翌日の昼、信は落籍された。
傾城が落籍するときに必ずする「別れの宴」もせず、誰にも見送られずにひっそりと店の裏口から出て、玉東の大門をくぐった。
遣り手が怒り心頭だったのでそれも仕方ないだろう。もう一刻も早く店から追い出したいようだった。
それでもそんなことは気にならなかった。
なぜなら章介と秋二も三か月の減給で済み、全員が河岸行きを免れるという、考えうる限り最高の結末だったからだ。
遣り手と交渉し、これを成し遂げてくれた森には感謝しかない。森がいなければ信の人生は終わっていただろう。
そうやって玉東での生活は意外な形で終わりを迎えた。そうして信は、実に六年ぶりに外の世界に戻ってきたのである。
外での生活ははじめ、想像以上に新鮮で穏やかだった。
森が買った赤坂のマンションで、囲われていたが、外出も自由だし、何かを強制されることもない。
玉東に囚われていた頃に夢見ていたような、ごく普通の毎日を、信は送っていた。
森は、旧財閥系の大企業を経営する家系の資産家であり、自らも企業し、成功している。
彼は、二十五歳でヨットやクルーザーを売ったり貸したりする会社を立ち上げた。
無類のアウトドア好きで、若い頃はバックパッカーとして世界中を旅して回ったり、ヨットレースに打ち込んでいた森が扱う商品は、信頼性に裏打ちされており、顧客は順調に増えていった。
会社は五年で軌道に乗り、事業も拡大していった。
全国各地と海外に支店を展開し、やがて自社ブランドの船も造るようになった頃、森は社長業を引退した。
そして、世界各地を自分の船で周る生活を始めたという。
いわゆる早期リタイアだ。
森はこの時、三十五歳だった。
普通の感覚では考えられないが、森の周りには似たような人が多かったという。
悠々自適の旅を始めた森は、各地でさまざまな人、信仰、文化、街に出会った。
アラスカでイヌイットを訪れ、イエローストーンで狼がバイソンを狩るのを見、マチュピチュ、サマルカンド、ガンジス川を訪れ、ヒマラヤの麓で暮らした。
世界中のあらゆる美しい自然、遺跡、街を船で訪れ、堪能しつくした。
誰もが羨むような人生である。
世界中を航海した森は、やがて日本に戻ってきた。それが四十歳のときだ。
そろそろ腰を落ち着けたかったのかもしれない。
そして、由良という青年と出会ったのだという。
由良は、信を含め何人かいる森の愛人の筆頭格で、愛人というよりは夫に近い。
儚げな美青年で性格は穏やかだがしっかり者。
愛人達のまとめ役でもある。
何かあるときは、由良に伺いを立てるというのが暗黙の了解になっていた。
落籍当初、他の愛人達とどう接すればよいかわからずまごついていた信をフォローしてくれたのが、この由良だった。
森には、信を含め、愛人がなんと十二人もおり、全員で集まることもしばしばあった。
森がパーティ好き、旅行好き、アウトドア好きだったからだ。
一緒にバーベキューをしたり、クルーザーに乗ったりは日常茶飯事で、このときどうすればよいのか、いまいちわからなかった。
愛人同士は普通に考えたらライバルであり、一番の新人の信は当然標的になるだろうと思ったからだ。
しかし、古参である由良が快く歓迎してくれたおかげで、それを免れた。
そして、森家の一員として迎え入れてもらえたのである。
以来、信は由良に信頼を置いていた。
由良は、心優しく、純粋で、いつも一生懸命だ。
森が惚れたのにも頷ける。
彼はまた、森から唯一指輪を貰っている人でもあった。
真剣だということだろう。
だったら他を切ればいいのに、とも思うが、森曰く、欲望には勝てない、とのことだった。
いつか捨てられるぞ、と、店に来ていた頃から再三忠告しているが、まだ大丈夫だと思っているようだ。
典型的な「自分だけは大丈夫」脳の男だった。
信は呆れながら、森の動向を見ているのだった。
森は、だいたい週二日、信のところに来て泊まっていく。
愛人もやることも多いので、週の半分会っていれば良い方だ。
そして、しばしば水中洞窟の探検とか、ヨット乗りとかで海外に行ってしまうので、何週間も会わないということもある。
こういう旅行は挙手制なので、必ずしも行く必要はない。
信もはじめのうちは気を遣って行っていたが、ジャングルに連れていかれたり、険しい山に連れていかれたりするのに嫌気が差して行くのをやめてしまった。
旅行の際には美術館や、古城や、アンティークショップや、生命を脅かすような危険生物のいない公園に行きたい。
檻の中にいない野生動物や、虫や、険しい山道は観光に必要ないのだ。
だから、信は森の誘いを断っていた。
