その一か月後、珠生は菊野の居室を訪れていた。大事なことを伝えるためだ。
しかし、行った先には先客がいた。
「よぉ、珠生だけど、ちょっと時間あるか?」
「どうぞ~」
「環さん?」
中にいたのは、最近入ってきたばかりの菊野の部屋付き禿、立花だった。
菊野が気に入っている子だ。十七とかいっているがせいぜい中学生だろう。
目元がはっきりして可愛らしく、性格も明るい。
菊野が何かと構っているのを正直少し妬ましく思っていた。
「悪ィ、邪魔したかな。続けて続けて」
二人は将棋をしていたようだった。
「終わるまで待ってるよ。あとこれ差し入れ」
そう言って貰いもののりんごを袋から取り出して掲げてみせると、菊野がいつもすみません、と言った。
「いつも……? 環さん、よく信さんの部屋来るの?」
もっと喜ぶかと思っていたのに意外にも微妙な表情の立花に、珠生は違和感を覚えた。
「まー、元部屋付きだからな。今はもー偉そうなこと言えないけど、やっぱかわいい禿だったことに変わりはないし」
すると、信が楽しげに言う。
「秋二、飛車下げないと次王手だよ」
「ぐぅ~~~。……こう?」
「そこだと金が取られる」
「ぐわぁぁ~~~、わっかんねぇっ! 将棋って何でこーまどろっこしーんだよ!?」
頭を抱える立花に、菊野が唇の端を引き上げた。
「降参する?」
「む~~~! 待って!」
立花はそう言うが、どう見てもあと最大四手で負ける盤面だった。
飛車角の二枚落ちで対戦してやっているらしい菊野もそのことは承知のはずなのに、それを言わずにじっと待っている。
立花を見守っているその目は、この上なく愛しいものを見るような優しい目だった。
まるで宝物を見るような、勘の良い者が見ればその想いに一発で気づく表情である。
「っ……」
珠生はその目を見たとき、立花への想いを確信した。
薄々感づいてはいたが、見ないふりをしてきた真実。
菊野は立花に目をかけている。
何度脱走騒ぎを起こそうとも庇い続けてきたのがその証拠だ。
それは、ただの親切心ではなかったのだ。
そのことに、ずきりと胸が痛む。
どんなに近くで触れ合っても、こんな眼差しで見られたことは一度もなかった。
珠生はうんうん唸る秋二をほおづえをついて楽しそうに眺める菊野に言った。
「お前も良くこの問題児をあの短期間で更生させたよな。どんな手使ったんだ」
「秋二は問題児じゃないですよ。普通です。他の子の行儀が良すぎるんです」
「言うねえ。皆お前のこと獣使いみたいだって褒めてたぜ。もうサーカス扱いされてんな、お前ら」
菊野はクスリと笑ったが、立花は憤慨したように珠生を睨んだ。
「おれはトラじゃねえ」
「じゃあライオンか?」
「違うっ!!」
「火の輪くぐり、見せてくれないのか? ほら、跳んでみろ」
「ッ……!」
珠生が空中を指差して茶化すと、立花は顔を真っ赤にして黙り込んだ。
握りしめた拳がプルプル震えているが、手は出してこない。
なぜ秋二なのだ、と思いながら続ける。
「さすが。調教師がいいんだな。大人しいモンだ」
「何だよっ、いじわるっ」
なぜ自分ではなくこの子なのか。
秋二の何がそれほど良いのか。
「冗談だって。からかっただけだよ」
珠生が言うと、立花は一瞬ホッとした顔をしたあとにプイと横を向いた。
菊野はそんな後輩と珠生を交互に見て、困ったような顔をした。
「環さん、あまりいじめないでやってくださいよ」
「ごめんごめん。でも反応良いからつい……何かからかっちゃいたくなるタイプなんだよなー、立花って。そう思わない?」
「まあ……思わないこともないですけど……」
歯切れ悪く、それでも肯定した相手に、更に畳みかけるように言った。
「だよな。からかいたくなるってゆーか……可愛い顔してるし」
そのことばに察しのよい菊野が固まった。
「なあ、そう思わない?」
「そうですかね…?」
「あ、タイプじゃないんだ。じゃあ、いい?」
「…それは私が決めることではないと思いますが」
このやり取りを見る限り、二人が付き合っているかどうかは微妙だった。どちらとも取れる反応だ。
「まあまあ、一応調教師の許可はとっとかないとな」
自分をまっすぐ見つめてくる菊野に、薄く笑って珠生は続けた。
「なあ立花、今度笠原の座敷におれも呼んでくれよ。絶対盛り上がるからさ」
