7-6

 翌日、クルーズから帰ったマウリはラザロとの対話を試みた。マウリを嫌っているラザロは基本呼びかけても出てこないことが多い。だから成功するか微妙だったが、思ったより早く応答があった。
 暗闇の中から出てきたラザロは不機嫌そうに腕組みし、開口一番こう言った。

『全部見てたぞ、勝手しやがって。俺を消すとかなんとか言ったのも聞いてたからな?』
「じゃあわかってるよな? どうすればいいか。シンを独占するのをやめろ。お前のその独占欲のせいでシンは苦しんでる。そんなこともわからないのか?」
『吠えるなよ。負け犬の遠吠えってなんでこんなにうるさいんだろうなあ? シンは俺を選んだ。それが事実だろ、向き合えよ』
「はっ、何勘違いしてるんだ? 選んだんじゃない、お前が『選ばせた』んだろ? 脅すようなこと言って怖がらせて……最低だな」

 すると、ラザロはマウリを睨んだ。

『最低はどっちだよ? シンのこと見捨ててクソジジイ取ったのはそっちだろ。それで見切りつけられたんだろうなぁ、可哀想に』
「あれは……ああするしかなかった」

 その答えにラザロが嘲笑する。

『そうやって何回尻尾巻いて逃げた? その尻拭いは誰がしたと? お前みたいな腰抜けはシンにふさわしくない。いい加減身を引け』
「身を引くとすればそっちだ。わかってるだろ? 俺に従わなかったらどうなるか……ファビアナやヴィートがどうなったか覚えてるだろ?」

 ファビアナとヴィートはかつてマウリの中にいた交代人格だ。ファビアナはヒステリックな三十代の女で、ヴィートはペドフィリアのジジイだった。
 二人とも問題児でとても手に負えなかったのでマウリが消した。そのことはラザロも知っている。
 だから下手なことはできないはずだった。
 ラザロは舌打ちをして言う。

『俺なしでやってけると思ってんのか?』
「ああ。逆らうなら消す」
『てめぇは……どこまでもクソ野郎だな』
「身を引けとは言わない。同じ体なんだから共有すればいいだろ? シンもそれを望んでる。お前さえ折れれば丸く収まるんだ。エゴは捨てろ」
『ッ……わかったよ。けどなあ、いつかどっちかが選ばれる日が来るからな! でそん時に選ばれるのは俺だって覚えとけ!』

 ラザロはそう言い捨てて闇の奥に消えた。マウリは息をつき、何とか説得できたな、と安堵する。思ったよりもスムーズにいって内心意外だったが、まあラザロからしてみれば消されるよりはいうことをきいた方がいいのだろう。
 主人格でないラザロに他の人格を消す力はない。この能力の差がマウリを圧倒的優位に置いていた。
 マウリはそうやってラザロとの対話を終えると信にその旨報告し、その足でルカが入院している病院へと向かった。人質交換の日程と手順が決まったので、それを伝えるためだ。ドンであるマウリがじきじきに行く必要はなかったが、ナポリのファミリーの後継者筆頭であるルカの命を狙う者は多い。だからリスク回避のために自分が行くことにしたのだった。

 正直、ルカに対する気持ちは複雑である。ナポリにいた頃、ルカはもっとも頼れる兄のような存在だった。ロマーノの養子として孤立しがちだったマウリをファミリーに引き入れてくれたのもルカだったし、病気を理解し、常にそのサポートをしてくれたのもルカだった。
 だからその先祖がマウリの曾祖父を殺し、ファミリーを乗っ取ったという話を聞いた時、はじめはとても信じられなかった。
 ルカも、ドンのネロも、その部下達も養子であるという理由でつまはじきにされていたマウリを受け入れてくれた。そして家族として扱ってくれたのである。その人たちが裏切り者だなどとは思いたくなかった。

