7-3

 それからの三日間は信にとって忍耐の時間だった。
 自分を完全に無視し、自分たちだけの世界に浸る二人と二十四時間一緒にいるというのは想像以上に辛かったのだ。
 何より傷ついたのは、サムエーレがこちらに一切関心を払わなかったことだった。
 彼は四六時中ルカのそばで信が買ってきたぬいぐるみやおもちゃでルカと遊んでいた。その目に映るのはルカだけで、話しかけるのも遊ぶのも一緒に食事するのもルカだけだった。そのことは信をいたく傷つけた。
 だが同時に、ルカを助けて本当によかったとも思った。サムエーレがこれほどまでに慕う相手を見殺しにしたら、それはラザロやマウリも傷つけることになる。自分の独占欲だけでそんなことをすれば一生後悔しただろう。
 だからこれでよかったのだ、と自分に言い聞かせながら孤独に耐えた。

 そうして三日目の午後、ルカは足の粉砕骨折を治す手術を受けに行った。サムエーレは涙ぐみながらそれを見送り、病室で信と二人きりになった。
 サムエーレはすすり泣きながらテディベアを抱きしめ、ルカが最前までいたベッドに蹲った。その傍らに行って元気になって戻ってくるよ、と慰めていると、不意に部屋の扉が開いた。
 信はハッとしてドアの方を振り返った。
 そこに立っていたのはカミラとその部下達だった。

「カミラさん……?」
「マウリは……あぁ、今はいないようだね」

 カミラの視線は信を通り越して、テディベアを抱きしめベッドに横たわるサムエーレに注がれていた。
 彼女はマウリの解離性同一性障害を知る数少ない人間の一人だった。

「ええ、今は……」
「サムエーレ、だな」
「そうです」

 カミラはベッドのそばまで歩いていってサムエーレを見下ろした。
 サムエーレの方は突然の闖入者達に怯えて布団を被ってしまった。
 カミラはため息をついて腕組みをした。

「困るんだよ、勝手されちゃあ。病院行くなら行くって一報入れてくれないと。大事な切り札を失うわけにはいかないんだから」
「すみません」

 カミラは凍りつくような目で信を見た。口調は感情的ではないが、相当に怒っているようだ。

「ルカを捕らえたことさえ知らなかった……。あなた達の秘密主義には困ったものだ。ドンとしての自覚がないーードンの伴侶としての自覚も」
「っ……」
「救急車はあなたが呼んだそうだね?」
「はい……」
「それだけは評価する。だがそれ以外は0点だ。あなたは自分が何をしたかわかっているのか? ドン・マウリの命を危険に晒した。こんな警備すらつけずに部外者入り放題の病院にサムエーレと泊まるなど、正直言って非常識だ。あなたはまず私に一報入れるべきだった」

 一方的に責められ、信は反論した。

「ではあなたが裏切っていないという保証は? そんなのないでしょう。あの屋敷の場所を知っている者全員が内通の容疑者になる。そんな状況で安易に誰かを信じる方が危険だと思いますよ」
「私があの子をファミリーに呼び戻したことをお忘れ? それまでの動向は全て把握していた。始末したいならとうにやっている」

 確かにそれも一理ある。信が黙るとカミラは続けて言った。

「私を信用しなさい。でなければこの先ここでは生き残れない」
「……わかりました」
「それで……サムエーレはいつからいるの?」
「三日前からです。さすがにそろそろマウリかラザロが来てくれると思うんですけど」
「そうでなければ困る。今晩幹部会議があるのでね。それにはどうしても出てもらわないと。仕方ない、奥の手を使うか」
「奥の手?」
「この子を襲いなさい」
「えーっと、それはどういう……?」

 するとカミラはわずかに眉を顰め、物分かりの悪い子供に言い聞かせるように言った。

「わかっている人格交代の引き金は性的接触と命の危険のみ。怪我させるわけにもいかないからこれしかない」
「そのことなんですが……私では交代しないようです」
「一体どういうこと?」
「マウリが私ではしないと言っていました。実際交代したことは一度もないです」

 するとカミラは信をまじまじと見た。

「最後までしたの? マウリと」
「ええ。ずっとマウリでした」
「……なるほど。あの子があなたを選んだわけがわかった。そんなことがあろうとはね。……マウリは今まで誰ともそういうことはできなかった。誰かに触られた途端にラザロが出てきて相手を寝取るかぶちのめすかするからね。だけどあなたならそれが起きない……。男との婚約は微妙だと思っていたが、そういう事情ならわかった。子供は医療技術でなんとでもなるしな」
「はあ……」
「しかし人格交代ができないのは困る。仕方ない……」

