それから成長期を迎えるまでの約三年間は大きな事件もなく穏やかに過ぎた。
セラに忠告されたように極力強い感情に振り回されないようにすればあのヘンな感覚にもならず、結果として人に害を加える心配もないのだということを学んだ。
優は中学校に上がっても相変わらず足しげくセラのもとに通っていた。
もう彼が人助けをするところについてゆくことはなかったが、それ以外はいつも通り、何でもない話をしたり茶を飲んだりゲームをしたりして過ごした。
しかし中学二年のある日、セラは突如として姿を消した――というより優から隠れるようになった。
初めは偶然忙しいときに重なったのかとたいして気にしていなかったが、会えない日が続くたびに不安は膨らんだ。
セラに何かあったのでは、とも思ったが、まもなく道に迷った子供が無事に救出されたというニュースを聞いたので、彼がいないわけではないことがわかった。
会えない日が一週間、一か月、三か月と続くうちに、優は相手に避けられているということに気付いた。
あまりに突然のことで理由がまったくわからず、憤ったり落ち込んだりもしたが、優はそこに通うことをやめなかった。いつか会ってくれることを信じて、地元の高校を卒業するまで、セラを訪い続けた。
しかし彼はどんなに呼んでも出てきてくれなかった。
結局優は他県の大学に進学し、地元から離れた。セラに嫌われたというショックが尾を引いていたからだ。
地元にも大学はあったが、そこにいると四六時中セラの山が視界に入るのでやめた。
大学生活はそれなりに楽しかったが、羽目を外しすぎる連中もいて辟易することもしばしばだった。
特に地元に穏やかな人間が多かったせいか、はるかに都会の道徳観念のカケラもないような人間や、騒がしい繁華街にはまったくなじめずに、あまり人付き合いをせずにひきこもる日々が続いていた。
そんなふうにして少し鬱々としていたときに、再び事件は起こった。今度は生命力に溢れた若者を殺しかけたのである。事の発端は、飲み会だった。
名前だけ所属しているも同然のサークルの飲み会に半ば無理やり参加させられたのは、不運としか言いようがなかった。
サークル外でそこそこ親しい金村が無駄に気を利かせて優を連れて行ったのだ。金村とサシだというから行ったのに、テーブルには十人近い学生が既についていた。
「何だよ、これ……話が違うじゃんか」
ヒソヒソ声で抗議するも、金村は無視して優を引っ張って席の中央あたりに座らせた。
「みんな、上重来たぜえ」
「お、久しぶりー。元気してた?」
あらかじめ話を通してあったのか、はたまた気にしないタチなのか、部員たちは口々にあいさつをしてきた。
優は、曖昧に相槌を打つと、既に酒が入ってやかましい同級生たちからできるだけ距離を取り、おかずと向き合った。
隣では金村が呑気に酒をあおっている。
「いやー、よかったよかった、溶け込めたみたいで。こいつらもそんな悪いやつじゃないんだぜえ」
「そうかもな……」
余計なお世話なんだよっ! と思いながら、それでも角が立たないよう頷くと、金村が満足したように笑った。
「だろだろー? な、だから上重ももうちょい顔出せよ。いろいろ面白いことしてっから」
「温泉巡りってこと?」
俺が所属してるのは「温泉同好会」といういかにもふざけたサークルだった。初めは特にどこにも入る気はなかったのだが、金村に半ば強引に入部させられたのだ。
「それは名目ね。実際はお湯の成分の分析よりもっと面白いことあるからさぁ」
含みのある言い方に、嫌な感じがして、優は思わず相手を見た。
案の定、上重はにやにやと品の無い笑みを浮かべていた。
「うち、実質ヤリサーだからさ、女ヤり放題」
「はっ……?」
一瞬相手のことばを理解するのを脳が拒否して、思考が停止した。
「だーかーら、女飲ませてヤるんだよ。いーぜぇ、お前も今度来いよ」
「それって……犯罪じゃないのか……?」