そして菊野の反応を見る。
こんなことをしている自分の性格の悪さがつくづく嫌になる。
しかし長い間腹の底で燻っていた想いが完全に否定されてどうしようもなく苛立っていた。
菊野は一瞬動きを止めたが、あまり表情を変えることなく静かに言った。
「先輩だからといって気兼ねすることはない。自分で決めていいんだよ」
「………いーよ。まぁおっちゃんに聞いてみないとだけど」
「いいのか?」
「別に……ひとり増えようとふたり増えようとたいした違いはないだろ」
「ああそっか、お前ら一緒に座敷に上がってんだっけ?」
「たまにね」
「ふうん。さ、りんご食うか。ナイフと皿貸して。あと、剥いた皮入れる器も」
菊野は量るように珠生のことを見つめていたが、やがて戸棚から言われたものを取り出して手渡してきた。
珠生は、珍しく読めない笑み以外の表情を見ることができたことにかなり満足しながら、珠生の手にさえ余りそうな大ぶりのりんごを剥いた。
水分が多いタイプだったらしく、剥いていくそばから果汁が手指を伝ってゆく。
そして切り分けたりんごのひとつに楊枝を挿して、立花の口元に持っていった。
「はい、あーん」
「………」
「嫌なら拒めよ。できんだろ? 気ぃ強いって評判だもんなあ? 大して世話にもなってない先輩の言うこと拒否れないほどチキンじゃないよなあ?」
「環さん、いったいどうしたんですか?」
困惑気味に菊野が珠生を見る。
「お前もさー」
珠生は意識して冷たい目で菊野を見た。
「いーかげん騎士(ナイト)気取りやめたら? いつまでもついててやれるわけじゃないってことくらいわかってんだろーが。立花はこの先、おれの比じゃない相手と渡り合ってかなきゃないんだぞ? いつもランプに入って待機してられるわけじゃねーんだ。いーかげんわかれよ、ここでは自分で這い上がれるヤツ以外、生き残れないって。その機会を、自分が潰してるって」
我ながら嫌になるほど意地の悪い言い方だった。それでも、言わずにはいられなかった。
六年に渡って想っていた相手が、運命の相手を見つけたさまを見せつけられては。
あんな、蕩けるような目で他の男を見やがって。
もてあました想いが相手への渇望と憎悪を増幅させていた。
「ほら立花、口開けて」
「……立花じゃなくて、秋二」
立花はそう訂正してから差し出されたりんごをほおばった。
その姿に、菊野が一瞬嫉妬の表情を見せた。
その表情に嗜虐心を刺激され、珠生は立ち上がって立花の隣まで歩いていった。そして腰を下ろし、二つ目を食べさせた。
立花はブスッとした顔で珠生と菊野を交互にねめつけながらもぐもぐ口を動かしていた。
「さっきだって、本当は嫌じゃなかったから拒否らないんだろ?」
立花の耳元に口を近付けてそう囁くと、その肩をゆっくりとなぞった。
「……もういい加減にしろよ。気持ちわりぃ」
秋二がそう言って珠生の手を払う。この二人が付き合っているのかは定かではないが、そうだとしたら、これほど羨ましいこともなかった。
珠生は手を引っ込め、改めて言う。
「立花、悪いんだけどちょっと外してくれないか? ふたりで話したいことがある」
そのことばに先に反応したのは菊野だった。
人払いなどまずしたことのない珠生が立花を下がらせようとしていることに何かを察したらしい。
菊野は真顔に戻って立花に出てゆくよう促した。
秋二は微妙な表情をしながらも、話が終わったら遊びに来てね、と言い残して部屋から出て行った。
「お茶淹れますね」
菊野は立花が出ていくのを見届けると、そう言って珠生の前を通り過ぎ、彼に背を向けて急須に茶葉を入れ始めた。
絹のように手触りの良い長髪を後ろで括って暖かそうな紺の長着を身に纏った愛する男の背中の部分に皺が寄る。
珠生はたまらず立ち上がって、相手が振り向く間も与えずその身体を後ろから抱きしめた。
「急に動かないでくださいね」
菊野ははじめ、大して驚いたようすを見せなかった。
しかし珠生がそのうなじに唇を這わせ始めると、異変を察知して振り向いた。
「……環さん?」
その戸惑ったような瞳を見ながら、珠生は呟くように言った。
「好きだ。ずっと、好きだった」
驚愕に目を見開いて絶句している菊野に苦笑しつつ、続けて言う。
