てっきり死んでいると思っていた登山客はしかし、生きていた。怪我を負ってはいたが、致命的なものではなく、昨晩よりむしろ顔色は良いように見えた。
加えて彼は雨が直接当たらないよう岩陰に移動させられていた。
初めに横たわっていた大岩の上から降りてそこに行ける状態ではどう見てもなかった。
セラが助けたのは明らかだった。
優は目を上げて木の上から救出活動を見守っている山神を見た。
彼はずっと優の方を見ていたらしくすぐに目が合う。
その銀色の瞳に射抜かれた瞬間優は目を逸らした。
彼が人を蘇生させる能力を持っていたことは驚きだったがそれよりなにより、自分がしてしまったことを知られているのが恐ろしかった。
いったいどうしてあんなことが起こったのかはわからない。
しかし、あれによって彼が自分を見る目が変わってしまったことはわかっていた。
人殺しだと糾弾され、軽蔑されるに違いないと思い込んだ優は、それからしばらくの間山に行かなかった。
ようやく決心がついたのは、それからおよそ二か月後だった。
自分がやってしまったことへの恐れを、自分がこれからやってしまうかもしれないことへの恐れが上回って、真相を究明するためにセラを訪ねたのだ。
今後ああいうことを、もしかして自分の大事な人――例えば母親――にしてしまうかもしれない、と思ったらいてもたってもいられなくなった。当の登山客が助かったということも背中を押したかもしれない。
いずれにせよ、優は重い腰を上げて山神を訪ねて行った。まもなく冬になろうかという晩秋のある日のことだった。
その日は驚いたことに、山に一歩足を踏み入れた途端にセラが現れた。
相手は安堵したような顔つきで優の腕を引いて例の大木のところに連れて行った。
「やっと来てくれたな。安心した」
真冬でもポカポカ温かい木の中で優に座るように促しつつ、セラはテーブルの上に柿や木の実を並べて置いてくれた。傍らにはお茶まである。
セラはいつからかこうして優をもてなしてくれるようになっていた。
おいしいのは分かっているが、何となく食欲が出ずに茶だけすすっていると、彼が食べなさい、と促した。気分が良くなるから、と。
優は仕方なく丁寧に剥かれた柿にかぶりついた。
「おいしい」
果実は熟し切っていて、とんでもなく甘かった。それに芳醇な香りもして、人間界で食べるのとはまた違う味がする。
黙々と食べ進めていると、セラはやんわり言った。
「おぬしのために取っておいたものだ。遠慮せず食べなさい」
「うん、ありがと……」
「日増しに寒くなるの。風邪でも引いていないかと心配していた」
セラは相変わらず全身から光を放射していた。白くて眩しいくらいの光はまるで太陽のようだ。
しかし太陽ほどに苛烈ではなく、また熱くもなかった。
「ごめん……」
「いやいいのだ。人間界で暮らして行けるならその方がよいからの」
「……こっちで暮らすこともできるってこと……?」
どうやら優は核心を突いたようだった。セラの瞳孔が開き、にわかに輝きが強くなる。これは、彼が真剣な話をしようとしているときの前触れだった。
「そうだ……おぬしにはそれができる。なぜか、それを聞きに来たのだろう?」
「優って……優って、何?」
「そろそろ話す時が来たようじゃの……|優《まさる》、おぬしも薄々気づいておろう? 自分がただの人間ではないことに」
「っ……!」
優は食べる手を止めて相手を凝視した。
優の向かいに片膝を立てて座る美貌の神は、その長い銀髪をうっとうしげに後ろに払って続けた。
「おぬしは半神……神と人間とのあいのこじゃ」
「はん、しん……?」
「ああ。おぬし、父親のことをどのくらい知っている?」
「いや全然。母さん、何にも話してくんねーから……」
相手が言っていることが全く呑み込めずに相手を見つめていると、セラは少し笑い、そんなに見られたら顔に穴が開く、と冗談を言った。
「おぬしの父が神だからじゃ……そして母君は……もう既に亡くなっておる」
「っ……じゃあ母ちゃんは」
「芽衣子殿は実の母ではない。本人はそう思っているが」
「……冗談だよな?」