 カミラは振り返って病室の入り口付近で待機していた部下を呼んだ。

「ジュリオ、来い」
「なっ、なんすか?」
「この子を襲え。服脱がして触って」
「いやいやいやいや、無理ですよ! ど、ドンにそんなことっ……こっ、殺される!」
「やれ」

 低い声で命じられ、ジュリオはびくつきながらサムエーレに手を伸ばした。
 そうしてその腕に触れる。すると、サムエーレはびくっと体を震わせ、怯えた目でジュリオを見上げた。
 ジュリオはそれに負けないぐらいびくっとして即座に手を引っ込めた。

「ボ、ボス、やりましたけど……」

 すると、カミラはジュリオのスーツの襟首をひっつかんでベッドの上に突き飛ばした。

「生ぬるいんだよ。服を脱がせろ」
「うわぁっ!」
「カミラさん、何もそこまで……」

 さすがにジュリオがかわいそうになって思わずそう言うと、カミラはすごい目で信を見た。

「こちらのことに口出しするな」
「っ……」
「……ドンには今晩までに戻ってもらわないと困る。でないと、おそらくアルはもう帰ってこない」
「それはいったいどういうことですか?」

 カミラは信用にたるかどうか検分するように信を見た後、息を吐き出した。そしておもむろに口を開く。

「数日前にネロから連絡があって、人質の交換を打診された。ルカとアル一家を交換しないかと。私は賛成だった。アルは私にとっても大事な部下だからな。だがほとんどの幹部はルカを帰すことに賛成していない。ルカはなんといってもネロの嫡男。大きな切り札になるからな」
「じゃあアルさん達は……」
「見捨てられる。取引が成立しなかった時点で殺されるだろう。役に立たない人質に用はないからな。だから今晩の会議にはマウリがどうしても必要なんだよ。ドンの裁定で多少強引にでも人質交換を成立させるしかない。それしかアル達が助かる道はない」
「……」

 それならばもう口をはさむこともない。信は黙って引き下がった。
 カミラはベッドから降りようとしているジュリオの前に立ち塞がり、言った。

「命令がきけないのか?」
「そ、そそそそんなことはっ」
「ならやれ」
「っ……しっ、失礼しまーっす……」

 ジュリオは汗をダラダラかきながらサムエーレに覆いかぶさった。そしてその洋服に手をかける。
 すると、サムエーレは火が付いたように泣き出した。

「ひっ……おっ、おにぃちゃーん! おにぃちゃん、助けて! うえぇぇぇん!」
「は、早く戻ってくださいっ、ドン!」
「おにぃちゃああああぁん!」

 泣き叫ぶサムエーレに、入り口に立って傍観していた構成員達は顔を見合わせた。サムエーレのことを話にはきいていても、実際見るのは初めてだったらしい。だいぶ戸惑っている。
 カミラもおそらくそうだろうが、動じた様子はなかった。あくまでも平静にサムエーレ達を見ている。
 こういう感情の乱れのなさがどことなくラザロに似ているな、と思った。
 やがて地獄のような時間が終わり、半裸に剥かれたサムエーレがようやく泣きやんだ。次の瞬間、彼は――いや、マウリかラザロは自分にのしかかっていた男を突き飛ばし、逆にベッドに抑え込んだ。
 そして頸動脈を圧迫して瞬時に落とした。

「「ジュリオっ!」」

 ジュリオと一緒に来ていたカミラの部下二人がぐったりしたジュリオに駆け寄ろうとする。
 だが、ベッドまであと数歩のところで鋭い目の金髪の男に射すくめられたように立ち止まった。
 まるで野生の獣を前にした時のように動けなくなっている。そのくらいマウリ、又はラザロが身にまとう雰囲気は鋭かった。
 なんとなくラザロの方かなと思う。
 沈黙した室内で立ち尽くしていると、おそらくはラザロがはだけた衣服を直し、ベッドから降りて素早くこちらへやってきた。
 そしてカミラ達から庇うように晋の前に立ち、小声で聞く。

