ルカの病室を後にしたラザロは晴れ晴れした表情で伸びをした。
「はぁ~~~っ、これでやっと自由になれるぜ。なあ、これが片付いたら旅行にでも行こう」
「うーん……」
「何、気乗りしない?」
「いや、アルさん大丈夫かなって」
するとラザロは頭の後ろで手を組み、のんびり言った。
「大丈夫だろ〜。アイツ妙にしぶといっつーか悪運だけは強いからな。それにしてもアイツがカミラの子供とはな」
「しっ!」
「何?」
「そのことは秘密って言われただろ」
「別にいいんじゃね? どーせ戻ってきたらアイツがドンになるんだろ」
呑気に言うラザロに若干苛立ちながら反論する。
「それはわからないじゃない。カミラさんはこれからどうするか言ってなかったわけだし。だからこの話は秘密にしておかないとダメだよ」
「まあ信がそう言うなら」
そう言いつつも、ラザロはこのことをあまり真剣に考えていないようだった。どうでもよさげである。
カミラもアルも、本当にどうでもいいのだろう。
こういう反応を見るにつけ、ラザロの情の無さが恐ろしくなる。
もしラザロを本気で怒らせたら、その日が自分の命日になるだろうという確信がある。
だが、それを恐れて言いたいことも言えない関係になるのは望ましくない。
そう思った信は、病院を出た辺りで思い切って口を開いた。
「あのさ、さっきの取り引きの件だけど、マウリの意向も聞いてから決めてくれないかな?」
「マウリ? 何であいつが出てくる?」
上機嫌に旅行の話をしていたラザロはわずかに眉を顰めた。
それに気圧されぬように腹に力を込めて話を続ける。
「違う意見かもしれないから」
「何で俺がアイツに従わなきゃいけない?」
「従えとは言ってないよ。ただ意見を聞いてほしいだけ」
「……信っていつもアイツの肩持つよな。アイツが好きなのか?」
「二人に優劣はつかないよ。ラザロはマウリで、マウリはラザロだと思ってる。だから二人とも好きだよ」
「……あんまゴチャゴチャ言いたくねぇから黙ってたけど、それって二股だよな?」
ここで再びマウリとラザロ両方と付き合うのは二股かどうか問題が浮上した。
「……そうかな」
「そうだろ」
パウロの迎えを待ちながら、病院の玄関前から少し離れた生垣の前でラザロと向き合う。そこは送迎車の乗降スペースの前で、玄関前ほどは人の往来が多くなかった。
迎えの車がレーンに沿って待機しているが、まだパウロの車は見えない。時折病院から出てきた人がその列の車に乗って去っていった。特に二人に関心を払う者はいない。
信は生垣を背に、言葉を選びながら言った。
「このことはマウリとも話し合ったんだけど、私の感覚としてはね、ラザロもマウリもサムエーレ君も同じ人間なんだ」
「理解できねぇな」
「そうだろうね……でもそうなんだ。君の人生は……本当に過酷だった。同じ立場だったのが他の誰でも耐えられなかったほどに。だから君は三人になってそれに対処することにしたんだと思う。そしてその中で最も強い君ーーラザロが一番辛い体験をしてきた。その試練は君でなければ乗り越えられなかったから」
「……」
「そんなふうにして育った君には子供時代がなかった。無条件で愛されるべき時期に愛情を貰えなかったんだ。だからそれを満たすためにサムエーレ君が生まれたんじゃないかなって思ってる。だから君たちは全員が協力し合って生き抜いてきたんだ。三人で一人だと思ってる理由はそれ。でも君からすればそうじゃないことはわかるし、納得いかないのもわかるから、納得いく形の付き合いにしたいと思ってる」
「つまり俺を選ぶってこと?」
ラザロは腕組みをした。表情と口調からあまり機嫌が良くないのがわかる。
だがこの話は避けて通れなかった。
信は勇気を出して首を振った。
「ううん。誰も選ばない。というか選べないかな。私にとっては全員大事だから。だから、マウリともラザロともちょっと距離を置くぐらいがいいのかも。マウリも、ラザロと付き合うことに一応は納得してくれたけど、本心では嫌だったと思う。ラザロもそうならもうそうしたほうがいいかなって。あ、でも友達としてはずっと付き合っていきたいかな。二人のこと、人間としても好きだし。だからーー」
そこでラザロは低い声で言った。
「別れるって言うのか?」
「だって、選べないし……」
「単純なことだろ? どっちを愛してるか。それだけだ。日本に迎えに行ったときお前は俺を愛してるって言った。あれは嘘だったのか?」
明らかに怒っている。目つきの鋭さに怖気づきそうになりながらも、なんとか口を開いた。
「う、嘘じゃないよ」
「じゃあいいじゃん。あの優等生とは同情で付き合ってたんだろ? 別れろよ」
「でも……」
躊躇っていると、ラザロは至近距離まで来て威圧的に言った。
「愛してるのか?」
「……うん」
「それは不可能だ。同時に二人を愛せるか? お前は俺が他の奴と付き合っててもいいのか? それで、そいつも信も愛してるって言っても信じる?」
「……」
「信じられないだろ? そういうことだよ。俺のこと愛してる?」
ラザロが一歩、また一歩と近づいてくる。拒絶したらどうなるかわからない、恐ろしい瞳でこちらを見据えながら。
だがここで引いたら健全な関係ではいられなくなる。ラザロとのことを真剣に考えるなら引くべきではない。