「気付いてなかったみたいだな、その感じだと。そんなんでよくも毎月毎月お職獲れるな。どうなってんの?」
尚もことばを発せずにいる菊野の首筋を指で慰撫するように撫でてから、珠生は覚悟を決めて相手と視線を合わせた。
「ここ、出てくことになったんだ。親父が迎えに来てな。来週発つ。だから最後に一回だけ……頼む」
情けない……我ながらあまりにも情けないお願いだと思った。
菊野とは共揚げされてたまに寝る。それだけの関係だ。
まだ菊野が仕事に慣れていない頃はよく話をきいてやったものだが、売れっ子になり、珠生同様禿を多く抱えるようになってからはそういうこともなくなった。
だから、二人の関係はただの同僚に近い。
菊野はゲイだが、珠生のことは何とも思っていないだろう。
だからこんなお願いは拒否されて当然だ。
仕事でもないのに好きでもない相手とそういうことをしたいわけがない。
だが言わずにはいられなかった。
普段客を嘲笑っている自分がこのざまだ。結局自分なんてその程度なんだな、と若干失望しながらも、珠生は前言撤回しなかった。
どうしても腕の中の男と最も深いところで繋がりたい、抱かれたい、という欲望に勝てなかったのである。
菊野の心が自分に無いのは知っている。
薄々気づいていたし、さっきのやりとりでそれは決定的になった。
それならば身体だけでも欲しい。
思い出に、最後に一回だけ。
しばし硬直し、酸欠の金魚みたいに口をパクパク開閉させていた菊野はそこでやっと自分を取り戻したらしかった。
菊野はわずかに身じろぎをすると、絞り出すような声で問うてきた。
「冗談、じゃないですよね……?」
「ンなタチの悪いドッキリするわけねえだろ。まあー、人生で一番長い片想いだったよ」
「差し支えなければ、いつごろからか聞いても……?」
「最初っから」
そう言って笑ってみせると、相手は再度石化した。
「お前は、おれの世界に色をもたらしてくれた唯一の人間だった。灰色のおれの世界を色づけてくれたのは、真っ暗なおれの世界を照らしてくれたのは、お前だ。おれここに来たときさ、全部どうでもよくて、自棄になってたんだ。親も学校もクソだったから。だけどお前と出会って、生きるのがスゲー楽しくなった。毎朝起きるのが楽しみになって……。で、贔屓しまくってたらお前がイビられるようになっちゃったんだけどな、その節はごめんな」
「いえそんな……」
珠生は気後れしたように呟く相手の身体を自分の方に向けて、今や自分より高い位置にあるその頬をそっと撫でた。
「本当に可愛くて……でも手ぇ出したら可哀想だと思って様子見してるうち手遅れになっちまった。ダサいよな。お仲間だってわかってたのに」
「私も…わかってました」
「…立花だろ?」
菊野は沈黙ののちに頷いた。
珠生は唾を飲み込み、ずっと聞きたかったことを口にした。
「聞いときたいんだけど、おれにも可能性はあった? 正直に」
すると菊野は少し間を置いてから言った。
「正直に言うと、秋二が来る前ならイエスです」
「あー、そうなんだ…。いやー、もうちょっと早めにアタックしてりゃあよかったかなあ。おれとしたことが初動をミスったぜ」
「環さん……お迎えというのは……?」
「ああ、父親がどっかの筋からおれのこと聞いたらしくてね。まぁそもそもここに入るきっかけを作ってくれたご本人ではあるんだけどさ」
そこで珠生は口を噤み、相手の様子を窺った。
玉東に落ちたほとんどの者には親に救われるなんて僥倖は訪れない。
契約終了前に落籍以外の手段で自由の身になれるなんて幸運も巡ってはこない。
だから建前上客に落籍されるという形で出ていくことに決めていた。
菊野はしかし嫉妬も見せずに顔を輝かせて珠生を祝福し、身体を抱きしめ返してきた。
「よかったっ……! 本当に、よかったっ」
「菊野……ごめん、ごめんな、先に抜けて……。ずっとそばにいてやれたらよかったけど、でも親父との交換条件で」
珠生は敷いたレールの上を歩かせようとする父親への反抗心でここへ来た。菊野とは違い、自らの意志で来たのだ。
珠生の意思も、セクシュアリティも無視してエリート街道を歩ませようとする親への復讐のために、彼らが最も軽蔑している生き方をしようと思ったのだ。
だが、親は珠生を見捨てなかった。
家出から一年ほど経った頃居場所を見つけ出し、帰るよう説得に来たのだ。