「無事か?」
「うん」
「何された?」
「何も。あのね、今ルカさんが入院中で、サムエーレ君と付き添いしてたんだ。そこに今先カミラさん達が来て、マウリを呼び戻すために襲わせたというか、そんな感じ。今晩大事な会議があるんだって」
「入院って何だよ? 医者は呼ぶなっつったのに」
「ラザロだね?」
「ああ。……まあその話は後で聞く。とにかく状況はわかった」

 それからラザロは敵意をはらんだ目でカミラを見据え、鋭い声で問うた。

「信に何をした?」
「何も」
「手ぇ出したらマジで許さねえからな。で、何の用だよ?」
「答える前にあなたが誰か教えて下さい。マウリなの?」
「残念。チキン野郎はまだお休みだ」
「ではラザロ、はじめまして、私はカミラ。あなたの叔母です」

 するとラザロは鼻で笑った。

「だったらなんだ、オバサン。俺はマウリみたいにチョロくないぜ」
「あなたの屋敷が襲撃に遭ったのは知っています。安全面の配慮が行き届かず申し訳なかった。内通者は必ず見つけだして罰を与えます。しかし一つ問題が起きまして」
「何だ?」
「アルが捕まりました。襲撃の日、ほぼ同時に自宅で襲われ家族と一緒に拉致されたようです。ナポリのネロのところに監禁されています」
「だから?」
「ネロ側が人質の交換を打診してきました。ルカとアル一家をテッラチーナで交換したいと。しかし幹部達がルカの引き渡しに反対している。だからドンの権限でそれを採決して頂きたい」
「嫌だ。面倒臭ぇ」

 その反応にカミラは面食らったような表情をした。

「アルトゥーロと仲が良かったように見えたけれど?」
「マウリがな。俺は関係ねえ」
「でも……」
「話は終わりだ。信、行くぞ」

 信の手を取って部屋から出て行こうとするラザロに、カミラは動じた様子もなく強い口調で言った。

「それなら話したい事があります。五分だけ話を聞きなさい。ニコラ、アンジェロ、ジュリオを連れて外に出ろ」
「はい、ボス」

 カミラの部下達はまだ気絶したままのジュリオを抱えて病室を出て行った。
 それを横目で見送ったラザロは扉近くの壁に背を預けて腕組みをし、うんざりしたようにカミラを見た。

「で、何だよ話って?」
「まずは今から話すことを絶対に誰にも言わないと誓ってほしい。あなたも」

 カミラはそう言って信を見た。頷いてみせると、カミラはラザロの方を向いた。

「あなたは? 約束してくれる?」
「んな義理ねえ。さっさと話せよ、オバサン」
「……まあ仕方ないな。では単刀直入に言います。アルは私の息子です。つまりあなたの従兄弟ということですが」
「はぁ?」
「十八で産んだ子です。父親はジョルジョ・コンティ。あの子を育てた男で、代々ファミリーに仕えてきた職人の家系です。裏切り者からドンの指輪を守ったのは彼の曾曾祖父のドメニコです」
「……嘘じゃねえだろうな? オバサンと全然似てねえけど」

 ラザロの言う通り、アルは黒髪黒目で金髪碧眼のカミラと一見して共通点はない。
 だが、よく見れば顔の輪郭や造形はどことなく似ていた。

「息子は幸い父親似でした。だから手元に置いておけた。でなければファミリーには関わらせなかったでしょう」
「アルは知ってんのか?」

 カミラは首を振った。

「いいえ。誰にも話しませんでした。親にもあの子にも。出産も海外でして、姉とジョルジョ以外そのことを知る者はいなかった。その姉も亡くなりましたからこのことを知っているのは今この世に四人しかいません。ジョルジョと私はこれまで秘密を守り通してきた。だからあなた達が口を滑らせたらすぐにわかりますよ。そのときは覚悟しなさい」
「……」
「アルはあなたの家族です。血の繋がった従兄弟なんですよ。そのアルを見捨てられますか? もしそうだとしたら、あなたにドンの資格はない。そんな冷酷な人間がトップになるぐらいならドンなどいない方がいい。もしあなたがアルを見捨てるというのなら、今すぐ指輪を置いてファミリーから出ていきなさい」
「勝手なことをベラベラと……」

 そうは言いながらもラザロはカミラの気迫に圧されていた。いつも飄々としているラザロのそんな姿を見たのは初めてだった。
 さすがにカミラはドンの名代を務めていただけあって肝が据わっている。

