その三日後、マウリは目を覚ました。
無事日本を出国し、メルボルンのラザロのマンションに到着してひと段落したタイミングで出てきたのだ。
それは、ラザロが予想したとおり安全が確保できたタイミングだった。
寝室の一緒のベッドで目覚めたとき、マウリは隣にいた信を見て絶句した。
呆気に取られて自分を凝視している相手に、ラザロではないと直感する。
信は身を起こして言った。
「おはよう、マウリ」
「信? ここは……?」
「オーストラリアだよ」
「オーストラリア?!」
マウリが目を見開く。背後の窓からはカーテン越しに朝日が差し込んでいた。
夏らしく日の出が早い。
南半球のオーストラリアは夏真っ盛りだった。
「そうだよ。ラザロが連れてきてくれたんだ」
「ラザロ、あいつ……」
「とりあえずご飯食べようか。食事の時にでも話すよ」
「……」
信はベッドから起き出して着替えようとした。
すると、マウリが動揺したように言う。
「ラザロと寝たのか?」
振り返るとマウリの視線が裸の体を滑る。
昨晩セックスをしたので信は裸だった。
「ああ、うん……。ごめん」
「……あいつのこと、好きなのか?」
「……うん」
「そう……」
ラザロとは付き合っているが、マウリとは既に別れている。非常に複雑な状況だった。
マウリは無言で立ち上がり、淡いブルーのシャツとベージュのスラックスを身につけた。
それを見て服の趣味も違うな、と思う。
マウリはこういう上品で大人しい感じの服装が多いが、ラザロは原色や柄物を好んで着た。
はじめ、ラザロが出て来て人格がいくつもあると言ったときは半信半疑だったが、こうして見ると確かにラザロとマウリは別人だなと思う。
だが、根っこは一人として捉えていた。
信は柔らかいオフホワイトのシャツとベージュのチノパンを身につけ、顔を洗ってから朝食を作り出した。
ラザロが借りた部屋は、メルボルンのオフィス街から少し離れたところにある閑静な住宅街に建つ高層マンションの一室だった。
通り向かいには小売店が並ぶ便利な立地で、セキュリティは万全。
モダン調の広々した2LDKの部屋の窓からはポートフィリップ湾とその先のバス海峡が見えた。
ここは今回初めて借りたらしいが、メルボルンは時たま来ていたらしく、ラザロには土地勘があった。
家周辺の店はほぼ把握していて、朝食に美味しいパンを買ってきてくれたりするほどだ。
だが、マウリはこの辺をまったく知らないようだった。本当にラザロと記憶を共有していないのだ。
人格交代なんて本当にあるんだなぁ、と思いながら信は紺のエプロンを着け、朝食を作り始めた。
スクランブルエッグを作り、ソーセージと野菜を炒める。
そうして冷蔵庫から昨日作ったミネストローネを出して、ラザロは喜んで食べてくれたがマウリはどうだろうか、と思いながら器に移した。
そこでマウリが台所に入ってくる。マウリは物珍しそうにできた食事を見た。
「作ってくれたのか?」
「うん。口に合うかわからないけれど」
「ありがとう。悪いな、次は俺が作るよ」
そう言って隣に立って食パンを切り、パン焼き器で焼き始めたマウリをまじまじと見てしまう。
ラザロは全く台所に入ってこないタイプだったからあまりの違いに戸惑ったのだ。
マウリは料理をするらしかった。
一緒に生活してみて改めて知る二人の違いについて考えていると、チン、と音がしてパンが焼けた。
マウリはそれを皿にのせ、バターとマーマレードジャムを持ってダイニングテーブルに持っていった。
信はその背中を見送ってからスープとおかずをお盆にのせてそちらへ行った。
ダイニングは広々した開放的な空間で、天窓とベランダの窓からは燦燦と朝日が差し込んでいる。
家具はモノトーンを基調としたシンプルなものが多いが、ベランダのそばの観葉植物が雰囲気を柔らかくしている。それは昨日信が近所の花屋で買ってきたものだった。
「いただきます」
そう日本語で言って手を合わせて食べ始めると、マウリがそれを真似して片言でイタダキマス、と言って手を合わせる。
ナポリにいる間一緒に食事をしたときに、イタリア語のブオナペティートと似たような意味かと聞かれ、ちょっと違くて、食材や料理を提供してくれた人や食事そのものに感謝して生命をいただきます、という意味だよと答えたら、いい言葉だと言ってそれ以来食事の時にいただきますと言うようになったのだ。マウリのこういう素直なところが好きだった。
