それからしばらくは山に行かなかった。街での大学生活が楽しくてあまり帰る気にならなかったのだ。生まれ育った町が何もなかったことに、都会に出てはじめて気づいた。
優は地元に戻らぬまま二十歳を迎えた。それまででは考えられないような自由を謳歌しているさなかに「それ」は現れた。
「こんにちはぁー、お届け物でーす」
休日のその日、いつもの配達員が玄関口に現れた。きっとネット通販の商品だろうとまったく警戒せずに扉を開けた優に、青年は奇妙な笑みを浮かべ、中に入ってきた。
何かがおかしい、と思ったときには、配達員は三人に分裂し、毒々しい色の得体のしれぬ何かへと変身していた。それらの目は赤く、歯はとがって口は避け、そして鉤爪は鋭く、何でも切り裂けそうだった。
そのうちのひとりが、赤みがかった水晶玉のようなものを差し出しつつ、何でもない顔で話しかけてきた。
「コレ、うちのボスからのメッセージでぇす」
「な、何だよお前たちっ……」
首を振って後ずさりつつ、相手の様子を窺うと、彼らは一様にニッと笑った。安心させようと浮かべた笑みらしいが、恐怖しか感じなかった。
「何って、ジュダスさまからの言伝ですよ、冥王のご子息、マサルさま。成人のお祝いの品も同封されたとのことです。
すみませんねぇ、少し遅れてしまって。なにぶん人間界の年の刻み方は細かいもんで」
真ん中の悪魔は優をまじまじと見て、続けた。
「噂には聞いていたが、こんなに似ておられるとはな……。力の方は……どれ、失礼」
悪魔がそう呟いた途端、手から赤い光が迸ってこちらに向かってきた。二メートルの距離で避けられるわけもなく、マトモに直撃し、優はもんどりうって倒れた。
「くっ……何、すんだよっ……!」
あまりの衝撃と痛みに涙ぐみながら悪態をつくと、相手が寄ってきて意外そうに言った。
「これは失礼を致しました。……これは随分と、抑え込んでおるな」
差し出してくる相手の手を払い、自分で起き上がると、腹を庇いながらそばの壁に手をつく。
一体何が起きたのか全く理解できなかった。しかしアドレナリンが全身を駆け巡り、本能が、こいつらは危険だと警告音をしきりに鳴らしていた。
「『意志の力』……ではあの弟が」
「だろうな。洗脳されておるかもしれん」
「そうだった、マサルさまをかどわかし、結界を張って閉じ込めておったのだ」
優を放って難しい顔で何やら話し始めた悪魔たちに怒鳴りつける。
「帰れ!」
このときには平静を取り戻しており、目の前にいるのが関わってはならぬ類の者たちだとわかっていたので、優は奴らを追い出そうとした。
「お前らと話すことなんてない!」
「まあそうおっしゃらずに、話だけでも聞いていただけませんか? コレを届けないことには、我々は帰れんのです」
「お前らの事情なんか知るか! とにかく、お前らと関わる気はないから」
「とにかくこの小包だけでもお開けに……」
「出てけっつってるだろ」
ジュダスというのは冥王の名だ。堕落し、天を追われた元天神。そして、自分を捨てた父。
何度も何度も考えた。なぜ父は自分を地上に置き去りにしたのか。
自分が半神だからなのか。できそこないの半端者だから捨てたのか。
出自を知った日から悩んで悩んで、ある日考えることをやめた。
ジュダスは父などではない。父はセラひとり。自らを慈しみ育ててくれたのはあの天神なのだ。
「失せろ。お前らと話すことはない。もう遅いと伝えろ」
「しかし、これを見て頂ければ全てご納得されるはず……」
「出てけっつってんだろ!」
父の迎えを待ち望んだ日もあった。だが今更もう遅い。
自分で捨てておいて、都合よく呼び出しに応じるとでも思っているのか。
虫が良すぎる。冥王は父などではない。
「あぁッ、マサルさまっ……!」
「うわぁーーっ!」
「ぎゃあっ」
一瞬、閃光が走ったかと思うと、悪魔たちは断末魔の声を上げ、跡形もなく消え去った。
「俺、が、やったの……?」
