9

 

 翌朝、淳哉は大きな窓から柔らかな朝日が差し込む部屋で目覚めた。

 体を信じられないほど優しく包み込むマットレスの感触で、家でも実家でもないとわかる。

 そのどちらにも、高級マットレスはないからだ。

 目を開けると、白い天井が目に入る。

 そこは彰のマンションだった。

 キングサイズのベッドから起き上がると、隣で寝ていた男が目を覚ます。

 彰は、白いプリントシャツに、銀のネックレスをしていた。

 つまり昨日の服のままだ。

 彼は、起き上がるなり額を押さえて呻いた。

 

「ってえ……! 飲みすぎた……。あれ、淳哉?」

「潰れてたから送ってきた」

「ああ、そっか、俺……。あれ? 俺何かした?」

 

 その問いに、少しドキドキしながら答える。

 

「何かって何だよ」

「いや……何もなかったならいいけど」

「いつも通りダル絡みはされたけどな。あれ、他のメンバーにはやるなよ?」

「わかってるよ。あっくんだけ……」

 

 淳哉はベッドから降り、酔い醒ましのスープでも作ってやろうと歩き出しかけた。

 その瞬間、風船のようなものを踏みつける。

 かがんでそのゴミを捨てようとした瞬間、淳哉は凍りついた。

 それは、使用済みのコンドームだった。

 それと同時に裸の下半身が目に入り、昨晩の妙にリアルな淫夢を思い出す。

 

「いや、まさかな……」

 

 違う。絶対に違う。

 そんなことをするはずがない。

 これは、別の人との時に使ったものだろう。

 だって、どんなに酔っていたとしても、自分が彰に手を出すはずがないのだ。

 

「ゔゔ……あだまいだい……」

「待ってろ。今スープ作ってくるから。服は……」

 

 再び布団に突っ伏して呻く彰のところに行き、毛布をはがしてズボンを探す。

 うつ伏せになった彰は、下半身裸だった。

 その上、何か白いものが太腿に……。

 

「うわっ!」

「どうした?」

 

 思わず毛布を戻してベッドから飛びずさると、彰が胡乱げに振り向いた。

 淳哉は、前を手で隠しながら聞いた。

 

「お、お前、覚えてる?」

「覚えてるわけねーだろ、あんなベロベロで。……やっぱ何かあった?」

「いや、あの……俺、一旦帰るわ」

「えー、スープは?」

「ごめん。帰らないと」

「あ、ちょっと待てよ」

 

 淳哉はどうにか布団の中から下着とズボンを探し出し、急いで身につけると、彰の家から出た。

 そして足早に廊下を通ってエレベーターに乗り、エントランスまで移動する。

 昨晩とは違うコンシェルジュと、違うエレベーターで降りてきた男がいたので、顔を見られないように俯いてマンションを出た。

 

 既に昼近く、太陽は天高く上っていた。

 だが、まだ風は冷たい。

 淳哉は上着を掻き合わせ、マンションの前の道を歩き出した。

 タクシーを呼ぶべきだが、パニックでそこまで思い至らない。

 淳哉は、混乱していた。

 昨晩のことは思いのほか覚えている。

 だが、夢だと思っていた。

 自分がまさかあんなことをするとは思わなかったのだ。

 しかし、夢ではなかった。

 淳哉は、彰を抱いたのだ。

 それも、酔い潰れているところを。

 

 表通りへと続く歩道を早足で歩きながら、昨晩の記憶を呼び起こす。

 部屋に連れていったとき、彰は完全に潰れていた。

 だが、夜中に目覚めて襲ってきたのだ。そして流れで自分も応じて……。

 

「何てことを……」

 

 その時、スマホが鳴る。

 淳哉は飛び上がってポケットから取り出した。

 慌てていたからか、勢い余って地面に落ちてしまう。

 それを拾い上げ、相手を確認すると、彰だった。

 淳哉は逡巡したのち、通話ボタンを押した。

 本当は死ぬほど話したくないが、無視するわけにもいかない。

 

「はい……」

「今どこ?」

「何で」

「謝りたくて。俺、やらかしただろ? てかまだタクシー乗ってねえよな? 音するし。頼む、説明させて」

「……」

「俺……あ、いた! 淳哉!」

 