そう判断した信は腕組みをしてその目を正面から見返した。
「君の言い分はわかった。でも脅すのはやめて」
「脅す? そんなことしてない」
「してるだろ。そんなふうに強要しないで。この先のことはちゃんと考えるから」
すると、ラザロは苛立ったように舌打ちした。
「何だよそれ。浮気してた奴が言える台詞か? 許してやってたのに。……お前じゃなきゃ殺してるところだ」
「だからそういう物言いをやめろよ! 殺すとかなんとか……私はそういう世界で生きてこなかったんだ。そういうのいちいち言われたら怖くて何も言えなくなるよっ……!」
信は声を震わせて叫んだ。それは本心だった。ラザロと出会ってから恐怖や配慮で吞み込んできたものが一気に溢れ出たのだ。
ラザロとは生きてきた世界が違いすぎる。拷問や殺しが茶飯事の犯罪組織で育ってきたラザロに、人を傷つけることへの抵抗は全くない。事実、先ほど首を絞めて落としたジュリオの呼吸の有無さえ確認しなかった。
それは、信の常識からすればありえないことだ。人を殺すことを何とも思わない、人が死んでも平然としているような人間ははっきり言って理解できないし怖い。
それを上回る想いがあったからこれまでは黙ってきたが、愛情だけではやっていけない。お互いある程度の歩み寄りがなければ関係を続けることは不可能だろう。
だからいい機会だと思い、本心を話したのだった。
信の言葉を聞いて、ラザロはショックを受けたように固まった。
「怖い……? 俺が?」
「うん……。正直怖いよ。愛してるけど時々すごく怖いんだ、君のことが」
「けど……手を上げたことなんて一度もないだろ? これから先も……信を傷つけることは絶対にない。そう誓う」
「うん……。でも自分がされてなくてもそういうところを見ると怖くなっちゃうんだよ。人にいきなりナイフ投げたり、楽しそうに人を痛めつけたり、他にも色々。君は人を傷つけることに躊躇がない。それが怖いというか……そうでなければ生きていけない世界だったんだろうけど、でも今までの人生でそういう人とこういう関係になったことがないから戸惑ってしまうんだよ」
「畠山は? あいつもマフィアだっただろ?」
「うん。でも踏み込んだ関係じゃなかったから。元々お客だったからか、なんていうのかな、ご機嫌取りしちゃってたんだ。だからこういうふうに本心を言ったりしなかった。でもそれじゃダメだってラザロと出会って気づいたんだ。気づかされた、というか、自分にもっと正直にならないとって思って。だから言わせてもらうけど、人を傷つけて欲しくないんだよ、本当に必要でない限り。ルカさんのことだってやり過ぎだった」
「あれは……仕方ねえだろ」
「仕方なくない。ラザロ、人を傷つけなくても生きていけるよ。その必要がないぐらいいっぱい楽しいことをしよう。そうしたら君の人生はもっと彩りを持つようになる。悪は必ず裁かれる。巡り巡って絶対にね。だから君が罰しなくてもいい。そんなことに時間を使うより幸せになった方がそいつらへの復讐になると思わない? 私はそう思ってずっとやってきたよ」
「ッ……!」
ラザロがハッとしたように息を呑む。この程度の説得でラザロのすべてが変わるとは思わなかったが、少しは心に響いたようだった。
「ラザロ、いっぱいいっぱい幸せになろう。それで世界一幸せな家庭を築こうよ」
「……それってプロポーズ?」
「えっ? あぁ、そうかも……。そう、だね」
言われて初めて気づいたが、確かに言っていることはプロポーズそのものだった。
どうしようかとうろたえていると、ラザロはふっと表情を緩めて信の髪を撫でた。
「何だよ、先越されちゃったな」
「え? でも君は……結婚に乗り気じゃなかったよね?」
ラザロは結婚を望んでいなかったはずだ。マウリにプロポーズめいたことをされたと話したとき、反応が微妙だったのだ。
だから意味が分からず首を傾げると、ラザロは微笑んで言った。
「そんなことねえよ。あのチキン野郎に先越されたら最悪って思っただけ」
「そうだったの?」
「ああ。プロポーズも本当は準備してたけど……まさか信に先越されるとはな。でも嬉しいよ」
ラザロは幸せそうに笑って信にキスをした。その心からの笑みに自分まで笑顔になるのがわかる。
そうだ、この笑顔が見たかったのだ。その深淵のような目に光が差すのを、ずっと見たかった。
もうこうなったらマウリとは別れるほかないだろう。正直、二人を別々の人間として捉えたことはなかったが、ラザロは信がマウリと付き合うことを許容できない。どちらかを選ばねばならないということだ。
ラザロにプロポーズ同然のことを言ってしまった以上、彼を選ぶべきだろう。
信はそう判断し、たっぷりラザロの唇を堪能したあと、信はその耳元で囁いた。
「マウリとは別れるよ。それと……正式なプロポーズは君から欲しいな」
「わかった。最高の思い出にしてやるよ」
ラザロが言い終わったとき、車の扉が閉まる音が聞こえた。そちらを見ると、黒い車から降りたパウロが軽く会釈をした。それにラザロも気づいて、来るの早ぇな、と小さく舌打ちする。
信はその頬を撫でて言った。
「楽しみにしてるね」
「任せとけって」
信はラザロと笑みを交わし、その腕に腕を絡めて歩き始めたのだった。