セラは雲の中を飛んでいた。上へ上へ、すごいスピードで上昇してゆく。
雲を抜けた先には、野に花が咲き乱れる天界があった。
すべて心の美しい人間の魂が住まう場所。ここは、地上での修行で疲れた清い魂がその傷を癒し、再び生まれ変わるまでの休息所だった。
であるから、ここに苦しみはない。病も、死も、飢えも、争いも、欲もない。
あるのは永遠の平和だけ。この美しい場所で、人々は穏やかに暮らしていた。
そこを抜けると白亜の神殿が姿を現す。丸柱が特徴的なそれは神々の住まう場所だった。
そこでセラは地に降り立って正面入り口から入った。
光り輝く長い廊下の先には大広間があり、そこに天を統べる四神がいた。
父ゼノスピテカイウス、そのきょうだいのアルハイヌとメラアクアレク、そしてセラの兄シーラクヒアラクだ。
父や兄とはいっても天神に性別はない。地上では有性生殖を行う人間たちが性別を含めた言葉にしてしまったが、本来父は親を、兄は歳上のきょうだいを指す言葉だった。
天神に生殖器官はなく、神力と呼ばれるエネルギー体を放出して別の天神を産む。
であるからセラの親はゼノだけだった。
セラが広間に入るとそれまで何事か話していた神々が話をやめてこちらを見る。
セラは玉座に座るゼノの前に跪いた。
ゼノは低い声で言った。
「何か申し開きはあるか」
「ございません」
「ならばお前を永久追放とする。審議は既に済んでおる。異論ないな?」
「……あの者は、厄災の子ではない。おそらくはあの者のきょうだいがそうなるでしょう。ですから命だけはお目こぼし頂きたい」
「不遜な。お前はいつから予言者になった。世の始まりにもたらされた魔女の予言はただひとつ。堕した半神がこの世を破滅に導くであろうという予言。
堕した半神それすなわち冥王の子。穢れた血を引き継ぐもの。
それの始末をしたとお前は言った。だが嘘であった。
嘘は大罪であり、世の調和を破壊する堕神を滅さなかったのは職務放棄である」
世の始まりと同時に魔女から伝えられたという予言。その信憑性をセラは昔から疑っていた。
確かに人間の命を司る魔女は、天神、海神と並びこの世界の創世以来存在する大きな存在である。
海の底に住み、命の核と呼ばれる物体を使い、人間に命を与え、時に奪う。
主に自然の調和を保つことを目的とする天神が人間にほとんど関与しないのに対し、魔女は人間をコントロールしていた。
であるから人間にとっては魔女が全能の神である。しかし、魔女が神と呼ばれぬのには理由があった。
「父上は、その予言が真実であるとお考えですか?」
「疑う理由もない。疑うのは人間のすることだ」
「しかし、魔女の予言はそれひとつしかない。半神というからには半分は人間。人間の命に不干渉という我々の掟に反するのでは?」
「我々が作り上げてきた美しき自然を害する者は何であろうと排除する。
世界を完全にしているのは美しい自然だ。
これがわからぬのならお前は天神失格。下界に長くいすぎるからだ。
お前が兄と呼ぶあの堕神はもう戻ってこん。堕落し、卑しき悪鬼と成り果てた。そんなこともわからぬほどお前が愚かだったとは。
まるで人間ではないか。
堕神を二神も産んでしまうとは我ながら情けない。
罪を犯し、堕した兄と穢れた血同士仲良く永劫冥界で暮らすがよい!