イチからやり直させてやるから戻れと言ってきた。
しかし珠生は戻らなかった。彼らが肝心なことを何一つわかっていなかったからだ。
結局は自分たちの思い通りにしたいだけなのかと幻滅し、もう二度と来るなと言ってやった。
それでも親は何度も来、使いをよこし、珠生の説得を試みた。
それを最近までずっと突っぱね続けていたのだが、椿の足抜けを手引きしたペナルティの件を聞いて四の五の言ってられなくなった。
それで菊野が引き継いだ一樹の残り契約年数をチャラにさせる条件で帰宅に同意したのである。
どんな手を使ったのかはわからないが、さほど金があるわけでもないのでお得意の脅迫でもしたのだろう。
霞ヶ関にいる父親は昔からそういうことが得意で、同僚を蹴落として出世街道をひた走っていた。
「交換条件、というのは?」
「戻ってこいって言われてな。まあ結構前に親には居場所バレてて帰るよう言われてたんだけどシカトしててさ。けどまあ、そうも言ってられなくなったっつーか……お前の話聞いて、そう思ったから。うちの親、役人なんだよ。だからさ、遣り手とも色々交渉できるっていうか。金はねーけど。だから帰る代わりにお前が引き継いだ椿の契約分はなしにしてもらったから。落籍(ひい)てやれれば一番よかっただろうけど……」
我ながら恩着せがましい言い方だと思った。卑怯な手を使っていることはわかっている。
こんなことを言われては菊野は珠生の要求を断れない。
しかし汚い手を使ってでも菊野が欲しかった。
「どうして、そんなことを……?」
「わかってるだろ? 言わすなよ」
目を見開いて固まっている菊野に近づき、キスをする。相手は拒まなかった。
唇を合わせながら背中に手を回すと、ゆっくり座布団の上に押し倒された。
菊野は一旦顔を離して優しい瞳でこちらを見下ろし、珠生の着物を脱がせた。
そして自分も脱いで再びキスをする。差し入れられた舌を夢中で貪った。
「んっ」
昔を思い出しながら肌を合わせる。
べそをかいて夜中に珠生の布団に潜り込んできた少年は今や店の看板を背負う立場になっていた。
無理矢理連れてこられ、見るたび泣いていた弱い少年はもういない。
友のために全てを受け入れ、身を削って生き続ける強い男が、今ここにいた。
「はぁ、あ……信……生きて出てこい」
信は初めて自分の本名を口にした環を驚いたように見て、それからその体をぎゅっと抱きしめた。
環が菊野を本名で呼んだのはこれが初めてだった。
「環さん……」
そうしてふたりは交わった。
同情で抱かれていることがわかっているから胸が張り裂けるほど痛い。
そして自分の卑怯なやり口への自己嫌悪も酷い。
しかしそれでも求めずにはいられなかった。好きだったから。
この底なしのお人好しが死ぬほど好きだった。
「遣り手が約束を反故にしたらすぐ知らせろ。留学させられておれはいないと思うけど、親父の秘書が定期的に様子見にくるから」
セックスを終え、服を着ながらそう告げる。そばで環の動向を見守っていた信は頷いた。
「ありがとう、ございます。本当に…」
「こんな卑怯なことしてごめん。どうしても好きで……。だけどもうこれで完全に吹っ切れたから」
「……すみません」
「何でお前が謝るんだよ。そんなんだからナメられんだって……柚月とかには隙見せんなよ」
信を敵視している傾城の名前を出してやると、相手は笑った。
「わかりました。留学ってどこ行くんですか?」
「ロンドン」
「へえ、いいなあ」
「ディキンスンとかバイロンとか好きだもんな。何かゲットしたら送るよ、初版本とかさ」
「ええ、いいですよ高いのは。でもポストカードとか、各地のを集めるの好きなんで、そういうの送ってもらえたら嬉しいかな」
そう言って控えめに笑う信に、たまらなくなって言った。
「……ごめんな」
「何でそんなに謝るんですか。……でも、寂しくなっちゃうなあ」
その言葉を口にして感情が込み上げたのか、信は笑ったまま目を潤ませた。
「環さん、いなくなっちゃうのかあ…」
「お前は、もうおれがいなくても大丈夫だろ」
「………っ、すみません、おめでたいことなのに」
ハンカチで目元を拭った信に、言葉が勝手に滑り出す。
「一緒に逃げるか?」
「え?」
「どこか、遠くに……親父のツテで何とかなるかもしれない」