 その時、声が二重になって聞こえてくる。

 振り返ると、彰が手を挙げて足早に近づいてきた。

 淳哉はスマホを耳から離し、やってくる彰を見た。

 淳哉と同じく昨日の服を着たままで、青白い顔をしている。

 それでも、日に晒された顔は、驚くほど綺麗だった。

 通行人がすぐに気付いて足を止める。

 早めに移動しなければ騒ぎになりそうだった。

 彰は近くまでやってくると、家の塀に左手をつき、息をついた。

 相当具合が悪そうだ。二日酔いだろう。

 

「っ淳哉、一回、うち戻って……っ。説明、するっ……うぅ……」

「おい、大丈夫か」

 

 今にも崩れ落ちそうな彰を、思わず支える。

 腕を取ると、昨晩嗅いだ柔軟剤のいい匂いがした。

 

「俺、多分勘違い、しててっ。本当に、ごめん……!」

「勘違い……?」

「ああ。別の相手と……」

「別の相手って……男だよな? だって……」

 

 彰は自ら淳哉を受け入れたのだ。女性相手であれはあり得ない。

 

「……うん」

「お前、男が好きなのか?」

「……」

 

 辛そうに俯いていた彰はそこで顔を上げ、淳哉を見た。

 小さい頃によくしていた泣きそうな表情。

 眉は下がり、目が潤み、唇がわずかに震えている。

 この顔をされると逆らえないのは、昔からだった。

 淳哉は掴んでいた腕を肩に回し、体重を支えた。

 

「まあ詳しくは後で聞くから。とりあえずタクシー拾うぞ。人集まっちゃってるから。手遅れかもだけど、家バレはヤバいだろ」

「っ……悪い」

 

 淳哉が大通りに向かって歩き出すと、彰は、はあはあいいながら必死についてきた。

 二人の様子を遠巻きに見ていた女性達のうち何人かがついてくるのがわかる。

 淳哉は表通りに出ると、一番最初に来たタクシーを拾って彰を乗せ、自分も乗り込んだ。

 運転手に自宅の住所を告げると、扉が閉まって車が走り出す。

 淳哉はホッと息をついて、隣でぐったりしている彰を見た。

 シートに体を預けて胸を上下させている男は、誘うような色気があった。

 昨晩感じた劣情は本物だったのだ。

 なぜ、今まで気づかなかったのか疑問だった。

 

 タクシーの運転手は特に二人に気付いた様子もなく車を十五分ほど走らせ、淳哉の住むマンションにつけた。

 代金を支払い、まだよろよろしている彰に肩を貸して玄関ホールに入った。

 そしてオートロックを解除し、エントランスに入る。

 彰のマンションとは比べものにならないくらい狭い、ごく一般的なマンションのエントランスだ。

 床は輝いていないし、ホテルみたいな照明もない。

 コンシェルジュではなく、人の良い高齢の管理人がいるだけだ。

 こういう差を見るにつけ、自分がなぜ彰と友達なぞやっているのか、わからなくなる。

 住む世界が違い過ぎるのだ。

 住む部屋も、付き合う人間も、仕事量も、全く違う。

 こういう関係はたいてい長続きしないが、しているのは、彰が本質的には変わらないからだろう。

 

 彰が売れ出したとき、今後距離は開いていく一方だろう、と予測した。

 だが、その予測は外れた。

 彰は売れても、定期的に食事に誘ってきたのだ。

 その頃、まだ完全には和解していなかったので、そこまで頻繁ではなかったが、ひと月かふた月にいっぺんは、必ず連絡をくれた。

 そして、ただの友達として、以前とほとんど変わらずに接したのである。

 彰は、仕事の話はせず、共通の友人の話や、趣味の話をした。

 そして、芸能界の底辺にいる淳哉を、完全に対等に扱った。

 だから今まで続いてきたのだ。

 もし、彰が変わっていたら、もっと疎遠になっていただろう。

 だが、まさかこんな事態になろうとは。

 関係は破綻してしまった。いったいこの先どうすればいいのかわからない。

 淳哉は途方に暮れながら、彰を連れてエレベーターに乗った。