「さあどうしますか?」
「だいたい……それだったらドンはアルの方じゃねぇか。古臭い年功序列なんだろ、どうせこういう組織は。だったら何で俺を呼んだんだよ? 面倒なことに巻き込みやがって」
「私はアルをドンにするつもりはありません。ドンはあなただ。そしてこのことをアルに言うつもりもありません、この先一生」
「はっ、とことん身勝手なバアさんだな。けどまぁ……こっちにとっても好都合か」

 ラザロは信をチラっと見て続けた。

「わかった、アルの救出に手を貸そう。だが条件がある」
「何です?」
「俺は抜けさせてもらう。それが条件だ」
「何だって?」
「アルがいるなら大好きな『ファミリー』も安泰だろ。俺は降りる。もううんざりだ、こんな面倒臭ぇ家。アルが戻ってきたら俺は抜けさせてもらう。あとはアイツとどうにかしろ」
「そんなことが許されると……? ファミリーを捨てるなどありえない……」

 カミラの声は怒りでわずかに震えていた。彼女が感情的になるのを見るのは初めてだった。

「アルを失いたくないんなら呑むしかないんじゃねぇか? まあ別に俺はどっちでもいいけどな」
「ラザロ、何もそんな言い方……」

 思わず口をはさむと、ラザロが振り向いた。

「カミラの肩を持つのか?」
「そういうわけじゃ……でも色々事情もあるんだろうし」
「ハッ、事情? そんなの知ったことか。散々放っておいた挙句にアルっていう正式な後継者がいるのにわざわざ俺を呼んで指輪と責任押し付けた奴だぞ?」
「……」

 そこでカミラが言う。

「そのことについては申し訳ないと思っています。本当はもっと早く会いたかった。だけど危険すぎたのです。裏切り者が何人もいて、粛清するまでは呼べなかった。それにロッシもいます。あれは野心家で非常に危険な男です。あなたが自分で身を守れるようになるまでこちらには呼べなかった。それを理解していただきたい」
「言い訳はいい。とにかくこっちの条件を呑むか呑まないか、それだけだ」

 カミラはわずかに顔をゆがませ、搾りだすように言った。

「私はもう誰も失いたくなかった……。父も兄も弟も……皆死んだ、ドンの資格がある者は」
「……」
「その上息子まで失いたくなかった……。だから隠して育てました。ドン、あなたには本当に申し訳ないことをしたと悔いています。あの家でどんな扱いを受けてきたか……。もっと早く引き取っていればと後悔してもしきれない。だが父も兄弟も次々いなくなってしまって……私の力ではどうにもならなかった。それが今更呼んでドンにして、自分勝手だと思われても仕方ありません。ですが、私は息子同様あなたのことも大事に思っています。絶対に傷つけたりはしない。それだけはわかってほしいんです」
「言いたいことはそれだけか?」

 ラザロは恐ろしく無感動な目でカミラを見た。
 叔母の切々とした訴えにもラザロの心は動かなかったようだった。

「っ……ええ」
「何と言われようが条件を変えるつもりはない。で、答えは?」
「そんな……家族でしょう?」

 カミラは信じがたいものを見る目でラザロを見た。しかしラザロは一瞬の躊躇いもなく吐き捨てた。

「俺に家族はいない。なるとすれば信だけだ」
「ッ……!」
「ラザロ……」

 この答えで、ラザロが今までどれだけ深い闇の中にいたのかが垣間見えたような気がした。
 ラザロの顔はあの事件のことを告白したときと同じ、まったくの無表情だった。
 見捨てられ、傷つけられ、利用されてきた子供。誰にも声の届かぬ、誰の声も届かぬ暗闇の中で苦しみもがき続けた子供は、いつしか誰も信用しなくなった。
 誰にも何にも期待しなくなり、そして感情も失った。
 残ったのはただの虚無と人を傷つけたいという衝動のみ。そういうふうにしてずっと生きてきたのだろう。
 それはあまりに哀しく痛ましいことだ。

「で? どうすんだよ? 長引くんだったら一旦帰るわ俺。信、帰ろうぜ。ルカと同じ部屋で何時間も……いや何日もか?過ごしたかと思うと吐きそうだ。帰ってシャワー浴びないとな、百回ぐらい。で、その後――」
「条件を呑むわ」

 カミラはラザロの言葉を遮ってしっかりした口調で言った。
 もう表情に先ほどまでの感情の揺れはみられない。何かを決意した表情だった。

「そりゃあいい。じゃ、夜にまた」
「ええ。よろしく」

 ラザロは軽くうなずくとカミラに背を向け、信と共に病室を出たのだった。