森は、特に気分を害したようすもなかったが、次に断れない誘いをかけてきた。
落籍の条件となった政界成り上がりゲームをやろうと言い出したのである。
旅行は断れてもこれは断れなかった。
かくして信は、政治家への道を歩み出したのだった。
約束の履行を求めた森がまず要求したのは、大学進学だった。それは主に、人脈を築くためだ。
名門と呼ばれる大学には、政治家や官僚の卵が集まってくる。
また、OB、OGの中にも有力者が多い。
そういった環境に入ることで、将来的に有用な人脈が築けるというのだ。
それで、家庭教師をつけて受験勉強をすることになった。
だがその相手が、のちに自分を苦しめることになろうとは、信はこのとき想像もしていなかった。
◇
それからまもなくして家庭教師がやってきた。秋津隆之という三十前後の男だ。
時間に正確なタイプらしく、チャイムが鳴ったのは、約束の時間の五分前だった。
お茶を出すために台所で用意していた信は、電気ケトルのスイッチを入れてからインターフォンに出た。
「はい」
カメラ付きインターフォンの向こう側に立っていたのは、コートに身を包んだ男だった。
相手はカメラに顔を近づけると、今日から担当させていただく講師の秋津ですが、と言った。
「お待ちしていました。どうぞお入りください」
信はそう返してマンションのエントランスのオートロックを解除した。
そして台所に戻り、ちょうどお湯が沸いたのを確認し、そばにドリップコーヒーとティーバッグを用意した。
そして、まず茶菓子だけをリビングのダイニングテーブルに持っていった。
そのタイミングで、ちょうど玄関のチャイムが鳴る。
信は玄関まで行くと、入り口の扉を開けた。
そこに立っていたのは彼と同じくらいの背格好の三十代半ばくらいの男だった。
パリッとした黒のコートをスーツの上から羽織り、銀縁眼鏡をかけている。真面目そうだ。
どことなく顔の輪郭が、昔いた店の支配人、小竹に似ていて若干腰が引けた信を、相手は眼鏡の向こうから見た。
「初めまして。秋津隆之と申します。天野信さんですか?」
「はい、初めまして」
「ご利用ありがとうございます。いろいろと相談しながら方針を決めていきましょう」
そう言って相手はニコッと笑った。
昔好きだった人を思い起こさせる笑顔に、信は若干動揺してちょっと声を上ずらせてしまった。
「中へどうぞ」
「すみません。お邪魔します。わあ、広いですね」
森から与えられたのは百八十平米ほどの2フロアをまたぐ部屋だった。
赤坂にあり、付近には飲食店や商業施設、オフィスビルが多い。
便利だが、住むのに適しているとはいえない立地だった。
たぶん森が自分の好みで選んだのだろう。
しかしもちろん文句を言うなどという身の程知らずのことはしなかった。
19階と20階部分にまたがる部屋は、一軒家並みに広かった。
二面に大きな窓があるリビングダイニングはなんと35畳もあって、そこからベランダに出られるようになっている。
キッチンも広々していてコンロや流しのある台の他に同じくらいの大きさのカウンターがもうひとつがあって、10人分くらいの料理を余裕で同時に作れそうだった。
さらに布団を敷けば寝られそうなウォークインクローゼットとか、テーブルとイスと観葉植物くらい置けるベランダとかまであって、マンションとは思えない広さだった。
この居心地の良い部屋をくれた森に感謝しながら、ここで引き取られてからの約9か月間を過ごしてきたのだった。
「こちらにどうぞ。今、お茶淹れますね」
「あ、すみません」
信に案内されてソファに座った秋津は鞄を足元に置いた。
「紅茶とコーヒー、どちらが?」
「コーヒーで。ありがとうございます」
「コーヒーですね。お砂糖とミルクは?」
「砂糖だけ少し、お願いします」
驚くほど礼儀正しい男に、家庭教師とはこんなものなのか、と思いながらコーヒーと自分の分のお茶を淹れて茶菓子と共に持っていくと、何やら資料をチェックしていた秋津が顔を上げた。
「すみません、ありがとうございます」
この男が帰るまで何回すみませんと言うか数えてみるか、と内心思いながら信はコーヒーを出した。
「はあ、あったまりますね」
「寒かったでしょう。今日は今年一番の冷え込みって言ってましたからね」
「風があると辛いですね。いやあ、近くには何回か来たことあるんですけど、ここのマンションは初めてです。いっつも中どうなってるんだろうって思いながら通り過ぎてたんですけど……すごいですね。いいなあ、こういうところに家を買うって。男としての夢ですよ。ずいぶんお若いのにすごいですね」