「んー、そーだけど、どーせ向こう訴えられないからヘーキヘーキ」
心神喪失状態の相手との性交はレイプになる。そんな恐ろしいことを平気で口にする相手に一瞬恐れを感じ、次の瞬間怒りが爆発した。
「てめえっ……! ちょっと表出ろ」
「はっ? 何だよいきなりっ、ちょっと待てって……!」
優は構わず相手を店の裏手に引きずり出して、問答無用で顔面を殴りつけた。あまりの怒りで目の前が真っ赤に染まっていた。
「こんのっ、外道がっ……!」
優の地元の友だちのひとりに、恋人から性的な暴力を受けて心を病んだ女の子がいた。その子の苦しみをつぶさに見てきたからこそ、目の前の男がしたことが許せなかった。
性暴力が女性にどれだけの傷を負わせるか、知らずに、知ろうともせずに、面白いから、という理由で彼女らを餌食にする金村がとてつもなくおぞましいものに思えた。
その瞬間、長年忘れていた感覚が蘇る。全身がエネルギーに満ち満ちて、何でもできる、という感覚――まずい、と思ったときには遅かった。
優が手を触れた途端に金村は悲鳴をあげて白目を剥いた。
外傷はないが、胸をかきむしっているところを見ると、発作か何か起こしたらしい。優は慌てて携帯電話で119番をした。
電話の向こうのオペレーターの指示に従いながら、店のオーナーが大慌てでどこからか持ってきたAEDで金村の蘇生を開始する。
多量の冷や汗をかいて、全身震えていたが、とにかく救急隊員が来るまでもたせなければ、と必死で指示通りに相手を処置した。
どうやら努力が功を奏したようで、金村は二分と経たないうちに息を吹き返した。そして優を恐怖の目で見ると、来るな、とわめいて優の元から逃げ去った。
残された優は、駆けつけてきた救急隊員に事情を説明し、何が起きたのかよくわからずにいる飲み連中を置いて帰宅した。
ほとんど眠れぬ夜を過ごした後、優は何とかその週の講義をこなし、バイトで貯めた金を使って週末に帰省した。母親は突然戻ってきた優に何か言うこともなく、いつものように好きな肉じゃがを作ってくれ、他愛ない話をして心をほぐしてくれた。
しかし優が何者か知っている人物に会うまでとても安心はできなかった。優は帰省した日の翌日、早速裏山に足を向けた。
そのときもまた、セラにまた拒否られたらどうしよう、という保身的な恐怖に自分がしてしまったことへの恐怖が打ち勝って、優は山に行くことにしたのだった。
◆◆◆
山に一歩足を踏み入れた途端に、探し求めていた人物が目の前に姿を現した。予想外に、相手は嬉しそうな顔をしていた。
「久しぶりだな、|優《まさる》」
音もなくやってくる白銀の山神に、優は息を詰まらせながら言った。
「セラ………優、何かしたか? どうしてずっと隠れてたんだよっ」
「私はずっとここにいた。隠れなどしていない。ただおぬしが見えなかっただけだ」
予想外の答えに、滲みかけていた涙が引っ込んだ。
「どういうこと?」
「まあまず、家においで。ずいぶん疲れているようだからの」
そう言って腕を差し出してきたセラに優が掴まると、次の瞬間には大木の洞の中に移動していた。
「……変わってない……」
一人で来たときにはどう見てもただの穴だったそこは今や居心地の良い家になっていた。
淹れたてのお茶とほっぺたが落ちそうなほどおいしいお菓子がのった丸テーブルに、クッションでいっぱいの「優の部屋」――優が小さい頃よくそこでうたた寝をしていたからそう名付けられた――、隅につるされたハンモックに、優の好きなゲームや本が入った棚。セラの家は、昔と何一つ変わっていなかった。
優のことばに、相手は嬉しそうに答えた。
「君がいつ来てもいいようにしておったのだ」
「優以外の誰か、来た?」
気になってそう聞いてみると、相手は首を振った。
「まさか。君のような子はおらんからな。ごく稀に、子供が私の姿を見ても、ここには来れぬ。人間の来れる場所ではないのだ」
「そっかあ……」