すると、信は真顔になって思いの外強い口調で断った。
「いえ、私はここに残ります。皆連れていけるんだったら考えるかもしれないですけど」
「…だよな。お前ならそう言うだろうと思った」
もう会うことはないだろうと何となくわかった。
世の掃き溜めのような場所で、眩しいばかりに輝くこの男に、心底惚れていた。
内面も外見も綺麗で、どうしようもないお人好しのこの男を。
手に入れることはできなかった。しかし、信は永劫環を忘れないだろう。
余分に背負わされた契約を清算してくれた男として。それで十分だと思うしかなかった。
「じゃあ元気でな。明日は多分顔見れずに行くから今言っとく。秋二にも謝っとくよ」
「はい。身体にだけは気をつけて行ってきてください」
「食いもんまずそうだよなあ。天気も悪いし」
「住めば都ですよ」
「かもな。じゃあ行くよ」
戸口まで見送りに来た信は首を振って、環を抱きしめた。
ひと回り大きな体に包まれて息が止まる。
一瞬、告白の言葉を期待したが、それはなかった。
「ありがとうございました。お元気で」
「お前もな」
色々言いたいことはあるはずなのに、言葉にならなかった。
チャンスは何度もあった。しかし環は一歩を踏み出すことができなかった。
拒絶が怖くて、想いを伝えることができなかった。
とんだ意気地なしだな、と胸中で自嘲し、環は信から体を離した。
「この抱きつき癖を直さないといつか刺されるかんな」
「あ、すみません」
「まあ一生直らなそうだけど」
環はそれだけ言って信に背を向け、その場から立ち去った。
自室まで辿り着くと、こらえていた涙が溢れ出す。
もっと自分に勇気があれば、こんなことにはならなかったかもしれない。こんな無様な最後には。
胸が張り裂けるように痛くて、悔しくて、やるせなかった。
出会った頃に戻りたい。
今、時間を巻き戻せると言われたら、悪魔とでも契約するだろう。
環はその夜、後悔と怒りの涙で枕を濡らしたのだった。
◇
「いいか、この学校は非常に伝統ある名門校だ。世界トップレベルの教育が受けられる。歴代英国首相、王侯貴族、ノーベル賞やフィールズ賞を受賞した名だたる学者もここの卒業生だ。英国上流階級の子息が集まる場所とでもいったところだろう。よって、ここで人脈を築くことが将来に繋がる。くれぐれも謹みを持って学生生活を送るように」
空港まで来てもう何十回も言ったことを繰り返す父親にイライラし、環は言い返した。
「なに、生徒たちとヤりまくる心配とかしてんの?」
すると父は大げさに咳払いをした。
「口を慎みなさい。とにかくトラブルを起こすなと言っているんだ。波風立てずに寮生活をしなさい。それから、Aレベルでトップの成績を取り、オックスフォード、またはケンブリッジ。そこでも人脈を築いて法廷弁護士になり、ゆくゆくは……」
「あなた、もうそれ位で。前と同じことになりますよ」
父親の長々した話を遮ったのは母親だった。
ショールを羽織った彼女は、少し寂しげに環を見ていた。
「まあ、そうだな……。とにかく体には気をつけるように。何かあったら大使館の佐久間さんを頼りなさい。話は通してあるから」
「わかったよ」
「やればできるんだから、しっかりやるんだ」
またも的外れの励ましをしてくる父親にため息をつきたくなるのをこらえ、環は言った。
「じゃあ行ってくるよ」
「電話ちょうだいねえ」
そう言って手を振る母親に頷き、その横で腕組みをしている父親を見て、環は搭乗口に向かった。
そしてゲートを通過し、もう一度振り返って手を振る母親に曖昧に手を振り返す。
それから通路を通って飛行機に乗り込んだ。
手荷物を棚の上に上げ、通路側の席に座る。
しばらく滑走路に向かって徐行していく飛行機の列を眺めていると、近くに誰かが立つ気配がした。
明るい茶の髪にダークブラウンの目の、同い年位の白人だった。
どうやら隣の席の男のようだ。彼は荷物を棚の上に上げ、席に座ろうとしたが、その時に環の足にぶつかった。
『すみません』
『いえ』
英語で答えると目が合う。すると、相手はハッとしたような顔でまじまじと環を見たのち、人のよさそうな笑みを浮かべて手を差し出してきた。
『はじめまして。おれ、アーサー。学校の休暇が終わってイギリスに帰るところなんだ。君は?』