食事を始めたマウリは、ミネストローネを一口食べて言った。
「美味い」
「そう? よかった」
「信って料理うまいんだな」
「ふふっ、まだ一品目だよ。他のがめちゃくちゃまずいかも」
「そんなことないだろ」
そこでマウリが初めて笑う。それで張り詰めていた空気が和らいだ。
「マウリって料理するの?」
「うん、するよ」
「得意料理なに?」
「うーん……やっぱパスタかな。もしくはラザニア」
「へ~。イタリアンが好き?」
「イタリア人だからな。信は和食好き?」
「うん好き。日本にいた頃はだいたい和食かな」
「そっか。こっちだと食材ないか?」
「このあたりにはないねえ。でも大丈夫だよ、通販で買ったから。それにパンがすごく美味しいし。ヨーロッパに行ったときも思ったけど、本当にパンが美味しいよねえ」
そう言って食パンをかじる。小麦粉じたいが美味しいのか、製法が違うのか、欧州はパンだけは日本より断然美味しかった。それはオーストラリアも同様のようだ。だから今のところ米がなくても我慢できている。
だが一生パン主食で過ごすのは無理そうだったので、ラザロに言って炊飯器と日本米を通販で買ってもらった。
その際にカードを渡されて自由に使っていいと言われているが、ラザロの経済状況がいまいちわかっていないので使うのは控えていた。
働きたいとも思っているが、この近辺は小規模の店しかないためか募集がない。
オフィス街やダウンタウンの方へ行けばいくらでもありそうだが、安全上の理由で今はあまり遠出しないでほしいと言われているのでもう少し先になりそうだった。
「そうかな。ずっと食ってるとわかんねーな」
「うん。めちゃくちゃ美味しいよ。あとバターとか乳製品も美味しい」
「へー」
二人はそうやってひとしきり他愛ない話をしながら食事を終えた後、本題に入った。
先に切り出したのはマウリだった。
「……そろそろ話してもらっていいか? あの後のこと」
「そうだね……わかった。えっと、記憶はどこまである?」
「スコットランドで章介を助け出した後は記憶がない。こんなに記憶飛んだの久しぶりなんだけど」
「そっか、わかった。じゃあその後のことから話すね」
マウリの記憶はスコットランドで途切れていたので、信は一通りその後の経緯を説明することにした、
なかなか重い話なので、甘いものでも食べながらと思って紅茶を淹れ、茶菓子を添えて二人分テーブルに置く。
マウリはそれに礼を言って紅茶を飲みながら信の話を聞いた。
話し終わったとき、マウリはしばらく絶句していた。
マウリはしばらく絶句したあと、言った。
「俺が、バルドーニファミリーの後継者?」
「そう。アルさんはそう言ってた。それで、これを置いて行ったよ」
そう言って紋章入りの指輪をテーブルの上に置く。マウリはそれをまじまじと見つめた。
「これ、何?」
「バルドーニのドンが代々持つ指輪らしい」
「そんなの聞いたことねえけど」
「うん……ここ三代は着けてないみたい。それがなぜかっていうと、今のドンの祖父、ドン・ファウストがバルドーニを乗っ取ったからだって」
「はあ?」
マウリは信じられないといった表情をした。
「そんなことあるわけない。乗っ取り? どこからそんな話出たんだ?」
「アルさんが言うには、ドン・ファウストはその代の本来の後継者だったフランチェスコさんを襲ったんだって。それで、そのフランチェスコさんがマウリのひいおじいさんなんだって」
「……アルがそう言ってたのか?」
「うん。アルさんはマウリのお父さんの部下というか友達で、マウリのこと任されてたらしい。連絡先はここ」
信はアルの電話番号が書かれた紙を指輪の横に置いた。
「アルさんはこっち側に来てほしいって言ってた。それで、ファミリーをまとめてほしいって」
「……ちょっと電話してくる」
マウリはこわばった顔でメモ用紙を手に取ると、リビングから出て行った。
信は息を吐き出し、椅子から立ち上がって食器を片付け、エプロンを着けて皿を洗い始めた。
洗剤を付けたスポンジで皿をこすりながら今後のことについて考える。
ラザロはファミリーとは縁を切りたいと言っていた。だがマウリはどうだろうか?
