7

 海底の魔女の家から出ると、セラはすぐに曙山に転移した。
 地上での時間経過は早く、山を出たときには春だったのに、季節は既に夏になっていた。
 青々と繁った木立の中、ひときわ太い大木のうろに入る。
 すると待ちくたびれた様子の優と、姿勢を正した藍那が出迎えてくれた。

「戻られたか、セラ殿」
「おせーよセラ。もう一学期終わっちまったじゃねーか。帰って単位の確認しないと……留年ギリかもしんねえ」

 ハンモックに寝そべって呑気に言う優に近づき、その体を浮かせる。

「うわっ! なんだよっ」
「いったいどうされた?」
「至急優を他の場所に移さねばならなくなった。この山を頼む」

 セラの言葉にそばに控えていた藍那は首を振った。毛並みが金色に光る。

「山の守護は既に倅に引き継いでおる。どこへなりともお供致そう」
「おそらくもう戻れぬ。それでも良いか?」
「別れは済ませておりまする」
「心から御礼申し上げる。山の神よ」

 そう言って膝をつくと、藍那は少し後ずさった。

「そのようなことをなされるな」

 言われるまま立ち上がると、狐の神は深淵な瞳で見上げてきた。

「国荒廃し、人間の信心薄れ、この曙の山を手放そうかという時に助けて下すった御恩は忘れませぬ。我はこの身尽きるまでセラ様にお仕え致す」
「こちらこそ、長きに渡りこの地を治めてくれたこと、礼を言う。
 あなたのおかげで曙の地は幾たびも戦火を逃れた。並の土地神にできることではない。
 築き上げたこの地を本当に去ってよいのか?」
「セラ殿の行くところを次の故郷といたそう」
「ありがとう」
「では参ろうか」

 頷き、藍那にも手をかざしたところで優が大声を出した。

「おいっ! 俺は無視かよ」
「優、すまない。今は説明している時間がないのじゃ。向こうに行ったらきちんと話すから」
「行き先位教えろよっ。どこに行くんだ?」
「今は言えぬ。追手が……」
「追手って……」

 言い終わるのを待たずに優と藍那を連れて海を越え、西方の大陸に飛ぶ。
 その中央南寄り、地球で最も高い峰の中腹より少し上に降り立つ。
 ちょうど積雪がある場所とない場所の境目あたりだった。
 昼日中だが、登山ルート上にない傾斜のきつい箇所なので他に人間はいない。
 冠雪した美しい峰々に囲まれた霊峰の山肌は白く光っていた。

「うっ、寒っ。何だここ、冬?」
「エベレストじゃ」
「えっ、エベレストお?」

 身震いしながら辺りをきょろきょろと見回す優に結界を張ってやってから、セラは跪いて山肌に手を当てた。
 中からわずかに鼓動が聞こえてくる。ここで間違いなかった。
 セラは目を閉じ、しばらくそうしていた。
 すると山肌が光り出し、二つに裂けてその裂け目から一輪の花が生えてきた。
 セラは息をついて光り輝く花を掬い上げ、立ち上がった。

「何それ」
「時守りの花じゃ」

 呆気に取られたように花を見る守にそう答えてやる。
 すると、藍那が感嘆のため息をついた。

「何と……噂には聞いていたが、本当にあったとは」
「以前来たときは出てきてくれなんだ。だから賭けだったのだが」
「優と来たから開いたのでは? 時守りの花は本当に必要な者にしか与えられぬと聞き及ぶ」
「すると開けたのは優だと?」

 妖狐は重々しく頷いた。

「そのように思う」
「ちょっと、2人してさっきから何の話してんだよ」

 苛立ったようすで割り込んできた優に、セラは言った。

「全て説明している時間はない。じゃがおぬしは命を狙われておる。成人して結界が効かなくなり、我が一族に見つかったのだ」
「一族って……」
「天神達じゃ。多くの神が冥王と人間の血を引く優が世に厄災をもたらすと信じておる。
 だからここへゆけ。この中は安全じゃ」
「花の中に?」