カマをかけているのかと思ったが、どうやら純粋に感心しているようだった。たぶん森が適当に経歴をでっちあげたのだろう。
自分の職業が何になっているのかあとで確認しなければ、と思いながら、信は曖昧に首を振った。
「いえ……」
「あ、すみません、立ち入ったことを。よく注意されるんですけどね、つい思ったこと言っちゃうクセがあって。すみません。……それで、えーっと、だいたいでいいんですけど、教科書どのくらいまで終わってましたか?」
秋津には高校を中退したことを伝えてある。それで勉強がどの程度済んでいるか聞いたのだろう。
「内容的には2年生までは終わっています。でもずいぶん間が空いたのでやった分も覚えているかどうか……特に地歴がちょっと」
というよりきれいさっぱり忘れていた。普段読書で接する機会のある英語はともかく、日本史や世界史の細かい年号は忘却の彼方だった。
「わかりました。じゃあちょっと簡単なテストをやってもらって、どのあたりから始めるか決めましょうか」
「はい」
「大丈夫ですよ、忘れてて当たり前なんで。じゃあ今から50分ですね。お願いします」
そうしてテストしてみた結果、地歴はダメダメだった。流れは覚えているものの、細かいところを忘れていて、結局1年生の初めからやり直しだった。
英語と論述はまだマシだったが、それでもやることはたくさんある。
信はゲンナリして1回目の授業を終えたのだった。
「どうだ、イケメンだっただろ? イケメン家庭教師」
その日部屋に立ち寄った森は開口一番こう言った。この男の頭にはそういうことしかないのか、と思いながら信は夕食をつついた。
「さあ……」
「好みじゃなかったか?」
「どうでもいいでしょ」
だいたい、勉強を教えに来る相手に何をしろというのか。信は非常識な森に心底呆れかえりながら食事を進めた。
「なんだ、外れか」
「いや、いいひとだよ。気さくで丁寧で」
「担当変えてもらうかな」
「あのね、彼らは勉強を教えにきてるんだよ。翔太郎さんのセックスファンタジーに巻き込まないでくださいよ。誰が来たって同じです」
「何だよ、ノリ悪ぃな。どんな男もひきずりこむ『底なし沼』はどこいった? 落としてみろよ。
あいつは世の中の汚いものなんか見ずにすくすく育った人間の典型だ。他人を踏み台にしていることすら気づかずに、世の中の表面だけ見て生きてこられた人間。そういうヤツって腹立たないか?」
「根性ねじ曲がってるな」
そうは言ったが森の言っていることがわからないわけでもない。
確かに秋津は綺麗だった。ある種の人間が踏み荒らしたくなるような、まっさらな雪原のような純粋さ。そういうものがある気がした。
「自分がどれだけの特権を与えられたかも知らずにのうのうと生きてるヤツ見るとなんかなーと思うんだよ。特にああいう……」
「まっとうな人間?」
「そう」
森はいったん箸を置き、ほおづえをついた。
「汚いことなーんも知りませんって顔して……」
「まあ、わからなくはないですけど」
森も名家の生まれながらにいろいろ苦労しているらしかった。はっきりと言ったことはなかったが、親類から虐待を受けていたことをほのめかすような発言を、彼は何度かしていた。
その上、両親の仲も険悪で、同居していた祖父は極端に厳しかったという。
そういうふうに育ったから家庭に夢などなく、今後結婚するつもりもない、と断言していたのを覚えている。だからあちこちに愛人を住まわせてよろしくやっているわけだが。
「面白いと思うぜぇ。ああいう真面目なヤツが落ちていってさ、捨てられたらどんな顔すんのかな?」
森の言葉は悪魔のささやきだった。彼のように露骨に口に出したりは絶対にしないが、確かに秋津のことはあまり好きではない。彼に与えられた境遇、拓かれた未来が、信には絶対に手に入らないものだったからだ。
父親が母親を虐待しない家庭、安穏とした学生生活、快楽のための道具として扱われない青春時代、そして当たり前のこととして通過する就職――どれも信には与えられなかったものだった。
こういう感情をいわゆるルサンチマンというのだろう。白銀で毎日あっぷあっぷしていた頃は気にならなかったのに、檻から出た途端に気づきだしてしまった醜い感情。
自分に与えられるはずだったものを享受し、それを当たり前のこととして受け入れて日々を過ごす恵まれた人々――彼らへの嫉妬がどうしようもなく信の中で燻っていた。
そして今回それをまざまざと突きつけられたわけだ。秋津という、順風満帆な人生を送る、恵まれた人間の出現によって。
「まさか……そんなことしないよ」
そう言いながらも、信は自分を疑っていた。