今をもってこの者の神力を剥奪し、冥界へ永久追放とする」
そう言い終わると同時にゼノの手から銀の光が放たれ一直線に向かってくる。
「父上、無礼をお許しください」
セラはそう呟き、手をかざして金色の光を放った。
二つの光線が激突し拮抗する。やがて金の光が優勢となった。
銀の光を押し戻してゆく。広間は煌々と輝き目を開けていられないほどだった。
力の均衡が崩れる直前でセラは光を引っ込め、舞い上がった。
「親不孝をお許しください」
「その堕神を捕らえよ!」
ゼノのかけ声で一斉に広間にいた神々たちから色とりどりの光が放たれる。セラは手をかざしてそれらを打ち払うと、神殿を後にした。
天界を飛び出した瞬間に結界を張って追ってくる神々から身を隠す。そして海の底へと転移する。
一条の光も差さぬその場所は、魔女の住処だった。
セラの曽祖父カテーエラスがこの世を創世した時、共にあったのはオーラムという地神だった。
魔女の先祖であるこの神は、同じく命を司り、動物と、のちに人間を造った。
カテーエラスが草花に命を与え、山と海を造り、谷を穿ったとき、オーラムは地球最初の生物を造った。
時が経って代替わりをすると、次の地神はそれを進化させた。
そうして代替わりを繰り返した地神はやがて人間を創造した。このときの地神はナユルカンドという。
ナユルカンドは人間に知性を与え、長じてはこの世を安定的に統治する種として育てようとした。
しかしこれに単独種の支配を好まない天神と海神は反発し、袂を分つこととなった。
孤立したナユルカンドは地上を放浪し、孤独の中で腹いせに人間にあるものを与えた。
それが「所有の概念」である。
それ以前、人間は所有を知らず、すべてのものは共有のものだった。
しかしその時人間は所有を知り、財産を造った。そして財を巡る果てない争いが始まったのである。
これを良しとしなかったセラの父と当代の海神の長ジークは、ナユルカンドを以後神とは呼ばなくなった。
ナユルカンドは魔女と呼ばれて海底の最も深い場所、命の核の近くに封じられて、以来そこにいる。
これが、地神が魔女と呼ばれる所以だった。
それゆえに、セラは予言を完全に信じることができない。
人間と長く共に暮らし、道を踏み外した子孫が出るような地神の予言にどの程度信憑性があるのか疑問だった。
だが昔話はともかく、今は話をつけにいく必要があった。優のためだ。
元々人間の生命を司る地神であったナユルカンドは当然半神の優の命も握っている。
完全な神であるセラは不死であり、その命は魔女のコントロール下にはない。
しかし、半分人間の優はその手から完全に逃れることはできない。
だからセラが天神達から優を隠してもこの海の底に来られたら意味がないのだ。
天界と友好関係にないといえども、人間を翻弄して遊ぶのが好きな魔女は自分のおもちゃが他人に壊されるのをよく思わないだろう。
そしてまた、仮にも先祖の予言を軽視することもないだろう。
きっと魔女は天神たちにアッサリ優の命を渡す。そうなればもう救う術はない。
だからそうなる前に魔女をこちらに引き入れる必要があった。
海の底を進んでゆくと、魔女の飼っているクラゲが集まってきてセラを取り囲む。そのひとつに触れると、カラカラと音がして闇の中にぽう、と小さな木の小屋と庭とが浮かび上がった。
そして扉が開いて赤い目をした老婆が出てきた。
小柄な体に黒いローブを纏い、同色の円錐形の帽子を被っている。
人間界の魔女伝説に出てくる魔女そのものだった。
彼女がその伝説の元なのだ。
魔女は胡乱げにこちらを見た。
「セラ、今度は何だ。前回言ったはずだよ、助けるのはこれで最後だと。命はそう軽々しく扱って良いものではない。大いなるさだめに逆らうのは大変なのだぞ。
それに救ったとて変わらぬ。結局は同じこと。あの登山客も死んだろう?
まあとにかく上がりなさい。この老いぼれに近況でも聞かせておくれ」
「今日は少し込み入った話をしに参った。時間がないので結論から申させていただくと、天界を追放になった。厄災の子を排除しなかった罪でだ」
家の中にセラを招き入れ、キッチンに向かっていた魔女は勢いよく振り返った。そして赤い瞳でセラをまじまじと見た。
「まさか……厄災の子を匿っていたのか? 千年も?」
「優は私の結界の中で成人した。本人は二十歳だと思っているが」
1人がけのソファに腰掛けながら頷く。セラはこの千年、優の記憶を何度も書き換えて人間として生きさせていた。
曙山の守護の結界の中で、天神たちからひた隠しにして。
優が生まれたのは約千年前であり、それは兄ジュダスが冥界に落ちたのとほぼ同時だった。
人間と番った罪で冥界に追放された兄と共に相手の人間も封じられ、そこで命を落とした。
冥界の毒気に耐えられなかったのだ。
そして、その人間が産み落とした半神、優を「排除」するよう命じられたのはセラだった。
しかしセラは父ゼノの命に背き、赤子を保護したのだった。
「それはまた……なぜそんなことを」
「兄の子に手をかけられるわけがない」
「お前の兄贔屓も相当なものだね。だがあれはお前を死ぬほど憎んでいる。いったいどこでどう行き違ったのか」