自分のほかに誰も来ていないことになぜか安心した優は、果実に口をつけた。
「おいしー。イチゴなんてどこから取ってきたの?」
「栽培したのだ。木苺をちと品種改良してな」
「へぇー……じゃあハイ、あーん」
優はイタズラ心で身を乗り出し、セラの口元に果実を押し付けた。
ほとんど色味がなかった唇が果汁で赤く染まったのを見たとき、心臓がドクリ、と音を立てた。セラがどれだけ美しかったかを改めて感じさせられ、思わずこう言った。
「てかセラ、やっぱキレイだよなー」
すると相手は動きを止め、こちらを見た。その水晶のような瞳に魅入られて思わず顔を凝視すると、相手が身を引いた。
「あっ、ゴメン、ヘンなこと言った……」
実は精通のとき、夢でセラを見たのは絶対に内緒にしておきたかった。しかし見破られているような気がした。
セラは無表情で優と距離を取って座ると、静かに言った。
「何か、聞きたいことがあって来たのだろう?」
「ああ、うん……それなんだけど……」
優はマヌケな中腰の姿勢から元に戻り、セラに拒絶されたイチゴを食べてから続けた。
「またやっちゃったんだよ……ギリギリセーフだったけど、何か力が増してるっぽい。健康な成人男子を死にかけさせちゃってさ……」
「大人になるにつれ、普通能力は活性化する。むしろ今までよくもったの。思春期は大抵コントロールが難しいのだが」
「うん。何かこの辺いた頃は大丈夫だったっぽい。セラのおかげかな。今の街が合わないのかも。何か突然すげーカッとしちゃって、制御できなくなった」
「ふむ……ならば少し羽休めするのがよかろうな。少なくとも二、三日はこちらに優」
出席日数が厳しい講義は幸いない。優は頷いた。
ろうたけた神はホッとしたように頷き返し、薄衣に手を滑らせた。彼は最後に見たときから全く老いておらず、髪も伸びていなかった。
相手に見とれていると、その視線を受け流すようにして立ち上がり、優の湯呑みにお茶を追加したセラは言った。
「おぬしは今年二十歳であろう?」
「んー……あ、そうだね。来月かな」
「ちょうどよかった……そろそろ話しておかねばならならぬことがある」
目を合わせずに、セラは続けた。降り注ぐ木漏れ日がその銀髪をきらめかせて、美しい。
「おぬしの父君についてだ。彼が地下世界を統べる神というのはもう知っておるな?」
優は頷いた。いったいどんな人物であるのか、それまで気にならなかったわけではないが、セラに質問を控えてきた話題だった。なぜか彼の話になると口が重くなる彼に、きっと何かあったのだろう、と当たりをつけていたからだ。
父とセラの間には何かある。それもよくない何かが。
おそらくセラはそれを今、語ろうとしている。
「いいよ、話したくないことは話さなくて。優、別にそんなにキョーミない」
「おぬしはほんに優しいな……だから優というのであろうな……。しかし、話さぬわけにはいかないのだ、成人を目前に控えておるからな」
セラはそう言ってふかふかする床を踏みしめてこちらへやってきた。そして隣に座ると、優の腕に触れた。
銀色に光る手は、その見た目に反し、温かかった。
「おぬしには少しショックかもしれぬ……だが、よからぬ輩たちに変なことを吹き込まれる前に言っておかねばならぬ……」
セラは整った顔をこちらに向けて、静かに語り出した。
「おぬしの父君……冥界の神は、初めから冥界にいたわけではない。天から追放された神なのだ。だから地上の物の怪たちや前から冥界にいる悪魔たちよりもはるかに力がある……そして父君の追放の原因を作ったのは私なのだ」
セラは辛そうに眼を眇める。優は慰めてやりたくて、恐る恐る相手の背中をさすってみた。抵抗はされなかった。
「私は父君と禁忌を犯してしまった……だから地上に落とされたのだよ」
「禁忌?」
「そうだ……我々は、肉の交わりを持ってしまったのだ」
「えっ?」
優は思わず手を止めた。「肉の交わり」? つまりエッチしたってことだろうか?