優は呆然と立ち尽くし、自分の両手をただただ見つめていた。
◇
久しぶりに力の発露をしてしまったので怖くなって、優はその週末帰省した。そして山へ向かった。セラと話すためである。
誰よりもセラには、悪魔の訪問を報告せねばならないと思ったし、日に日に増しているくさい力のことも聞きたかった。
彼はその日他の山に出張していたらしく、行ってもしばらくは姿を見せなかったが、日暮れ前に帰ってきて、優の姿を見るなり抱きしめた。
「どうなったかと案じていた。息災であったかの?」
やたら相手から良い匂いがすることに戸惑いながらも、優はその背に手を回した。
「うん……しばらく来なくて、ごめん」
「よいのじゃ。それだけ人間界でうまくいっている証拠だからな。来ずに済むならその方がよい」
「うん……でも優、どんどんヘンになってる気がする……。この間、ジュダスの使いとかいうヘンな奴らが来た時、制御できなくて吹き飛ばしちゃったんだ……」
するとセラは血相を変えた。
「まさか、兄上の使いが? ありえない、なぜそんなことが……」
「三人一緒にだよ? 三人っていうのかわかんないけどさ……それで優、いつか誰かを殺しちゃうんじゃないかって怖くて怖くて……どうすればいいのかわかんない……」
優は若干泣きそうになっていた。大の男が情けないと思うかもしれないが、セラの懐に抱かれていると、つい弱音を吐きたくなってしまうのは昔からだった。
しかしセラは優とは別のことを心配しているようだった。
珍しく焦ったように矢継ぎ早に質問してくる。
「その者たちはどういう風体だった? 他に何を言っていた?」
「人間の姿をしていたから油断して玄関開けちゃったんだよ。そしたらいきなり襲ってきてさ。力を試すとかなんとか。それでカッとなっちゃって……。セラごめん、感情は出さない約束だったのに」
「人間? まさか……」
その直後に鈴の音がして、九尾の巨大狐が姿を現す。藍那というこの狐の妖怪は幼い頃からよく面倒をみてくれたセラの従者だった。
「お呼びでしょうか」
「突然すまない。少し天界(うえ)に用事ができてな。優を頼みたい」
「承知しました。いってらっしゃいませ」
セラは頷くと、宙に浮いた。
「優、悪いが戻ってくるまでここにいてくれるかの」
「え、でも学校……」
「火急の用なのじゃ。無理を承知で頼む」
「……わかったよ」
「すまぬな。では行ってくる」
そう言って天に昇ってゆくセラに、藍那がお気をつけて、と見送った。
優はため息をついてハンモックに寝転がった。
その途端、藍那はポンと音を立てて小狐の姿になった。
コロコロと太って愛らしい犬みたいな狐だ。
「ふう〜疲れたわい」
「もういい加減カッコつけやめたら?」
「うるさい。優、そんな所に寝てないで下りてこい。論語の続きからじゃ。子曰く〜〜」
木のローテーブルの上に本をおき、その傍らにちょこんと立って藍那が論語を誦んじ始める。
実は大狐の姿はまやかしで、こちらが本当の姿だった。しかしプライドが異様に高く、セラや他の妖怪の前では絶対この姿にならない。
優は舐められてるんだろう。
「優、早よう! 寺子屋に行けぬ間きちんと勉学に励まねば!」
「はいはい」
渋々従いながらセラに思いを馳せる。
天界に帰ったセラはしばらく戻ってこない。地上とは時間の流れが違うらしいのだ。
だから学期中には戻ってこないだろう。セラのことだから母親の方も学校の方もうまくやってくれただろうが、単位を落とすのは間違いない。
「留年しませんよーに」
「りゅ、なんじゃ?」
「留年。落第ってこと」
「なんじゃと?! それはいかん。ますます勉学に励まねば」
藍那は興奮したように言って鬼のような書き取り授業を始めた。
知識が江戸時代で止まっているので正直漢文古文の授業を今年取っていない優には無駄だったが、一生懸命教えてくれるので否ともいえない。
藍那の授業は、それからセラが帰るまで続いた。