マウリがロマーノの期待に応え、後継者候補として努力してきたことを考えると、ファミリーとの縁を断ち切れるとは思えない。
今だって話を聞いてすぐアルに電話しにいった。
どちらにつくにせよ、ファミリーとはかかわり続ける気がする。
だがラザロはそれを望まない。そうなったとき最終決定権はどちらの人格にあるのか。
普通に考えたら主人格のマウリの方だが果たして……。
そういうふうに色々考えていると、電話を終えたマウリが戻ってきた。
そして携帯をダイニングテーブルに置き、近づいてきて布巾を手に取り、皿を拭き始めた。
「アルと話した」
「そう」
「正直、アルがファミリーを裏切ったようにしか思えない。だから指輪以外の証拠出せっつったら、あとでメールで送るって言われた。それを見てから考えようと思う」
「そっか」
「ああ。だからしばらくは保留だな。まあ、父やルカとは敵対したくないから多分向こうにはつかない」
「うん、わかった」
「信は? どう思ってる、この話」
信はそこで水道水を止めてマウリを見た。
「実は、あの後私もネットで調べてみたんだ。でも昔すぎて情報がなかった。地元の図書館なら昔の新聞記事もあるだろうけど調べにいけないしね……」
「なるほど。そしたらパウロに調べさせるか」
「パウロさん?」
パウロはマウリと同世代で、彼が最も信頼している部下の一人である。
今も現バルドーニファミリーの本拠地、ナポリにいるはずだった。
「ああ。あいつは裏切らない」
マウリはそう言ってまた電話をかけ始めた。
基本誰も信じないラザロと違い、マウリは家族や部下を信頼していた。それは今も健在らしい。
相手が電話に出ると、早口のイタリア語で喋り始める。
「もしもし、パウロか? ああ、俺だ。……ああ、無事だ。見捨ててない、ラザロが勝手にやった。……そうだな、しばらくは大人しくしてるよ。それで、少し聞きたいことがあるんだが、お前ファミリーで昔何があったか知ってるか? 三代前……ドン・リカルドの時代だ。……やっぱ知らないよな。何かあったらしいんだが……おそらくあるとすれば図書館の新聞記事だ。調べてもらえるか?……助かる。じゃあよろしくな。……ああ、じゃあまた」
電話を切ったマウリは信に英語で言った。
「そのときのことはパウロも知らないらしい。でも図書館で調べてくれるらしい」
「よかったね」
「ああ。まあでも……ファミリーにはしばらく帰れなさそうだな」
寂しげに言うマウリに、やはりナポリに戻りたいのだ、と思う。何があっても帰る場所はあそこなのだろう。
だがそれはロマーノの所業を知らないからだ。
あの冷酷な性犯罪者にラザロが何をされたかを知ったらきっと戻りたいなどとは思えなくなる。
だがマウリがそれを知ることは一生ないだろう。
全ての苦痛の記憶はラザロが引き受けるからだ。
異なる記憶を持つ二人の望みは相反している。
さてこれからどうしたものか、と悩みながら、信は洗い物を再開したのだった。