冥道の出口はジュダスの居城である冥城のエントランスに繋がっていた。
がらんとした吹き抜けのホールにはステンドグラスが嵌め込まれているが、日の光の差さない冥界では用をなさない。
そこで待っていた兄、ジュダスは口を開いた。
「早速だが、お前に仕事がある」
再会早々に、ジュダスはそう言った。
「仕事、とは……?」
「タダ飯食らいを城に置く気はない。それとも、城下町にでも住むか? わしが言うのも何だが、酷いところだぞ」
「そうですね……」
ジュダスの居城、冥城の城下には一応町らしきものがあった。
だが、暴力・略奪が横行しており、始終どこかしらで火の手が上がっているような場所だ。
とても住めるような場所ではなかった。
「では、こちらへ来い」
冥城は天界の神殿に匹敵する広さで地上5階、地下4階建てで、地界の欧州の古城をモデルに造られている。
尖塔がいくつもあり、吹き抜けのエントランスホールに大きく美しいステンドグラスが嵌め込まれたこの城は、ジュダスが愛する人のために造ったものだった。
神力を失ったジュダスがどのようにしてこの城を造ったのかはわからない。
だが、本来の主を失った城は冷え冷えとして暗かった。
剥げた絵画がいくつもかかった廊下を抜けた先は、中庭に続いていた。
庭といっても草木一本ない荒地に、かつて庭を造ろうとした残骸があるだけだ。
地界でよく目にした花壇や生垣が朽ちて放置されていた。
そこを通り抜けると、小さな丸太小屋があった。
かつては庭師の小屋だったのだろうか、と思いながら中に入る。
その瞬間目にした光景に、セラは絶句した。
「これは……」
そこには、折り重なるようにして人間の女が何人も倒れていた。
ボロボロの服を身にまとい、瀕死で横たわる彼女達の腹は一様に膨れていた。
ジュダスは、冷え冷えした目で彼女らを見下ろしながら言った。
「こいつらの子供を育てろ。お前ならできるはずだ」
「兄上、まさか……」
「ああ、そうだ、わしの子だ。だが、なかなかうまくいかなくてな。人間共は弱すぎて孕むとすぐ死ぬ。運良く無事生まれても、長くは保たん。
お前が言った通り、ここでは育たぬようだ。
だがお前なら守護の結界を張れる。そうであろう?」
「ですが、このようなことは……」
「口答えをするな! やるのか、やらないのか」
「……やります」
すると、ジュダスが顔を歪めて笑った。
「であろうな、人間びいきのお前なら。では頼んだ。女の方は助けなくていい。後で適当に処分させる。おい、フォンドール」
そう呼ぶと、小柄な悪魔がへこへこしながら城から走ってきた。
真っ黒な顔にぎょろりと大きい目をして、チョッキを着ている。
フォンドールは息を切らしながらジュダスを見上げた。
「はあ、はあ、はあ……ご用でございますか?」
「今日からこいつに人間どもの世話をさせる。子供が産まれたら報告しろ。死んだ人間は今まで通り処分だ。それから、こいつが勝手しないよう見張っておけ。何かあったらお前の責任だからな」
「す、するとこの方が陛下の弟君ですか」
フォンドールは揉み手をしながらまじまじとセラを見た。
「ほう、これは、昔の陛下に瓜二つでございますな。あ、と、失礼を致しました。わたくし、フォンドールと申します。四大魔族のフォンドール侯爵家の三男で、下の名はですね、アルフィオン・スクラル・ドイフェバッハ……」
「もういい」
「し、失礼致しました〜〜!」
フォンドールの長々した自己紹介を遮ったジュダスに、彼は地面に頭をこすりつけんばかりに土下座をした。
「セラだ。よろしく」
「はっ、ははーっ!」
「小屋から出ることは禁止する。それから、これは餞別代わりだ」
ジュダスはそう言い、不意に手を振りかざして銀色に光るかけらを飛ばし、セラの額に埋め込んだ。
「っ……! 何をっ」
かけらが入ってきた途端に全身がカッと熱くなり、体に違和感を感じた。
ジュダスはセラを見ながら嗤った。
「お前に生殖器を付けてやった。これで小屋の中でも退屈せずに済むだろう。せいぜい楽しめ。ただし、子供は殺すなよ」
「まさか……なぜ、そのようなことが」
天神に生殖器を付ける術など、見たことも聞いたこともない。
それを今、ジュダスはしたというのか?