 セラは頷いた。

「これは時守りの花といって、時空の狭間へ繋がっておる。そこならばいかな神とて手出しできぬ」
「セラも来るんだろ?」
「神は立ち入れん。だからこそ安全なのだ」
「だけど、大丈夫なのかよ。俺匿ってたことバレちゃったんだろ? ヤバいんじゃねーの」
「案ずるな。こちらはこちらで何とかする。落ち着いたら迎えに行くからの。少し時間がかかるかもしれぬ。藍那殿、優と共に行って頂けるか?」
「それはもちろん。だが入れるだろうか」
「試す価値はある。無理ならば仕方がない」
「わかった。やってみよう」

 セラは宙に浮かせた花を2人の方にゆっくり近づけた。
 するとわずかに桃色がかった白い光が強くなる。
 その光が大きくなり、2人を包み込んだ。

「優、達者でな」
「セラこそ、無理すんなよ! 待ってるからな」

 セラは口元にわずかに笑みを浮かべて2人を見送った。
 どうやら時守りの花は藍那も受け入れたようで、2人の姿は同時に消えた。
 あたりが静寂に包まれる。いつの間にかちらちらと雪が舞い始めていた。
 雪が降ると思い出すのは優の母、優子と出会った日のことだ。あの日も地上では雪が降っていた。

 ◇

 約千年前、セラとその兄ジュダスは優の母親、優子と出会った。
 セラは人間界の散歩の最中に、ジュダスはそれを注意するために下界に降りた時に、ほぼ同時に出会った。
 人間界に降りることは父に禁じられていたが、セラはしばしば言いつけを破っていた。
 さまざまな地を旅し、その頃散策していたのが太平洋の端に浮かぶ島国だった。
 その土地の神々と交流したり、人間達の生活の様子を観察したりして楽しんでいた。
 父からすれば、放蕩息子もいいところだっただろう。

 そのときにセラがいた曙山で迷子になって途方に暮れていたのが優子だった。
 鬱蒼とした木立の中で座り込んでいた優子は、セラが現れるとこちらを見た。
 それで、人間の子供にたまにいる「見える子」だということがわかった。
 こういう子たちはえてしてセラを怖がらない。優子もそうだった。
 そばに寄っても逃げず、じっと黒曜石の瞳でこちらを見上げていた。

 セラはしゃがんで子供と目線の高さを合わせ、名を名乗った。そして名前を聞くと、子供は小さな声でゆうこ、と答えた。
 それから少し話をすると、家を抜け出してひとりで来たとのことだったので麓まで送ることにした。
 ジュダスが来たのはその時だった。

 彼は来て早々説教を始めたが、やがてセラが連れている子供に気づき、それはなんだと聞いてきた。
 人間だと答えると不思議そうな顔をして子供を見たが、それきり何も言わなかった。
 その反応から、珍しい生物を見た程度の認識なのだろうと当時セラは思ったが、それは見当違いだった。
 ジュダスはそれから魔女の所へ通って、千里眼の水晶玉を通してその子を見るようになったのだ。

 優子はあっという間に成長し、大人になった。その姿に心奪われたジュダスはゼノに隠れて地上に降り、その娘と関係した。
 生殖器官を持たない天神のジュダスがどのような方法を使ってそれを成し遂げたのかはわからない。
 しかしそれは成功した。そしてすべてがゼノの知るところとなり、天界を追われたのだった。

 天神の本来の職務を放棄した罪で天界を追放されたジュダスは、神力を封じられ冥界に落とされた。
 同様に神と関係した罪で生きながら冥界に落とされた優子は、優を産んでまもなく息絶えた。
 冥界の瘴気に耐えられなかったのだ。それに恐らくは半神の出産にも。

 優もまた、セラが見つけた時、瀕死の状態だった。
 冥王である兄ジュダスは、最愛の人を失った哀しみにうちひしがれながら、息子を胸に抱いていた。
 しかし、その体からの瘴気が赤子を蝕んでいた。
 それを見てとったセラは赤子を抱かせてくれと言った。しかし兄は聞く耳を持たなかった。
 というより何も耳に入らなかったのだろう。

 そこでセラはやむなく赤子を奪い取り、冥界を出た。
 そして他の天神たちに見つかる前に赤ん坊の母親の郷里、曙町へと飛び、町と、その町を囲むようにしてある山々に守護の結界を張り、乳児をその中に隠した。

