「ちょっ……こんなとこで……」
窓際のソファでうたた寝をしていた佑磨は、信の声で不意に目を覚ました。そして瞬時に事態を把握した。
「いいじゃん。興奮するだろ? 先生ごっこしようぜ」
「……いいよ」
ここは自室に隣接する部屋――森が信と佑磨の同居の見返りに財を投じて造らせた「図書室」だ。
佑磨の住むマンションの隣の部屋を森が買い、各部屋の壁をぶち抜きひとつの大きな空間にして書棚を並べた場所だった。
もちろん、公共の図書館ほど大きくはないが、信と二人で使うには十分すぎる大きさだった。
その図書室の中、一番奥の読書スペースが佑磨のお気に入りだった。
読書をするときはもちろんだが、考えごとをするときや、仮眠をとるときもよく訪れる。
佑磨は不眠気味だが、ここに来るとなぜかよく眠れた。
信と森のいかがわしいやりとりが聞こえてきたのも、そんなふうに仮眠をとりに来てうつらうつらしているときだった。
瞬時に意識が覚醒し、全身が硬直する。
たとえそれが気心の知れた相手でも、性を匂わすような言動は苦手だった。
だから咳払いでもして存在をアピールしたいのだが、体が動かない。
そうして固まっている間に二人は書架の向こう、おそらくは五、六列向こうで行為を始めてしまった。
佑磨は内心ため息を吐いてわずかに身じろいだ。そして、もうこれは寝たフリを通すしかないな、と思う。
存在をアピールするには遅すぎる。
たぶん、信は佑磨がよくここで仮眠をとっていることを知らないのだ。
入り口付近の読書スペースと中央のテーブル席、そしてそのちょっと先にある読書椅子を確認し、いないと判断したのだろう。
でなければ森にどんなに請われようとここで始めるはずがない。たぶん、佑磨は自室にいると思っているのだろう。
佑磨は胃の底が冷えるような感覚を味わいながら、ソファで丸くなった。
卑猥な音の合間、会話が途切れ途切れに聞こえてくる。
「授業中ずっとおれ見てただろ。気づかないと思った?」
森が興奮したように言う。
「そんなこと……」
「してないって? 嘘はダメだよ。いけない子にはお仕置きしないとなあ」
「お仕置き」――その言葉だけで喉が詰まったように苦しくなる。かつて佑磨の尊厳を踏みにじった男もそんなことを言っていた。
「あっ、やめて……そんなとこ……」
「聞こえるか? イヤらしいなあ。いけない子だ……こんなにして」
「ん……先生、ダメだって……。誰か来たら……」
「ずっとこうされたかったんだろ?」
『敏感だな』『お前、ノンケじゃないよ』『誘ってた』『こうされたかったんだろ?』
佑磨を傷つけた言葉の刃が再び息を吹き返し、また心臓を突き刺し始める。
佑磨は耐えきれずに両手で耳を覆ってソファにつっぷした。そして目をギュッとつぶり、フラッシュバックに耐えた。
屈辱的な言葉の数々が鮮やかに蘇って佑磨を苦しめる。
このときほど自分の記憶力の良さを呪ったことはなかった。
同性に、それも尊敬していた上司にそんな対象として見られたことへのショック。女のように扱われる情けなさ。
同性に触られて反応してしまったことに対する戸惑いと混乱。
好きでもない相手に無理強いされているのに身体が心を裏切るという事態になった自分への不信感――。
男の上司からのセクハラで佑磨の魂は粉々に砕けた。
いまだにあの頃を思い出すと吐きそうになる。
自分を信じられなくなった日々。
それまで築き上げてきたものが一気に崩れ、奈落の底へと突き落とされた、暗黒の日々。
思い出すだに吐きそうになるほど辛い。人間は一切信用できなくなり、男は皆加害者に見えた。
暴力で無理強いされたわけではない。あの男は一度も手を上げなかった。
だが、出世を盾に取ってそれと同様のことをした。
人生を懸けていた仕事の人事権を握られて、どれほどの人間が拒否できるだろうか。
拒否した先には永遠に昇進できないという未来が待っているとき、どれだけの人が拒否できるだろうか。
相手は合意だったと言った。共に酒を飲み、ホテルについてきた。だから合意だと。一度も抵抗しなかったのだから合意だと。
しかし彼は物事の本質を全く理解していない。
上司が部下を誘うということ自体が暴力なのだ。
被害を受けてから色々勉強してそれを知ったとき、どれほど救われたか。
だが、当時は知らなかった。
だからどんなに嫌でも、被害を受けているなんて被害妄想なのではないか、十分に見返りをもらっているのだからそんな関係にはないのではないか、自分は本当は望んでいたのではないか、とすら思っていた。
性暴力により自尊心は打ち砕かれて、相手の異常な行為にも、自分がどれだけ追い詰められているかにも気付けなくなっていたのだ。
やっと目が覚めたのは、仕事がままならなくなったからだ。
全く集中できなくなったのをごまかしごまかし勤務していたのが、ある日以前の自分だったら考えられないようなケアレスミスで大失敗をした。
それで佑磨の中で何かが切れた。
もう限界なのだ、自分はもうダメなのだ、と自覚した瞬間、それまで何とか保っていた均衡が崩れた。
そして発作的に自殺を試みたのである。
最後の一歩を踏み出さなかったのは、いや踏み出せなかったのは、身投げしようとしていた渓谷で、由良を伴ってドライブに来ていた森と出会ったからだ。
今しも飛び降りそうだった佑磨を、森が此岸に引き戻した。
その命、捨てるくらいならおれにくれ、と言って、ヤケ気味にすべてをぶちまけた――佑磨はこのときまで誰にもそのことを打ち明けていなかった――佑磨に、「ゲーム」にピッタリの人材を見つけた、とか言って。
彼の言う「ゲーム」は、政治家や官僚の弱みを山ほど握っている元高級男娼の天野信を日本の政財界で成り上がらせる、というゲームだった。
それに参加しないかと誘われたのである。
当時森はまだ信を落籍していなかったが、その見込みがあるようだった。
やけっぱちになっていた佑磨はそれを承諾し、森の車に乗った。
それが出会いだった。
だから佑磨は、信や由良とは違って厳密には森の愛人ではない。ゲームの駒である。
だがそれでも、森が佑磨の命を救ってくれた事に変わりはない。
あの時森が声をかけてくれなかったら間違いなく死んでいただろう。
だから恩返しのつもりでそのゲームに参加していた。
それに、官僚として成し遂げたかったことを成し遂げるというチャンスでもある。
国民に、そして良き為政者に仕えこの国をよくしたい、という長年の願い、祖父のような官僚になりたい、という願いを叶えたい。
かつて出来なかったことを今度こそやりたい。
佑磨はそんなことを思いながら、やがて深い眠りに落ちていったのだった。