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 彰は結局、メイク室に戻ってこなかった。

 腹でも壊したのだろうかと思いながら撮影部屋に行くと、彼はそこで編集者やカメラマン、他のモデルとテーブルの周りに集まって、立ったまま話し込んでいた。

 丸テーブルに置かれた紙を見ながらあれこれ話しているところを見ると、撮影の打ち合わせらしい。

 彰は入ってきた淳哉を認めると、手を挙げて合図をした。

 そちらに行くと、現場を統括する雑誌編集の中年女性、伊東が話しているところだった。

 

「なるほど、カメラを女性に見立てて二人だけのショットもいいかもねえ。三人で、女の子が両手に花っていうコンセプトしかなかったけど」

「採用するかはそちらのご判断ということで。とりあえず、ご提案という形ですが。僕らのファン層はツーショット結構好きなんで」

「まあ、とりあえずやってみましょうか。あ、佐渡君も来たから説明しておくと、今回の撮影は二人がうちのモデルの河村ジェーンを取り合うという設定ね。

 上京してきた三人はルームシェアをしていて、それぞれが夢を追ってる。

 その中で、二人ともジェーンが好きになっていくの。

 時系列で撮っていくから、だんだん想いが強くなっていくような表情にしてください。

 それから、一応、メインはジェーンの着回しコーデだから、それを引き立たせる感じでお願いします。

 それから、水沢君から提案があったんだけど、最後に二人だけのショットも追加で撮ろうかと思ってる。佐渡君はどう?」

「いいと思います」

 

 そうとしか答えようがない。

 淳哉は、大海原に放り出された赤子の気分だった。

 

「オッケ。じゃあ始めるよー。最初は、ジェーンを挟んでソファに座って、映画を観るシーンから」

 

 伊東がよく通る声で指示を出すと、カメラマンやほかのスタッフがすぐさま配置につく。

 撮影部屋は、パステルカラーを基調とした明るい部屋で、大きな薄型テレビを向くようにして大きめのソファとテーブルが置かれている。

 観葉植物が近くに置かれた窓は開放されて、吹き込む風がレースカーテンを揺らしていた。

 

 三人が白いアンティーク調のソファに座ると、すぐに撮影が始まる。

 どうすればいいかわからずおろおろしていると、彰が小声で言った。

 

「淳哉、どこ見てんだよ。こっち」

 

 そう言われて慌てて河村を見る。

 艶やかな長い茶髪を後ろでひとつにくくり、正面のテレビを見つめる河村は、ものすごい迫力だった。

 ブラウスにジーンズというカジュアルな恰好なのに、磨き上げられた美貌には一部の隙もない。

 ひるんでいると、伊東が言った。

 

「佐渡君、表情硬いよ~。家なんだから、リラックスしないと」

「すいません」

 

 そんなことを言われても、ここは家ではないし、周りには大勢のスタッフがいるし、隣のモデルはすごいオーラを放っている。

 照明もフラッシュも眩しいし、暑くて仕方ない。

 その上、どうすればいいかわからない。

 ポージングのレッスンは受けたが、表情のことはたいして教えてもらっていないのだ。

 いったいどうすれば、と内心頭を抱えていると、彰が笑った。

 

「お前ガチガチじゃん」

「うるせえ」

「意識しちゃってんの? 自意識過剰」

「なっ……! ちげえよっ」

「河村さん、ごめんね。こいつ女の子に免疫なくて。めっちゃ綺麗だから意識してるみたい」

 

 すると、河村はくすくす笑ってこちらを見た。

 

「可愛い」

「っ……」

「お前身の程を知れよ。河村さんがお前なんか相手にするわけないだろ」

「だから、ちげえって」

 

 公衆の面前でおちょくってくる彰に殺意が芽生える。

 後で覚えてろよ、と思いながら睨むと、彰は楽しげにまた笑った。

 

「とりあえず俺のこと見とけよ。そしたら緊張しないだろ」

「………」

 

 まあ、確かに彰は見慣れているし、男だから緊張しない。

 それに、最近はしょっちゅう家に来ているから家感がなくもない。

 そう思って河村ごしに彰を見ていると、緊張がほぐれていった。

 ニヤニヤしながら目を合わせてくるのに腹が立つ。

 ヒヨコのように右往左往している淳哉を見て完全に楽しんでいた。

 しかし、その苛立たしさが緊張を打ち消して、表情は自然になったようだった。

 

「あ、いい感じ〜。はい、そのままそのまま〜。佐渡君、もうちょっと近付ける? もうちょっと」

 