 予想通り、地上に出た赤子は息を吹き返した。それまで青白かった頬には赤みが戻り、弱々しかった泣き声は山あいに響き渡るほどになった。
 セラはその赤子を二百年付きっきりで世話をした。
 自らの神力の属性を中性化してその子に注ぎ続けた。
 これは、天神本来の神力が陽であるのに対し、堕神のジュダスの子は陰だからだ。

 神力の性質は人間でいう血液型のようなもので、異なるものを入れると拒否反応を起こす。
 それで自らの神力を木で濾過して中性にした。
 陽の神力を吸った木は巨大化し、住めるようになったので、やがてそこがセラの棲家となった。

 よちよち歩きをできるようになった頃、セラは付近の山の土地神を養母とし、子を街にやった。
 半分人間である優は、少なくとも人間と一度は暮らしてみるべきだと思ったからだ。
 神の世界でも人間の世界でも生きられるように育てるべきだと判断した。

 そのとき優を世話してくれたのは二つ隣の山を治める蛇の妖、まつりだった。
 豊穣の神として地元の人間たちに信仰されていたまつりは、自らの山をセラが守護することと引き換えにその役を引き受けてくれた。

 そのときなぜセラが優の親として里に下りなかったかといえば、天神としての仕事があったからだ。
 草花も、山も、川も、森も、放っておくと枯れてしまう。それらに命を与え続け、世界の調和を保つのが職務だった。
 これを丸々二百年サボった結果、担当地域が荒れ始めていた。
 それでまつりに頼んだのだ。

 まつりと共に里に下りた優はすくすくと育った。
 セラと共にいた時はちょっとしたことですぐ熱を出す体の弱い子だったのに、人間と暮らし始めた途端にそれがなくなった。
 その時セラは、自分が優を弱らせていた張本人だったことに気づいた。

 堕神と人間の子である優の神性は中性寄りの陰だった。
 神性というのは体質のようなもので、一般にこれが陽に近ければ近いほど光・生命・調和を好み、陰に近いほど闇・死・混沌を好むとされる。
 この世界では天神が最も陽に近く、次いで海神、魔女・人間、堕神、悪魔・悪鬼となる。
 人間は陽でも陰でもない中庸とされる。彼らが善にも悪にも染まるのはそのためだ。
 優はこの人間と堕神である冥王の血を引いている。
 ゆえにセラの神性にあてられていたのだ。

 それでセラは優を人間界で成人させることに決めた。
 通常神は約一万年で成人する。しかし半神が何年で成人するかは知られていなかった。前例がなかったのだ。
 だから単純に半分の五千歳くらいだろうとのんびり構えていたら、優は思いの外早く千年で成人した。
 そしてその時、優の神力が急に増してセラの結界では隠しきれなくなった。
 それでジュダスに見つかったのだ。

 兄は優が自分の子だと確信したのだろう。冥界から使者をよこし、優の力を量ろうとした。
 その出来事でセラは結界が意味をなさなくなったことに気づき、時の狭間に優を逃がすことができた。
 もし天界に感づかれるのが先だったら、優を守り切れたかどうかわからない。家族は問答無用で優を排除しにかかっただろうから。
 だからジュダスは間接的に息子を救ったのだ。

「優……」

 天を仰いで降りしきる雪を眺める。これを見られるのも最後かと思うと名残惜しかった。
 まもなく家族がくる。セラを追放しに。
 いわゆる人間の家族のような情はない家族だった。
 同じ責務を負う者どうしとしてのやり取りの方が多かった。

 だがそれでも、セラは確かにゼノの息子だった。シーラクの弟だった。
 そこから追放されることに、何か変な気持ちになる。
 人間の言う寂しさというやつだろうか。あるいは虚しさか……わからない。しかし何かを感じた。
 胸に手を当てて考えていると、不意に背後に気配を感じた。
 振り返ると、黒装束に身を包んだ男が立っていた。

「こちらの方ですか?」
「………?」

 何を聞かれたのかわからず黙っていると、男が持つ水晶の中から声が聞こえた。
 それは疑いようもなく兄の声だった。

「ああ、そいつに間違いない」
「兄上……」
「ほう、わかるのか」

 近づいてきた男の手にある水晶玉には変わり果てた兄の姿が映っていた。
 かつて空のように青かった目は真っ赤になり、セラと同じ銀髪はくすんで暗い灰色に変化していた。
 そして何より全身の皮膚が黒くなっていた。
 言葉を失ったセラにジュダスは歪んだ笑みを浮かべた。

