「うん、よくできてますね。わかんないとこあります?」
「大丈夫です、今のところ」
秋津と出会ってからひと月が経っていた。信は勉強面では順調に課題をこなしていた。
しかし毎日のように顔を合わせる相手への苛立ちは日々増すばかりで心情的には葛藤していた。
「じゃあちょっと休憩したら次に入りましょう」
「お茶淹れますね」
そう言って立ちあがろうとした信を、秋津は押しとどめた。
「それよりちょっと外に出ませんか? いい天気だし、ずっと缶詰めだと息が詰まるでしょう」
確かに空は晴れ渡っていた。家にいるのがもったいない天気だ。
信は同意して上着を手にし、秋津と一緒に外に出た。
冬の凍てつくような、しかし清浄な空気が肺を突く。信が息を吐き出すと、呼気が一瞬白くなり、虚空に消えていった。
「やー、寒いなー」
「そうですね」
「あ、この辺でオススメのお店とかあります? 男だけどカフェ巡り大好きなんですよー。甘いものに目がなくて」
その言葉に、不意に菓子を食べまくっていた青年の顔が浮かぶ。秋二は元気にしているだろうか、と思いながら空を見上げた。
アンダーソン秋二は、店にいた頃可愛がっていた部屋付き禿(かむろ) だった。
「そちらの道を入ったところに一軒ありますよ。パンケーキのお店じゃなかったかな。中女の人しかいないけど」
「行きましょうっ! 行きましょうっ! あ、もし天野さんが大丈夫だったら……」
「いいですよ」
パッと顔を輝かせた秋津に、どくり、と胸が鼓動する。今まで気づかなかったが、彼は本当に秋二に似ていた。
素直でまっすぐで屈託がない。ちょっと空気が読めないところも、思ったことをすぐに口に出してしまうところも、無邪気なところもそっくりだった。
その屈託のなさ、太陽のような明るさが大好きだった。恋をしていたんだと思う。
だが、相手はまだ子供だった。十七とかサバを読んでいたが、実際は十五にも満たなかっただろう。
当時成人していた信に手の出せる相手ではなかった。
だから成就しなかった恋だった。
秋津と秋二は外見上は似ていない。
しかし内面は驚くほどよく似ていた。
信は今、秋二が隣にいるかのような錯覚に陥っていた。
カフェは住宅街にたたずむ瀟洒なマンションの1階にひっそりあった。看板も小さく、初めて通る人は絶対に発見できない場所だ。信も近所の奥様方に連れられてきて初めてそこがカフェだと知ったくらいだった。
階段を上がって木の扉を開けると、ちりんちりん、と涼やかな音が響く。
中はこじんまりしていて、通りに面した窓際にカウンター席が、右手の壁にひっつくようにして2人席が3つ、そして中央あたりに4人席が2つ。そしてその奥にレジと厨房があった。
いつものように近所の人たちで賑わっていたが、幸い見知った顔はない。信はなぜかホッとした気分で迎えてくれた店主にあいさつをして空いていたカウンター席に腰かけた。
こうすると他の客たちに背をむけられるのでさほど視線も気にならない。
信は興味津々で場違いな2人を見る女性たちを意識しないようにして、おしぼりを手に取った。
「わーっ、メニューめっちゃ充実してますね」
まったく周りを気にしないタチらしい秋津は、無邪気にそう言った。
彼が覗き込んでいるメニュー表には、パンケーキや他のデザートの写真などが説明書きと共に載っている。秋津のはしゃぎぶりを新鮮に感じながらメニューを見ていると、だんだんおいしそうに見えだした。
「オススメ、あります?」
「いや、あんまり来たことないんで……。知り合いはベリーがおいしいって言ってたけど」
「へえー。なになに、いちご、クランベリー、ブルーベリーをふんだんに使用……いちごは『とちおとめ』で、ソースには北海道産のフランボワーズを使用……。わーおいしそー。僕フルーツめっちゃ好きなんですよっ」
相手があまりに無邪気なので信は笑い混じりに聞いた。
「チョコは?」
「あ、チョコももちろんっ。ちょっと中毒みたいな」
「食べすぎると肌荒れちゃいますよ」
そう言って秋津の顔を覗きこむと、相手が一瞬動きをとめた。そして信をまじまじと見たのち、ハッとしたように目をそらした。
「あっ、えぇっと、そうですね。だから気を付けてます。……えーっと、天野さんもメニューどうぞ」
そうメニューを手渡してきた秋津に、信は言った。
「敬語、もうやめてもらえません? 却って気遣うので」
「あっ、そうです、か? うーんと、じゃあ、そうする、ね?」
「はい」
「あ、じゃあこの機会だから、これから下の名前で呼んでもいい? 僕のことも、そうしてもらっていいし。何か苗字だと堅苦しいからさ」
「わかりました……隆之さん」
「うん」
秋津はちょっとはにかんだように笑って頷いた。また心臓がドクリと鳴る。こんなに似ているのになぜ今まで気づかなかったのか。それが不思議なくらい、秋津は秋二とうり二つだった。
信はメニューを選ぶフリをしながら、秋二に会いたい、と強く思った。
世界を照らすような明るい光を放つあの子に、また会いたい。言葉を交わせなくてもいいから、ひと目だけでもまた見たい。
玉東を出て1年、じりじりと体内で燻り続けた欲望の炎が、秋津の出現で一気に燃え上がるのを感じた。
信はそっと息を吐いて、秋津といるのは辛すぎるな、と思った。