 言われた通りにしたが、また、もう少し、と言われる。

 これ以上近づいたら、河村に息がかかるような距離になる。

 躊躇って固まっていると、ソファの背側から手が伸びてきて腕を引かれた。

 それで一気に河村との距離が縮まり、再び撮影が再開される。

 

「ッ……!」

「いいじゃん」

「マジでふざけるなよ……」

 

 犯人は当然彰だった。

 彰は手を離し、その手を河村の頭に乗せた。

 そして、淳哉よりさらに近い、キスするような位置で河北を見つめる。

 河北は少しもじもじしながら、前を向いていた。

 

 そのままの体勢でもう何枚か撮ったあと、今度は部屋を移動し、書斎のようなセットで撮影が始まる。

 ここで衣装替えが入って、河村は白いフレアワンピースにデニムのジャケット、淳哉は白いシャツに黒のスラックス、彰はグレーのジャケット姿に着替えた。

 大きな本棚をバックに、同じ本を取ろうとして手が触れ合う河村と彰を、淳哉が少し離れたところから見るシーンだ。

 

 一応、メインはこの二人ということになっていた。

 しかし、メインじゃないから多少は気楽だと思ったのは大間違いで、切なげな嫉妬の表情、と指示を出されてもできない。

 何度もリテイクが入って心が折れかけたとき、彰が撮影を止めさせてやってきた。

 そして、一言言った。

 

「花ちゃん思い出せ。河村さんが、花ちゃん」

「あ……」

 

 花ちゃんというのは、小学校低学年の時に好きだった女の子だった。

 三年に上がると同時に転校してしまった初恋の相手だ。

 告白すればよかったと泣いたのを、彰が慰めてくれた記憶がある。

 それを思い出した途端に胸が苦しくなる。

 あれは結構トラウマだった。

 

「すいません、もう大丈夫です」

 

 彰が言うと、撮影が再開される。

 今度はすんなりオッケーが出た。

 そのセットでの撮影が終わると、カメラマンの中山が感心したように言った。

 

「佐渡くん、すごく良かったよ。水沢くんのアドバイスで別人になった」

「よかったです」

「何て言ったの?」

「秘密です。な、あっくん」

 

 彰は上機嫌で淳哉の肩を抱き、衣装部屋に戻った。

 今回、二人には専用の衣装部屋があてがわれていた。

 モデル達がメイクルームを衣装部屋としても使うためだ。

 撮影予定のないキッチンのセットがあるスタジオ部屋が、淳哉と彰の衣装部屋だった。

 そこに入り、次の衣装に着替える。

 

 次は屋外での撮影で、カフェのテラス席のセットで撮る。

 淳哉と彰はカフェの店員で、そこに河村が遊びに来るという設定だった。

 だから衣装は、カフェの店員が来ていそうな、白シャツに黒いタイ、ベスト、スラックスというパリッとした格好だ。

 こういう衣装はMVの撮影でもよく着ることがあった。

 体の線がはっきりわかる格好をすると、なんとなく彰が痩せた気がした。

 元々どちらかというと細身だが、腰回りが更に細くなった気がする。

 

「お前、体重測ってる?」

「ああ。何で?」

「ちゃんと管理しろよ。すぐ痩せるから」

 

 すると、彰はいきなり抱きついてきた。

 

「ちょっと、何だよ」

「お前が管理して。飯食わせて〜」

「わかったよ。ほら、もう行くぞ」

 

 そして淳哉は自分にひっついていた彰を引き剥がし、部屋を出た。

 そして廊下を通り、外に出る。

 見上げると、曇っている空が暗くなり始めていた。

 冬の名残が残っているこの時期は、日没が早い。

 鳥が数羽、雲の下を飛んでいった。

 

 撮影スタッフ達は、きびきびと照明をセットに当てて、ラテアートを施したカフェラテを準備していた。

 そして、再び伊東の声で撮影が始まる。

 淳哉が、注文されたカフェラテをテラス席の河村のところへ持っていくと、既に河村の向かいに座り、話している彰と鉢合わせるという設定だった。

 

 このときの指示は「互いに牽制し合う表情」、そののち席にに座り、河村の「気を引こうとする表情」をする、というものだった。

 これは、彰の真似をすればいいのかもしれない、と思いつき、そうしてみたらすぐにOKが出た。

 なんとなく掴めてきた感じがしてきたところで、スタジオでの撮影は終了となった。

 