「恐れているのか?」
「兄上、なぜ……」
「こんな姿になったか? 貴様は馬鹿か。冥界にいれば誰しもこうなる。お前もな」
「しかし、それほどに……」

 セラはショックを受けていた。最後に会ったときから約700年。そのときにはまだ肌は白かったし、これほどまでに禍々しい空気も身に纏っていなかった。
 この700年の間に兄が何をしたのか。考えるだけでも恐ろしかった。

「貴様が堕天したと聞いて迎えに来てやったんだぞ、感謝する素振り位したらどうなんだ。我が息子を逃がしたことに免じて出禁は解除してやる。神力を封じられる前にさっさと来い」
「では、あの子のことは……」
「勘違いするな。許してはいない。貴様は誘拐犯だからな。普通なら絶縁するところだ。だがわしは寛大だから自ら冥界へ迎えてやる。
 本当は力を奪われて悪鬼共に貪り食われる様を見ていてもよいのだがな」
「あのときの事情は何度も申し上げたはず。優は……あの子は、冥界では生きられなかった。神性が中庸寄りだったのだ。それゆえ、冥界では……」
「ごちゃごちゃとうるさい! 来るのか来ないのか。来ないならば縁を切る。言っておくがこちらで神力を失った天神は格好の餌食だからな。永劫化け物共に嬲られるだろうよ」
「………行く」

 否も応もなかった。父ゼノはまもなくセラを裁きにこの場に来る。
 そして神力を封じ、セラを冥界へと堕とすだろう。
 彼は天神の長としての職能・全知の目で地上にいる全ての神の居場所を把握することができる。
 どこにも逃げ場所はないのだ。
 優を隠しおおせたのは彼が神力の弱い、子供の半神だったからに過ぎない。

 だからセラの選択肢は実質二択だった。
 神力を持ったまま冥界へ行くか、失って冥界へ行くか。
 無力になって堕天することがどれだけ恐ろしいことか、何度も冥界を訪れたことがあるセラは知っていた。
 兄の言葉に誇張はない。
 返事を聞いたジュダスは、見つかる前にさっさと来い、と言い捨てて水晶玉から消えた。
 それまで跪いて水晶を掲げ持っていた男は立ち上がり、近づいてきた。

「それではセラ様、お連れ致します」
「ああ、頼む」

 頷くと、男は手に持っていた長い杖で地面をついた。すると、杖の先から闇が広がってゆく。暗闇の中にうすぼんやりと長い階段が浮かび上がっていた。

「おぬしはいったい……」

 目の前の男は禍々しいが確かに人間だ。神力は一切感じられない。
 それなのになぜ冥道を開くことができるのか謎だった。

「陛下からじきじきにこの杖を頂き、お仕えしております」
「杖……兄が造ったのか」
「さようで。陛下のお力が込められておりますゆえ、冥道が開けます。さ、お入りください」

 促され、冥道へと足を踏み入れる。ところどころ松明で照らされた長い階段がはるか下まで続いていた。
 男もセラに続いて道に下り、杖を掲げて入口を塞ぐ。
 外からの明かりが途絶えた道はより暗くなった。
 これを下りていたら永遠に時間がかかりそうだ。そう思い、セラは腕を差し出した。

「つかまるがよい。入り口まではよう行く」
「いえ、自分は……。あなたに触れると火傷してしまいそうだ」

 振り返ると、男は額に汗を浮かべていた。どうやら神力がきついようだ。
 堕した人間には陽の気が強すぎるのだろう。

「そうか。それでは先にゆく」
「はい。お気をつけて」

 セラは頷き、ひとり冥道を降りていった。
 まもなく、一対の巨大な扉が現れる。
 錆びた銅色の観音開きの扉だ。これが冥界の入り口だろう。
 近づき、手を伸ばすと、音もなく扉が開いた。

「久方ぶりだな」

 扉の奥、瘴気渦巻く冥界の入り口に立っていたのは冥王ジュダスだった。