西暦二〇三十年。
約半世紀前に東京郊外に造られた歓楽街は隆盛を極めていた。
その街は、都心から電車で二時間弱の山間部を切り開いた、元は村があった場所にある。
そこは、吉原を彷彿とさせるような障子窓の部屋が並ぶ楼閣(ろうかく)が林立し、花魁衣装の美しい女たちが闊歩する花街だった。
春には桜並木が満開となって遊客を歓迎するここは、東京玉東。吉原をモチーフに造られた観光名所である。
出入り口が深紅の大門一箇所で、従業員が和装で、各店舗吉原に倣った階級付けがされている点、花魁道中をはじめとしてさまざまなイベントが常時開催されている点など、隆盛を極めた江戸文化を体験できる場所として周知されている。
そのため、京都の祇園のように国内外からの観光客も多く、大半の店は彼らに対応できるよう単なる飲食店としても機能するよう造られている。
しかし何度か通って馴染みとなれば、希望に応じて違法な買春ができる仕組みだった。
玉東の実態は単なる観光名所ではなかったのである。
三つ揃いのスーツに身を包んだ白人に見える若い男が、その大門を今しがたくぐる。
オリーブ色の目と、すらりと長い四肢が人目を惹く美男子だ。
彼は、秋二・アンダーソン。
白人にしか見えないが、実は日本人の父と米国人の母を持つ混血である。
彼もまた、玉東の裏の顔を知っていた。
しかも外側からではなく、内側からである。
彼は昔、騙されて玉東のとある店で働かされていたのだった。
そこで秋二は人間の醜さと美しさを同時に知った。
そして、運命の人との出会いを果たした。
母に疎まれ、父に捨てられ、人種差別を受けて育ってきた秋二がはじめて居場所を見つけたのが皮肉にもここだった。
「変わらねえな」
傾城(けいせい)と呼ばれるキャストたちを斡旋する引手茶屋(ひきてぢゃや)や土産物屋が並ぶ通りは人々で賑わっていた。
ここは秋二が何百回も行き来した道だった。
ぶらぶら歩いていると、通りの店の軒先に立っていた呼び込みの若衆(わかしゅ)が声をかける。
秋二は寄ってきた男を軽くあしらって街の奥へと歩を進めた。
碁盤の目状に、見世と呼ばれる風俗店やクラブが並ぶ玉東では、南側の大門側が上手、北側が下手と決まっている。
それぞれの見世はこれに従って格式順に並んでいた。
中でも高級クラブに相当する大見世と呼ばれる店は大門すぐの場所に固まっている。玉東ができた当初からある紅霞(こうか)楼から名前を取った紅霞通りがその名前だ。
この通りに、唯一の女人禁制のハイクラブ、白銀楼(はくぎんろう)もある。
時に、紅霞楼と双璧と称されるこの店には男の花魁しかおらず、男が男に体を売っていた。
そこに、かつて秋二もいた。
「お、もう始まってる」
通りを見渡すと、紅霞楼の花魁が既に道中を開始していた。
道中というのは秋二がいた頃からあったイベントごとで、見世のキャスト……花魁が禿(かむろ)や新造(しんぞう)と呼ばれる見習いを引き連れて、引手茶屋にいる客を迎えにゆくことだ。
江戸吉原の伝統に倣ったイベントであり、これを目当てに来る観光客も多い。
高下駄を履いて外八文字、あるいは内八文字を 描くようにしてゆっくり通りを練り歩く花魁の姿は華やかだった。
そして、かつて恋した美しい人も、こうして道ゆく人を魅了していたものだった。
「確かにあんなんだったな……」
花魁が出てきた建物の斜向かいにそびえる楼閣に目を移し、秋二は吐息をつく。まだ開 店前のその建物は、他の大見世と同じく大正ロマン風の木造五階建てだった。
通りに面した障子窓はどれも閉まっており、黒光りする木造りのベランダのランプも、軒先の提灯もまだ点いていない。
そして、二階部分に『白銀楼』と書かれた看板がある。
ここが、かつて彼がいた場所だった。
秋二は、しばしの間その光景を眺めてから建物に背を向け、通りを北に向かって歩き出した。
目にするものすべてが当時の記憶を呼び起こし、胸が締め付けられる。