 最後は、レインボーブリッジに移動し、東京湾の夜景をバックに三人でデートっぽい散歩をするシーンの撮影をする。

 そのため、三人と照明係、ヘアメイクなどのスタッフ、各自のマネージャー、そして伊東は二台のロケバスに分乗して橋に向かった。

 

 レインボーブリッジに着く頃には完全に日が落ちて、橋はライトアップされていた。

 近くの駐車場に車を停めて、橋を歩いてゆく。

 朝から番組収録、雑誌の撮影が続き、初めてのことだらけで目まぐるしい一日だったが、疲れは感じなかった。

 

 撮影地点まで行くと、再び伊東の指示で撮影が始まる。

 三人でのシーンを撮ったあと、最後に彰と並んで欄干に手をかけ、海を眺めるシーンの撮影に入った。

 最後にやると言われていたツーショットシーンの撮影だ。

 それでやっと今日が終わるのだとわかった。

 

 欄干に手をかけて立っていると、潮の香りが鼻をくすぐる。

 この辺りは久しぶりに来たな、と思った。

 黒々した東京湾に浮かぶビル群を眺めていると、彰がぽつりと言った。

 

「死ななくてよかった」

「……は?」

 

 思わず横を見ると、彰は見たこともないような顔で海を見つめていた。

 

「あ、聞こえてた? ごめん、忘れて」

「何だよ、それ」

 

 すると、彰は取り繕うように淳哉と肩を組んだ。

 フラッシュが何度も光って撮影が進んでゆく。

 しかし、もう撮影どころではない。

 彰の発言にショックを受けて、それどころではなくなっていた。

 

 彰は、死のうとしたことがあるのか。

 だとしたらいつ、どんな理由で?

 思い返してみても、そんな素振りがあった時期はない。

 だとすれば、淳哉が見逃したか、彰の裏切り行為で絶交していた時期に何かがあったかのどちらかだ。

 後者のような気がした。

 思い当たることがひとつだけあるのだ。

 

 彰は、ホワイトローズプロダクションに入って三年目の春に『スターライトレイヤーズ』のメンバーとしてデビューした。

 既に練習生時代から人気があった彰は、グループの中心メンバーとして売り出されるのと同時に俳優としてもデビューし、一気に芸能界の表舞台へと踊り出た。

 そうして、まだ練習生でステージに上がったことさえない淳哉を尻目に華々しく活躍し始めた。

 

 だが、デビュー翌年の年明けのある冬の日の深夜、彰は当時淳哉が一人暮らしをしていたアパートに突然現れた。

 そして、縋るような表情で、一晩だけ泊めてくれと言ってきた。

 当時、一緒の事務所に入るという約束を破り、他事務所に入った彰に腹を立てていた淳哉は、相手と一切連絡を取っていなかった。

 しかし、その晩のあまりに切羽詰まった表情に、ただごとではないと直感し、家に入れた。

 そして、何も聞かずに一晩泊めた。

 翌朝、彰はこれで最後にするから、と言って去り、以後は現れることはなかった。

 そんなことがあったのだ。

 

 その後しばらくは気になって連絡しようか悩んだが、結局しなかった。

 親同士が繋がっているので、しようと思えばできただろうがそうせずに、遠回しに互いの母親経由で様子をきくだけに留めたのは、プライドのせいもあっただろう。

 当時、まだ彰を許す気にはなれなかったのだ。

 

 その後、彰は何事もなかったかのようにどんどん活躍の場を広げ、芸能界の階段を駆け上がっていった。

 だから、そんなことがあったことすら忘れていた。

 だが、あの時本気で死のうとしていたなら、何があったのか。

 単純に過労だったのか、他に何かがあったのか。

 考え始めると止まらなくなって、淳哉は上の空で撮影を終えた。

 そうしてロケ車に乗り込み、食事会場に向かう。

 同乗していたスタッフとマネージャーの半分は、道中で自宅沿線の駅で降りていった。残りの人は事務所に寄って帰るようだ。

 淳哉は帰ってゆくスタッフ達に挨拶をして見送り、その後、彰と共にグループの打ち上げ会場の焼肉屋で降ろしてもらった。

 そうして彰に促されるまま店の裏手に回ると、裏口から黒いエプロン姿の店員が出てきた。

 彼女は、彰を見るなり言った。

 

「いらっしゃいませ。いつもご利用ありがとうございます。こちらへどうぞ」

「どうもすいません」

 

 名前を聞かれることもなく、店内に案内される。

 常連なんだな、と思いながら、淳哉は彰に続いて店に入ったのだった。