三千年の歴史を刻んできた古都・ローマ。
コロッセオやトレビの泉、スペイン広場が有名なこの街は、ナポリと似ているようで違う。
それは、カトリックの総本山であるサン・ピエトロ大聖堂をその街の中心部に抱えるからだ。
聖職者しか住むことのできないバチカン市内にあるその巨大な教会は、ローマ教皇領として長く統治されてきたローマの象徴だった。
使徒・聖ペテロの墓所を祀る場所として創建されたこの教会は、バロック・ルネサンス様式の荘厳な建物である。
キリスト教の教会として世界最大級の敷地面積を持ち、ミケランジェロが設計したドームを擁する大聖堂。それは信仰の象徴だった。
信がローマに来てまず感動したのは、このサン・ピエトロ大聖堂の神々しさである。
教会建築は好きでそういった写真集をよく見たものだったが、本の中で見たものが今すぐそこにある。観光している場合ではないのはわかっているが、それに感動せずにはいられなかった。
圧倒されながら組織本部へ向かう車の中で街を眺めていると、隣で足を組んで座るマウリが笑う気配がした。
「楽しそうだな」
「え? ああ、うん。ずっと来てみたかったから。でもそんな場合じゃないよね、ごめん」
「だからもう謝るなって」
そう言って後ろから抱きしめられる。不意打ちに振り返ると、マウリは今度は真剣な顔をした。
「間違いだったと思ってる……あの時信と別れたこと。手放すべきじゃなかった」
「……」
「まだやり直せる?」
「それは……」
ここで信は考えた。今自分はラザロと付き合っている。そしてマウリからはラザロと別れろと言われ、告白されている。これはいったいどういう状況なのだろうか?
マウリと付き合ったらそれはラザロへの背信に当たるのだろうか? その逆は?
「ラザロなんてやめとけよ。アイツなんかに付き合ってたら命がいくつあっても足りない」
「うん……。でもラザロのこと好きなんだ」
「どこがいい?」
「一生懸命生きてるところ。何か炎みたいな。それで、マウリのこともなんていうか……好き。両方好きなんだ。これって二股かな?」
それは、以前から信が悩んできた問題だった。
二人は全く別の人格として扱われることを望んでいる。そしてマウリの方はラザロの記憶を持たず、性格も、趣味趣向も全く違う。普通に見れば別人である。
だが、ラザロが「生まれた」経緯を考えると、とても別人とは思えなかった。
ラザロは、マウリが対処しきれない苦痛を処理するためにマウリが生み出した人格である。
マウリの方ではまったく無意識のようだが、それは事実だとラザロは言っていた。
だとすれば、ラザロはマウリの脳の防衛機構であり、マウリの一部である。
だから二人は根本的には同一人物なのではないか、と信は考えていた。
それで、二人と付き合うことは浮気には当たらないと判断し、マウリとラザロと同時に付き合った。
だがそれは、間違っていたのだろうか?
二人の気分を害するものだっただろうか?
そうだとすれば、どちらとも付き合わない方が結局はいい気がしてくる。
信がそんなことをぐるぐると考えていると、マウリがため息をついた。
「まあ……嬉しくはないな。どっちか選んでほしいってのが本音だ」
「そっか……そうだよな」
「俺を選んでくれる?」
マウリが信の肩に顎を載せて囁く。
「えーと、それは……」
「ラザロなんかより俺の方がいい」
答えあぐねていると、バックミラー越しに運転手の男と目が合う。
二人を空港まで迎えに来たアルの部下は、好奇心を隠そうともせずにこちらを見ていた。
マウリの解離性同一性障害がどの程度知れ渡っているかはわからないが、ここで話すべきではないだろう。
信は微笑んで、やんわりとマウリの体を押し戻した。
「それは後でね」
するとマウリは不満げに身を引いてまた足を組んだ。
「結局ラザロを選ぶんだろ? 古今東西、悪い男の方がモテるって相場が決まってるもんな。地味な善人より派手な悪人なんて不公平だよ」
「……」
ラザロは悪人ではない、と言いたかったが言い争いたくないので黙っていた。
マウリはラザロの背負っているものを知らない。だからあそこまで敵視するのだろう。
二人との関係について考えながら外の景色を眺めていると、車はアパートメントが並ぶ通りで停まった。
五〜六階建てのクリーム色やレンガ色の建物が繋がって建っている。
車から降りた案内人のダニエーレとジャコモが先導し、その中の黄色っぽい建物に入ってゆく。
外観はごく普通のアパートだが、入った途端に物々しい雰囲気になる。
エントランスでは、明らかにヤクザ者の男達が数人、銃片手に見張りをしていた。
派手なシャツの前を大きく開け、ジャケットを羽織っている。
その男達は明らかに余所者の信とマウリに胡乱な目を向けた。
その圧に恐怖を感じたが、マウリは涼しい顔をしている。
「お客人だ。お前ら道を開けろ」
小太りのジャコモに言われ、見張りは渋々といった感じで引き下がる。
だが軽口を叩き始めた。どうやらまだマウリの正体に気付いていないようだ。
「お客人〜? お嬢ちゃん達がウチに何の用だ?」
「ここはあんたらの来るところじゃない、帰った方がいい」
「ボスのコレか? 上玉だな」
小指を立ててみせた男に別の男が言う。
「いやどう見ても男だろ」
「じゃあボスは趣旨替えでもしたのか? まあそんだけ綺麗なツラなら男でもーー」
だがその男は最後まで言えなかった。
マウリが目にも留まらぬ速さで投げたナイフが頬をかすって背後の壁に突き刺さったからだ。
マウリは低い声で言った。
「男でも何だって?」
「っ……」
「次にふざけたこと言ったらその腐った目ん玉抉り出すぞ」
マウリはそう凄んで男に近づき、壁に刺さったナイフを抜くと、その刃で頬を撫でた。
「もう黙ってろよ、『お嬢ちゃん』?」
「……」
そして口をパクパクさせている男に背を向け、何事もなかったかのように歩き出した。
見張りの男はそこで我に返って、覚えてろよっ、とか悪態をついていたが、その声は小さかった。
マウリは銃だけでなく、ナイフの扱いにも長けているらしい。
はじめて実際に間近で見て、改めてプロの殺し屋をしていたのだと実感する。
ナイフがあと一センチずれていたら目に突き刺さっていた。マウリはナイフを完全にコントロールして投げたのだ。
こんなことができる人なんてフィクションの中にしかいないと思っていた。
だから実際目の当たりにすると、正直少し怖い。
自ら望んでマウリとラザロの世界に来たが、ついていけるか不安だった。
その不安が顔に出ていたのか、マウリが見当違いのフォローをしてくれる。
「大丈夫、ここの連中には信に指一本触れさせない。絶対に守るから、俺のそばを離れるなよ」
「うん……」
どちらかというと君が怖い、とは言えずに曖昧に頷き、奥に向かって歩を進める。
やがてジャコモ達は突き当たりの両開き扉の部屋の前で立ち止まった。
「顧問(コンシリエーレ)がお待ちです」
そうして扉を開ける。部屋の中の円卓には、五人の男と一人の女が座っていた。