 だが、次々と物証を突きつけられてはそれが真実だと認めざるを得なかった。ルカとは殺し合う運命だったのだ。
 ルカがナポリに帰り次第、ローマのファミリーはナポリのファミリーに襲撃をかける。そしてどちらかが死ぬまで殺し合うことになるだろう。
 だからこれがルカと話す最後の機会だとわかっていた。
 マウリは複雑な思いを抱きながら病院に入り、エレベーターで入院病棟まで上がった。そしてルカの部屋のある個室フロアまで移動し、病室の入り口に立つ見張りに声をかけてから扉を開けた。
 中では、全身包帯とギプスに覆われたルカがベッドに横たわっていた。リクライニングベッドを少し起こした状態で窓の外を眺めていたルカは、扉の開く音で振り向いた。

「マウリか?」
「ああ。調子はどうだ?」

 いつものように表情だけで人格を見分けるルカに近づき、ベッドのそばの椅子に座る。ルカは心持ち顎を上げてこちらを見た。

「悪くない。痛み止めが効いてる」
「そうか。……悪かったな、ラザロが迷惑かけて」

 正直、迷惑をかけたどころの怪我ではなかったが、ルカは気にした風もなく首を振った。

「お互い様だろ。こっちこそ悪かったな、奇襲かけるような真似して。戻ってくるよう説得に行くつもりだったが部下が暴走した」

 先日のマウリの屋敷を襲撃した件のことを言っているのだろう。確かに、ラザロは最初に攻め入ってきた中にルカはいなかったような話をしていた。ルカに忠実な部下がこちらを裏切り者とみなし、攻撃を仕掛けたのだろう。

「まあ仕方ねえな。ああ、それから人質の交換はあさってになったから。テッラチーナで引き渡しだ。体辛いと思うけどなるべく配慮するから我慢してくれ」

 テッラチーナはナポリとローマの中間にある港町だ。

「一緒に来るだろ?」
「ああ。立ち会うよ」
「そうじゃなくて、こっちに戻ってくるだろ?」

 こっちというのはネロ率いるナポリのファミリーのことだろう。

「……いや、行かない」
「なぜ?」

 琥珀色の瞳が問うようにこちらを見つめる。マウリは少し躊躇ってから答えた。

「だって……もう無理だろ。戻ってもまたあの治療されるか殺されるだけだし、もう戻れねえよ」
「じゃあこっちに残るのか?」
「ああ」
「ドンとか呼ばれてたようだが、本当にドンになったのか? 裏切り者の組織だぞ」
「それが……こっちが本当のバルドーニだったらしくて」
「どういうことだ?」

 眉をひそめたルカに、こちらに来て告げられた真実を伝える。しかし信じられないようだった。

「まさか……冗談だろ。うちが裏切り者? そんなわけがない。戦前から続く家系だぞ」
「俺もありえないって思った。けど……めっちゃ色々証拠見せられてさ。これもそう」

 マウリはそう言って首にかけていたネックレスを外して手渡した。そのネックレスには父と母の結婚指輪が通してあった。

「これは?」
「父親と母親の結婚指輪。父がバルドーニの直系だったらしい。なんでもドン・ファウストーーつまりお前のひいじいちゃん?の母親の日記にドン・ファウストは先代のドンの子供じゃないって書いてあったらしいんだよ。で、その先代のドンと俺が血ィ繋がってるとか。初めはとても信じられなかったけど当時の新聞記事とか歴代ドンの写真とか色々見せられてさ」
「……」
「だからもう信じざるをえないっつーか……俺はこっち側の人間だったらしい」
「信じたのか?」
「ああ。どっちにしろ向こうには帰れない。何が真実でももうここしかないから。だから俺は残るよ」
「……そうか」

 ルカはなんともいえない表情をしていた。

「まあお前も本調子じゃねぇんだしさ、しばらくはナポリから離れといたら?」
「だから甘いんだよ、お前は。そんなんでやっていけるのか?」

 口ではそう言いながらもルカは表情を和らげ、愛しげにこちらを見ていた。

「やれるよ。やるしかねえし」
「まあ慣れるか」
「ああ。さっきの話だけど、好き好んでやり合うこともないだろ? 俺たち兄弟みたいなもんだしさ」
「そんなことはできないとわかっているはずだ。俺は家族を見捨てないし、お前の部下は俺を逃がさない」
「……だな」
「ファミリー間の抗争はずっと続いてるからな。決着がつかない限り終わらない。そういうものだ。ただ、俺がお前に銃を向けることはない。それだけは言っておく」
「……何で?」