信じられない。だが、確かに体の中心に「何か」があった。
思わず触ると、得体の知れない感覚が湧き上がってくる。
セラは恐怖して叫んだ。
「嫌だ、戻してください」
「何だ、女の方がよかったか? だがお前に身篭られても困るんでな。それで我慢しろ」
「兄上、いったいなぜ、どうやって……」
すると、ジュダスは赤い瞳を細めてまた笑った。
「魔女に教わったんだよ。暇を持て余して開発したんだそうだ。とんだ才能だよなあ」
「魔女に? それで、優子と子を……?」
「そうだ。そうしたら抱いてやると言ってな。あれは身の程知らずにもわしに邪な気持ちを抱いておった。だから利用したのだ。もちろん、約束は果たしていないが。あんな出がらし、抱く気にもならん」
「そのようなことを口になされるな。品性を問われますぞ」
「何を今さら。それに、一度『それ』をつけたらもう戻れぬ。お前もすぐにわしと同類になるさ。女さえいればよくなる」
ジュダスの口から出る言葉が、信じられない。仮にも天神だったジュダスがここまで堕ちると、誰が予想できようか。
「……子供を育てる目的は?」
「何となくだ。子種を無駄にするのも勿体なくてな」
「では、体を戻して下さい。そうしたら育てます」
「育てたら、戻す。話は終わりだ。さっさと取りかかれ」
「兄上、お待ちを!」
「それから、その呼び方はやめろ。吐き気がする。わしのことは陛下と呼べ」
「あに、……陛下、お待ちを! まだ話は済んでおりませぬ!」
しかし、制止の声も虚しく、ジュダスはその場から消え去った。
セラは小屋を出て後を追いかけたが、振り返れば苦しげに息をする人間達がいる。
彼は仕方なく小屋に入り、守護の結界を張り始めた。
◇
優が入った時空の狭間は、拍子抜けするほど普通の世界だった。
今まで住んでいた世界と何ら変わらず、曙町も、山も、実家も、都心の大学もそのままだった。
唯一の違いといえばセラがいないこと位で、優は日常生活の続きをそこで始めることになった。
大学はちょうど夏休みに入ったところだったが、山籠りで一学期の単位をほぼ落としたため、一応履修登録だけして行く気のなかった夏休みに開かれる講義に行くハメになった。
ここが普通の世界でないと気づいている人は優と藍那以外におらず、また、履修する意味があるのかもわからなかったが、一応単位は取っておくことにした。
そうして、夏が過ぎ、秋が来た。
まだ、セラは迎えに来ない。セラと神使の契約を結ぶ藍那に聞いても、何が起こっているのかわからない。
ただ、冥界に行ったのではないか、と自信なさげに言うばかりで本当に知らないようだった。
やがて冬が来て、春になり、夏になった。
それでもまだセラは来ない。
この頃になると、何かあったと思わない方が無理だった。
セラが半年以上優を待たせたことはない。
つまり、来ないのではなく、来られないのだ。
そもそも、この時空の狭間をセラがもう一度開けられるかも謎だった。
セラが来られないのなら、こちらから行くしかない。
そう思った優は、それから元の世界に戻る方法を探し始めた。
藍那には止められたが、もうこれ以上待っていられない。
粘って藍那を説得し、資金を出させて世界各地を回る旅を始めた。
大陸を渡り、インドを通り、紛争地帯を抜けてウズベキスタンに入る。
各地で時空の裂け目を探し、また、時守の花の類がないかを探したが、それまでこれといった成果はなかった。
旅を続けるうちにやがて世界を巻き込む大戦争が始まり、移動も容易ではなくなった。
こちらの世界に来て二百年ほどが経った頃のことだった。
この二百年の間、優は老いず、病もなかった。
そして、長い間、たとえば一年近く飲み食いをしなくても問題がないことが判明した。
腹が減る気がするから習慣で食べていたのが、ある時深い森で迷子になり、長いこと食べられなかったのだが、飢えなかったのだ。
それで、確かに自分が半神であるのだとわかった。
ならば細々食べる必要もなかろうと、あまり食べなくなった。
睡眠も、毎日寝るのが習慣づいていたが、さほど必要ないことに気づいて月に二、三日休む程度になった。
戦争が始まったのはそれからしばらくしてからだった。
優はその時、藍那と共にウズベキスタンの首都・タシケントに滞在していた。