混乱する優に、セラは押し殺した声で言った。
「天界では絶対に許されぬことだ……私は……私は、父君を惑わすつもりなどなかった……。だが、彼は欲に勝てなかったのだ……。私たちは共に冥界で暮らし、やがて別れた。……それが、一千年ほど前のことだ」
痛みに耐えるような顔で告白した相手に、優は疑問をぶつけずにはいられなかった。
「神様って性別ないし、そーゆー器官もないんじゃないの?」
「っ……本当はっ、そうだ……しかし、作ることはできるのだ」
「なるほど。じゃ今も付いてる?」
「そんなわけがないだろうっ! そもそも私にそんな能力はない」
それを言った後、相手はしまったという顔をした。己の失言を悟ったのだ。しかし優は見逃さなかった。
「じゃ、優の父親が作ったってこと?」
「……そうだ……」
「無理やり?」
「………合意ではなかった。しかし誤解しないでくれ、千年も経ってもう忘れているし、君のことはもちろん憎んではおらぬ……。おぬしは何の罪もない子供だ。おぬしに害を与えるようなことは絶対にしない。……これだけは、信じて欲しい」
相手の口ぶりから、実父が彼に相当な蛮行を働いたことがわかった。憎んではいない、ということは、憎むくらいのことをされたということだ。
多分、「一緒に暮らしていた」というのは控えめすぎる表現で、実際は囚われていた、という方が正しい状態だったのだろう。
自分の父親が、金村がやっていたのとまさに同じ、いやもっと悪いことをしていたのだ。
優は拳を握りしめ、そして相手から距離を取った。自分が父親同様、確実に相手に欲望を抱いていることを知っていたからだ。
愕然としてことばも出ない優に、セラは諭すように続けた。
「しかし大事なのはな、おぬしの意志なのだよ。前にも言ったであろう? おぬしはそれでも選択することができると。血に打ち克つことができると。
これから先、おぬしが成人すると、私が施しておいた守護が切れる。すると冥王にも、その側近たちにも、おぬしの居場所がバレてしまう。
彼らはすぐにやってくるだろう。おぬしを利用しにくる……正真正銘彼の実子なのだから。
彼らは悪と退廃の道へ引きずり込もうとするだろう。人間たちや私と敵対するよう仕向けるだろう。
しかし彼らの言うことに耳を貸してはならぬ。もし人間界で人間として生きたければ、無視するのだ。私のところへ来てもいい。しかし冥界へ行ってはならぬ、あそこは魂を食い尽くす場所だから」
優の不安な心を反映したのか、空が曇り出していた。それでも暖かな木の洞の明るさも、居心地の良さも変わらなかった。ここは聖域なのだ。
「うん……じゃあ、ヤバそうになったら来るね」
「ああ、そうしなさい」
セラは微笑んで頷いた。その輝かんばかりの美しい面差しに、優は目を細めた。
ここは聖域なのだ。どんな穢れも欲も許さぬ、美しく清らかな神域――だがそれが清浄であればあるほど、汚したくなる。欲望と無縁であればあるほど、欲望をぶつけてやりたくなる。そういうモノじゃないのか――?
そこまで考え、ハッと我に返った優の背筋が粟立った。
優は今、何を考えていた? この山神が快楽に鳴くさまを想像して、何を考えていた?
「優そろそろ帰るよ」
そう言って腰を上げると、家から出て歩き出す。セラが連れて行くとか何とか言っていたが、もう相手と接触したくなかった優は断り、歩いて山を下りた。
一心不乱に足を動かしながら、必死で一瞬脳裏をよぎったセラの痴態を忘れようとがんばりつつ、初めて顔も知らない父親と共感できた、と思った。