7-5

 翌日の夕方、信とラザロはティレニア海の洋上にいた。
 遥か彼方に見える港町の家々には明かりが灯り始め、青空の端が橙に染まる時刻。
 見渡す限りの海と空の中で迎えるマジックアワーは驚くほどに美しかった。
 吹いてくる潮風は頬を突き刺すように冷たい。だがそれさえも清々しく気持ちが良かった。
 息を呑むような景色に見入っていると、ふと視線を感じる。横に顔を向けると、甲板の縁に立った信の横に来たラザロがこちらを見ていた。
 そして普段あまり見ないような満足げな微笑を浮かべて聞く。

「気に入った?」
「気に入ったなんてもんじゃない……最高だよ。こんな素晴らしい景色は初めて見た」
「そう。よかった」
「ありがとう、わざわざ」

 この中型クルーズ船を手配してくれたのはラザロだった。三階建ての大きな船内には二人と船長、航海士、そしてシェフの他に誰もいない。だから甲板には二人きりだった。
 そこで水平線の向こうに沈みゆく夕日を見るなど最高にロマンチックではないか。
 ラザロは最初の印象に反して思ったよりロマンチストのようだった。
 甲板の手すりに右ひじをつきながら透き通るような目を向けてくる。その目の色は、海よりも空に近い水色だった。
 そして前日に染料を落とした金髪が夕日に照らされてきらめいている。そのコントラストは見る者を魅了した。

「どういたしまして。でも景色より信の方が綺麗だけどな」
「ふふっ、ありがとう。ラザロもいつにもまして格好いいよ」

 そう言うと腰を抱かれてキスが降ってくる。腕を軽くつかんで応じると、ラザロはゆっくりと味わうように何度も角度を変えてキスをした。
 それが終わるとラザロは至近距離で信を見つめ、口を開いた。

「愛してる」
「私も愛してるよ」
「最初はさ……チキン野郎に嫌がらせしようと思っただけだった」
「マウリのことを?」

 ラザロはマウリをよくこうやって呼ぶ。

「ああ。あいつが好きになったって知って、ちょっかい出してやろうってあいつのフリして話してた。今思えば最低だけどな。あんときはごめん」
「いいよ。なんとなく違うなあ~とは思ってた」
「わかるんだ?」
「うん。なんとなくだけどね」

 ラザロは蕩けるような甘い表情になって信の髪を撫でた。

「いつもわかってくれる。わかってくれるのはお前だけだ」
「そう?」
「そう。だから全部さらけ出した。誰にも言ったことがないことも全部。誰も俺のことなんて理解してくれないと思ってた。こんな怪物……愛してくれないと思ってた。だけどお前は俺を拒絶しなかった……愛してくれたんだ」
「っ……」
「優しくて頭が良くて見た目も中身も綺麗で、俺なんかにはもったいないような人だと思う。正直振り向いてもらえるなんて思っていなかった。俺はすげー幸運だと思う……信と出会えたことが人生で一番のラッキーだよ。多分今までのしょーもない人生はこのために運を取っておいたんだろうな。それ思ったらそんなに悪い人生じゃなかったかも」
「ラザロ……」
「わかってると思うけど、俺たちが生きてきた世界は全く違う。見てきたものも、出会ってきた人も。俺がいたのは殺すか殺されるかしかない暴力の世界だ。だから、信の常識では考えられない感覚っつーのかな、そういうのが普通になっちゃってる部分もあると思う。昨日言われて気づいたんだ。俺、信の立場になってなかったなって。普通の感覚っていうのがもうわかんなくなっちゃっててそれでお前を怖がらせちまって、本当に悪いことしたと思う。ごめんな?」
「ううん、私こそ……」

 ラザロは真剣な顔で話を続けた。

「自分では全然気づいてなかったし、言ってもらってよかったと思う。これからもそういうのは遠慮せずに言ってほしい。全部直すっつーのは難しいかもしんねーけど、できる範囲で改善するよ」
「ちゃんと考えてくれたんだね。嬉しいよ」

 ラザロは粗暴かもしれないが賢い。そして譲歩することを知っている。
 信はこの言葉で彼がこの先ともに生きてゆける相手であることを確信した。

「復讐するより幸せになった方がいいって言ったよな? それで目が覚めたっつーか、ハッとしてさ。今まで俺は憎しみの塊だった。神も人も世界も信じていなかった。全部に傷つけられたから。だからそいつらに復讐して、傷つけて、そうすれば生きていけると思ってた……。けど、信と出会って全部どうでもよくなった。お前さえいれば他はマジでどうでもいいなって。だから放したくない。ずっとそばにいてほしい」

 ラザロはそこで跪き、指輪を取り出した。そしてケースの蓋を開ける。
 中には輝くばかりのダイヤの指輪があった。
 こういうシチュエーションを何度も夢見てきた。店にいた頃から今に至るまで何度もそれを夢想し、その先にある家庭に憧れてきた。
 それが今現実のものになろうとしている。信は息を呑んで指輪を見つめた。

