はできないですね。先のことはわからないでしょう?」

 

 すると、彰は拗ねたように目を伏せてしまった。

 だが、優馬は気にせず続けた。

 

「でも、別れが来ても大丈夫なようにサポートします」

「何それ、意味わかんねえ」

「彰さんが自分で自分を幸せにできるようになれば、別れが来てもまた立ち上がれます。そういう風になって欲しいから、その為に努力します。俺なしじゃいられなくなるんじゃなく、俺なしでも歩いていけるようになってほしい。それが本当の幸せだと思うから」

「よくわかんねぇけど、要は医者に行けば付き合ってくれるってこと?」

「まあ……そうっす」

「一緒に病院来てくれる?」

「はい。できる限り」

 

 彰はちょっと考えてから頷いた。

 

「んじゃいいよ。そうする」

「良かったです」

「彼氏と別れたらまた連絡するよ。それまでは芹沢のこと……あ、呼び捨てしちゃった、まあいいか……芹沢の件は待っといて」

「わかりました。待ってます」

 

 すると、彰は心底嬉しそうな笑みを浮かべて優馬に抱きついた。

 そして柔軟剤のいい香りを振り撒きながら耳元で囁く。

 

「俺めちゃくちゃ重いから覚悟しとけよー」

「安心して下さい。僕もめちゃくちゃ束縛タイプなんで」

「マジ? 位置共有させる派?」

「させる派ですね」

「一緒じゃん。飲み会は?」

「できたらついていきたい。帰りが遅くなったら迎え行っちゃうかな」

「鏡見てるみたいでこぇーわ」

「僕たち、気が合いますね」

「だからもう猫被んなくていいって。正体バレてんだからさぁ」

 

 そんな風に幸せな会話をしながら、二人は店を出たのだった。