「まあそれは……どうでもいい。ところで本題じゃが、父上達がじきにここへ来る。その時に優の命の緒を切らないでほしい。半神にはないようだとでも言い訳してくれ」
「命の緒」というのは生命の源泉「命の核」から全ての人間に繋がっている糸のようなものだ。これが人間に命を与えており、それが切れると人間は死ぬ。
切れる時期はあらかじめ決まっているが、魔女がその裁量である程度自由にできるのだった。
「お前も偉くなったものだねえ。このわしに向かってそんな口がきけるとは。
災いの子を見逃せと? とても天神とは思えぬ頼みだ。追放されるわけだな」
「あの子には力が顕現せぬよう強い封印を施しておる。地を滅ぼすような力はない」
「だが天から追われているのだろう。今のところまだ神力はあるようだが、剥奪も時間の問題。
そうなれば封印が解ける」
「その時は神使の藍那が引き継ぐ。山を治める土地神じゃ」
「……こいつか」
呟いて机にある水晶玉を覗きこむ。そこには机に突っ伏した優を木の葉で小突く小狐が映っていた。
後ろ足で立って葉でぴちぴちと優をしばく姿にしらず笑みが漏れる。
彼はセラの前では決して本当の姿にならないが、出会った日からこちらが本来だということは知っていた。
天神には他の神や生き物の本質を見抜く力が備わっている。
「こんな小物にそれができるのか?」
「この土地神は齢千歳近い妖狐だ。資質は十分」
「そうは見えんがのう……。それよりお前、笑ったね? 天神が笑うとは」
セラの一族には感情がない。怒りも、悲しみも、喜びも、憎しみも。
常に心は凪いで泰然自若とし、何かを欲しいと思うこともない……はずだった。
しかし優と長く付き合ううち、セラは僅かながら人間の感情を理解できるようになっていた。
「さあ……」
「冥王と何があったのだ。そこまで一介の人間に肩入れして。まるで人間と番った兄の真似事ではないか」
「兄上は間違った道を進んでおられる。私はただそれを正したいだけだ」
「優によって冥王が救われると?」
「かもしれぬ。大事な人の忘れ形見だからな」
「だがあれは怒りを鎮めるかの? お前が殺したと思っているだろう。あのときは酷い怒りようだったと聞き及ぶ」
「じゃがああするしかなかった。半神の優は冥界では育てられぬ。あそこの瘴気が人間には強すぎるのだ」
「それにしたって事情位話しておいてもよさそうなものを」
魔女は非難がましい目でセラを見、紅茶を啜った。
「何度か試みたが信じて下さらなかった。優がまだ幼くて連れていけなかったのも災いしてな。そのうち出禁を食らってこのようなことになった」
「なるほどねえ……で、さすがにもう冥界に行くのであろう? 他に隠れる場所もなし」
「行かざるを得ないだろう。しかし優は連れていかぬ。成人したとてあのような場所は半神に悪影響を及ぼす」
冥界はこの世界の底の底、あらゆる悪意、欲望、悪徳がはびこる場所だ。
半分は人間である優が影響を受けないわけがなかった。
セラでさえ行くと胸が悪くなるのだ。
「何だ、親の情でも湧いたか」
「そうかもしれぬ。それに予言のこともある」
「予言か……まあよい。ではどこへ逃がす? 天神の長から逃れられる場所などどこにも……待てよ、時守りの花か? あんなものが存在したのか?」
時守りの花とは、時空の裂け目を作ることができる伝説的な花のことだ。
それは、最も必要としている者のためにのみ開くという。
そして何より大事なのは、その時空の裂け目に神が、例え天神であろうとも、たち入れぬことだった。
セラは、こうなった場合に備え、その伝説の花の場所を探し回って突き止めていた。
「それについてはお答えしかねる。だが、優は父と兄の手の届かぬ場所に移す」
「なぜそこまでして厄災の子を救おうとする? 世界を滅ぼすやもしれんのだぞ」
「封印がある限りそのようなことはできぬ。それに……信じておる」
「何だ、ただの親バカじゃないか。当代の息子は揃いも揃ってろくでなしだね」
魔女は呆れたように目をぐるりと回した。
「それで、命の緒の件は了解して頂けるか」
「まあそれは良いが……嘘がバレたら本当のことを言うからな」
「それはありがたい。御礼申し上げる。これは気持ちばかりだが、良ければお使いになるよう」
セラは立ち上がると掌を天井に向け、神力を凝集した光の球を作り、魔女に手渡した。
「おお! これは……」
「これでしばらくは命の核の世話をしなくて済むだろう」
命の核には日々のメンテナンスが必要であり、この魔女は1日の大半をそれに費やしていた。
本来は造作もなくできるが、神力を奪われた魔女は妖程度の力しかない。
だから、毎日毎日、一日の大半を費やして働かねばならないわけだった。
魔女がその役を課されているのは人間の争いを起こした罰だ。
「お前だけだよ、この老いぼれにこんなに優しくしてくれるのは。目の保養にもなるしねえ。またおいで、茶でも飲もう」
「しばらくは来れぬ。こちらの問題が片付き次第お邪魔しよう。
それから私が立ち寄ったことはくれぐれも内密にしていただきたい。父上達が間もなくいらっしゃるだろうから」
「わかっているよ。冥界へ行ったらろくでなしの兄によろしく言っておいてくれ」
「承知した。それではまた」
セラは小屋から出ると、見送りに来た魔女に一礼してその場を立ち去った。