 マウリの問いに、ルカは当然とばかりに答えた。

「家族だから」
「っ……!」
「お前は俺の弟だ。だから銃は向けない」
「そんなん言われたら……俺はどうすればいいんだよ」
「殺せばいい。そうすればここでのお前の地位は不動のものになる」
「何でそんなこと言うんだよ……わけわかんねえ」
「お前が大事だから」

 そう言ってまっすぐ見つめてくるルカに激しく動揺する。大事にされているのはわかっていたが、内心これほどとは思っていなかった。ルカは本当に家族として愛してくれているのだ。そのルカと近い未来に殺し合わねばならない。そして父や叔父とも。
 本当にこちらにつくという判断が正しかったのかわからなくなる。だが今更後戻りはできなかった。

「そんなこと言って……どうせできねえとか思ってんだろ」
「いや」
「嘘だ。ルカはいつもそうだ……俺だけ子供扱いしてさ。男だと思ってないだろ」
「? どこからどう見ても男だろ」
「そうじゃなくて、一人前だと思ってないだろ? フェデリコとかアロンツォとかとは扱いが全然違った」

 実の弟の名前を出すと、ルカは少し言葉に詰まった。

「それは……お前は特別だから」
「それが嫌だったんだよ。同じように扱って欲しかった」

 ルカは実弟二人に対して非常に厳しかった。
 彼はルカ派のリーダーとして従兄弟のアウグスト達との水面下の抗争を率いていたが、それを支える弟達への要求水準は非常に高く、僅かな失敗も許さなかったのだ。それが敵に付け入る隙を与えることになるのだと事あるごとに二人に言い聞かせていたのを覚えている。
 だが、同じ派閥であるマウリに声を荒げたことはほとんどなかった。仕事で失敗しても叱責されたり罰されたりしたことがない。
 しかしマウリはずっとそれを望んでいた。

「そうだったのか……。それは悪かった」
「血が繋がってないから?」

 するとルカは強く否定した。

「それは違う。お前は弟同然……というかもっと神聖というか」
「神聖?」
「ああ。なんていうのかな、綺麗で侵しがたいというか……とにかく神聖なんだ。だから態度が違ってしまったかもしれない」
「訳わかんねえ……」
「だろうな。でもそうなんだ。だから認めてないなんてことはない。お前は立派な男だよ」
「……」
「今からでも遅くはない。戻ってこないか? お前の家はこっちだろう? 問題はラザロだけだ。それはドン達もわかっている。だから治療さえうまくいけばまた元通りになる」

 それは甘い誘惑の言葉だった。マウリだってできるならば戻りたい。血は繋がっていなくてもナポリのファミリーこそがマウリが育った場所であり、家族だからだ。
 だが人格統合の治療はもう受けられなかった。あまりにも負担が大きすぎるのだ。

「俺だってそうしたいけど無理だよ……。あの治療はもう無理だ」
「……そうか」

 ルカは明らかに落胆したようだった。それに胸が締め付けられるように痛む。だがこのとき、マウリは非常に重要なことに気付いた。
 ルカはラザロを切り捨てようとしている。マウリの人格を統合し、問題児のラザロを切り捨て、マウリとサムエーレのみがファミリーに戻ることを望んでいる。
 だがシンは違う。シンは全員を愛すと言ってラザロを消そうとしたマウリを止めた。これが両者の決定的な違いなのだ。
 ルカは間違いなく頼れる兄だったし、それはこれからも変わらない。ルカなりのやり方で愛してくれたんだろう。
 だがルカのそのような姿勢に対し、シンはそれは条件付きの愛で、愛ではない、と批判した。マウリを愛しているならラザロもサムエーレも同等に愛せと言ったのだ。
 そのときは言っている意味がよくわからなかったし、ルカを批判したことにいい感情は抱かなかった。
 だが今理解した。そしてシンの言い分はある角度から見れば正しかったのだと実感した。

「じゃあそろそろ行くよ。サムエーレが出てきたがってるから」
「わかった。またな」
「ああ」

 頷くと同時に意識が薄れてゆく。そうしてマウリは深い意識の底へと沈んでいったのだった。