「信、結婚して」
「……はい」

 するとラザロはパッと顔を輝かせて立ち上がり、その指輪を信の左手薬指にはめた。
 そして信が渡された指輪をラザロの薬指にはめると抱きしめた。

「信……」
「一緒に幸せになろう、ラザロ」

 そう言って背中に手を回し、抱きしめ返す。
 そうしてしばし抱き合っていたが、不意にラザロの気配が変わる。そして低い声がした。

「信、俺を捨てるのか? 愛してるって言ったのにラザロを選ぶのか!?」
「っ……マウリ?!」

 思わず体を離すと、燃えるような瞳でこちらを睨むマウリの姿があった。
 驚きと恐怖で一歩後ずさると背中に甲板の手すりがあたる。

「信が選べないって言うから付き合うのを許したのに、今になってラザロを選ぶのか? こんな抜け駆け……酷すぎる」
「マウリ、落ち着いて」

 肩を怒らせたマウリが一歩また一歩と近づいてくる。助けを求めて周囲を見たが、あいにく誰もいなかった。大声で叫んで声が届く範囲に人がいるだろうか、と考えを巡らせる。
 マウリは信の左腕を掴み、指輪を外そうとした。

「外せよ!」
「痛っ……! 嫌だ、やめて」
「こんなの外せよ!」
「嫌だ! 放せよ! マウリ、悪いけれど君とは別れる。ラザロと結婚するんだ」

 その途端、マウリはショックを受けたように目を見開いた。

「なんで……なんであいつなんかと……?」
「ラザロが好きなんだ。だから放して」
「けど言ったじゃん、ラザロは俺で、俺はラザロで、だから両方愛してるって」
「そうだったけどラザロは納得しなかった。だからマウリとは別れたい」
「わけがわからない……なんであいつなんだよ!?」
「私だってわからないよ! 二人とも愛してるけど、どっちかを選ばなきゃないなら仕方ないだろ?! もう正直君たちとどう付き合っていけばいいかわからない……こんな経験、今までしたことないからわからないよ。二人の要求をどうしても満たせない……だったらどっちか選ぶしかないだろ? じゃなきゃ両方失う。先にちゃんと説明しなかったのは申し訳なかったと思う。それは本当にごめん。だけどこれで納得してほしい。こういう形しかないと思う……」

 信はマウリの手から逃れようともがきながら説明した。
 すると、マウリはこれまで見たこともないような暗い目で言った。

「ならあいつを消す」
「っ……!? どういう……っ?」

 マウリはうっそりと笑った。

「簡単なことだ。ラザロには消えてもらう。そうすればもう選ばなくて済むだろ?」
「っ……そんなことできるはずない」
「できるよ。主人は俺だからな。これまでも邪魔な奴らは排除してきたんだ。ヒス女とか、悪ガキとか、子供好きな変態野郎とかな。それで最終的にマシな三人になった。ラザロは使えるから残してきたけど……こうなったらもういらないな。だから殺す」
「やめて! そんなことしないで!」
「ならラザロと別れろ。……と言いたいところだが、あいつも性格上絶対に退かないからな。だからこうしよう。信は俺とも付き合う。それが許容できないなら消す、とあいつに言うよ。それから、俺からのプロポーズはまた改めてするよ。こんな船酔いする場所じゃなくてもっといいとこでな」
「……」
「信?」

 信は混乱していた。二人の板挟みになってもはやどうすればいいかわからない。
 マウリの言う通りにしてもラザロは納得しないような気がするし、逆もまた然りだ。
 完全に身動きが取れない状態だった。

「わかんない……どうすればいいかわかんないよ……。私は……二人の根っこは同じだと思ってた。同じ人間の別の一面だと。だから二人と付き合っていたけど、ラザロからそれは浮気だと言われた。そのときはそれもそうだと思ったんだ。だからマウリと別れると言ったけど……でもマウリは駄目だと言う。もう正直どうすればいいかわからない。二人を同時に満足させるのは不可能だよ。ラザロは二人と付き合うのを許容できないんだ。脅すようなことを言って無理矢理認めさせても、ラザロは幸せになれない……だからどっちか選ばなきゃないと思う」
「信、大丈夫だ。ラザロのことは俺が説得する。お前は選ばなくていいんだよ。まあいつかは俺を選んでほしいけど、少なくとも今選ぶ必要はない」
「……説得できる?」

 マウリは信の両手を握って力強く頷いた。

「もちろん。あいつとは付き合いが長いからどうすればいいかはわかってる。こんなことで嫌な気持ちにさせちゃってごめんな?」
「マウリ……私……」
「信、俺からも言わせて。初めて出会ったときから惹かれてた。これまで誰にも……女にも男にもこんな感情を持ったことはなかった。触れたいと思ったのもお前が初めてだ。運命って言っちゃうと陳腐かもしれないけど、でも本当にそうだと思う。、だから、一緒に生きていきたい。一緒にこの地で生きていきたい。それで家族になって世界一幸せな家庭を築きたい。信とならそれができると思うから」
「っ……」
「立場が立場だからファミリーのこととか、色々面倒もあると思う。危険も、正直ないとは言えない。でも俺が絶対守るから……絶対に守り抜くから、だから結婚してほしい」

 そうしてマウリは跪き、信を見上げた。
 まさか一日に二度プロポーズされるとは思っていなかった信は言葉を失った。

「……」
「ってごめん、指輪も無ぇのに。でも今どうしても言いたかったから。俺も信のことを想ってるってこと」
「……想いはわかったよ。ありがとう。じゃあ……ラザロが納得したらプロポーズを受けるよ」
「わかった。ちゃんと話しとく」

 マウリはそう言って立ち上がり、信を抱きしめてキスをした。

「信、愛してるよ」
「私も」

 信は、永遠に相反する望みを抱くマウリとラザロの折り合いをどうつけてゆくかを考えながら、そのまましばらくマウリと共にそこにいて日が暮れるのを見届けたのだった。