しかしセラはごく真剣な表情だった。ほとんど表情は変わっていないが、長い付き合いで嘘を言っていないとわかる。
「じゃあ本当の母ちゃんは」
「優を産んでほどなくして亡くなった。人間じゃ」
そうしてセラはうずらの卵ほどの水晶を優に手渡した。それを覗くと長い黒髪の女の人が微笑みを浮かべて佇んでいた。
「っ……これ」
「おぬしの実の母、祥子殿だよ」
自分との共通点を探したがあまりなかった。こう言ってはなんだが、どこにでもいそうなごく平凡な顔立ちの女性だ。
セラが優の心を読んだかのように言う。
「おぬしは父親似じゃ」
「父親って……」
「私の兄上だ」
「兄……?」
「そうだ。元は天神であった。今は冥界を統べられている」
「冥界?」
そう聞くと、セラは少しためらったのちに言った。
「ありていに言えば地獄だ」
「何それ、悪魔ってこと?」
「そのようなものだがもっと強力だ。兄上は神だからな」
「けど、元は天神だったんだろ? 何でそんなことに」
「……それは、私の口からは言えぬ。だが、ああいうことがあった以上血筋の話はしておかねばならぬ」
重々しく言うセラに、胃の底が冷えてゆく。
「優は……あの人を殺しちゃったの?」
「あの人は生きておる」
「否定しないんだっ! 一回優が殺しちゃったのを、セラが生き返らせたんだろっ?」
取り乱す優に近づき、セラは背中を撫でてくれた。
「正確には命は別の者が与えた……が、だいたいそんなところだ」
「うっ、くっ……優っ、優っ、なんであのときっ……優はただっ、何かできるかもって思って、あのひとを、治してやりたいってっ、うっ、思っただけなのにっ……うっ、くっ……」
しゃくりあげる優の背中をさすりながら、セラは呟くように言った。
「おぬしはまっこと、父君とは似ておらぬ……そしてそれはよいことじゃ。おぬしは父君の力を引き継いでおる。あの者の生命力を奪ってしまったのはそれゆえだ」
「そ、そんなん、いらないよっ! とってよ!」
セラは憐れむような目で優を見て、首を振った。
「それは、私にはできぬ。おそらく、誰にもできぬであろう」
「はあっ? 何だよそれっ! 優ヤだよ、あんなん」
「だが大事なのはな、コントロールはできるということだ。能力を消すことはおそらく不可能……しかし自分の意志で封じ込めることはできる」
案じるような表情で優を諭すセラに、優は縋り付いた。
「どうすればいいの? どうすればいいか教えてっ」
「あのときの感覚を覚えておるか? 自分に力があって、何でもできそうな気分というのか、何かを感じたであろう?」
そう言われて、優は事件を思い出した――確かに、倒れている人を目の前にして、優は強く何かしてあげたい、と思った。
表情を見て優がそれを思い出していることを悟ったらしいセラは頷いて続けた。
「そう感じたときは相手に決して触るな。そしてそこから立ち去るのだ。……おぬしは大変清い心を持った善人じゃが、残念ながらその手にあるのは、奪う力のみ……何か行動を起こせば、あのようなことがまた起こる」
「う、うん……わかった」
「まあおぬしはまだ幼いゆえ、健康な人間の命を奪うことはどんなにがんばっても出来ぬであろう。だから安心しなさい。あの者は瀕死だったから、あのようなことになったのだ」
セラのそのことばに、優は少しホッとした。
「それから、欲望からは遠ざかるようにしなさい。難しいのはわかるが、なるべく強い感情を引き起こさぬよう気を付けるのだ。……よいか、大事なのは、力はコントロールできる、と知ることだ」
「優……優、じゃあ、もう誰にも触らない方がいいんだよね……?」
母親に抱きしめてもらえなくなることを思うと胸がしめつけられたが、そんなのは彼女の命の前では些細なことだった。
しかし優の隣に座った山神は笑って首を振った。
「そんなことはない。おぬしの場合、誰かの命が危険に晒されているとき以外は触っても支障ない」
「ふうん」
「ゆめゆめ忘れるでないぞ、意志の力がすべてに打ち克つということを。父君の血に振り回されてはならぬ」
セラはそう言うと、しがみついていた優を抱きしめてくれた。
そして呟くようにまた、おぬしはまっこと父君には似ておらぬな、と言った。