かつて、初めて本気で恋をした人と入った小物屋や蕎麦屋、呉服屋が何より鮮明にその人の穏やかな笑顔を呼び起こす。
もう一生来るまいと思っていた。
地獄のようなこの場所に、人格の全てを踏み躙られたこの場所に、決して来るまいと。
だが、愛した人のために来た。
「信さん……今、行くからね」
秋二はぎゅっと拳を握りしめて、目的の場所に向かった。
◇
玉東には、足を踏み入れてはならない通りがある。それが、最下層に位置づけられる店 が立ち並ぶ長屋通りである。
北に浄念河岸(じょうねんかし)、南に羅生門河岸(らしょうもんかし)のあるこの場所は、借金を負って玉東に来た者が最後に流れ着く場所で、特に闇の部分といわれる。
ここには、河岸見世と呼ばれる店が並ぶが、その中に、更に『地下』と呼ばれる店が混在する。
この店は、表向きクラブとして営業しているものの、実態はSMやそれ以上のマニアックなプレイを提供する完全会員制の店で、一般の客は奥に立ち入ることができなかった。
ここに入ると五体満足では出てこられないと噂で、実際秋二も河岸、特に『地下』から出てきた者を見たことがない。
そこに、好きだった人がいるかもしれない、という噂を聞いたのは偶然だった。
ここ数年、米国で暮らしていた彼が昨年末の里帰りで帰国した際、知人と訪れた立食パーティーの参加者のひとりが玉東の話題を出した。
政財界の人間や富豪がその話題を出すのは珍しいことではなかったのではじめ聞き流していたのだが、そのうちひとりが、ある大富豪の名を出し、その人物の愛人が玉東の、それも河岸にいるらしいと言った。
俄然興味を引かれた秋二はその人物から詳細を聞き出そうとしたが彼が知っていたのはそこまでだった。
そこで、知人の伝手を辿って玉東のいくつかの大見世に潜りこみ、聞き込みをしてその大富豪が利用している店を突き止めた。
それから、その店の「奥」に案内してくれる人を、数ヶ月かかってやっと探し出した。
そして今日が件の店『鶯庵(うぐいすあん)』に紹介してもらう日なのだ。
秋二は見たところなんの変哲もない二階建ての店の前で立ち止まり、深々と息を吐き出 して腕時計を見た。
十五時五十分。約束の時間まであと十分ある。
信は本当にここにいるのだろうか、いるとしたら無事なのだろうか、と思いながら相手を待つ。
するとしばらくして、コート姿の男が姿を現した。
これといった特徴のない平凡な顔の四十絡みの男だ。
虫一匹殺さなさそうな顔をしているが、ここの常連なのだからそんなわけがなかった。
偽名だろうが、峯岸と名乗った男は気持ち足早に秋二のもとにやってきて英語で話しかけた。
『お待たせして申し訳ない』
『いえ、まだ時間前ですから』
日本で長く暮らし、日本語ネイティブだが外見が白人に近い秋二は、素性を隠すために日本語ができない外国人のフリをしていた。
『では行きますか』
『ええ』
時計を見るとまもなく四時だった。
秋二は峯岸に続いて藍色の暖簾をくぐり、店に足を踏み入れた。
中はなんの変哲もない普通の店だった。ボックス席がいくつかあり、奥にはバーカウンターがある。
ソファの色が少々悪趣味なことを除けば、ごく普通のクラブに見えた。
まだ開店前らしく、店内はしんと静まり返っている。誰もいないのかとあたりを見回したとき、不意に奥で動く影が目に入った。
バーカウンターのすみの暗がりに、誰かいるようだった。
グラスを磨いていたらしいバーテン姿の男は、まだ準備中ですが、と無機質な声で言った。
すると、峯岸がカウンターのところまで行って口を開いた。
「『なくや うぐいす どこでなく 白い 鳥籠の中で』。こちらは僕の友人のアイルズくんです」
すると、従業員らしき男はグラスを拭く手をとめ、目を上げてこちらを見た。
感情の欠落した目に、なぜか背筋がゾッとする。関わってはならぬ類の人間だと、本能が言っていた。
男はその恐ろしい目で秋二を検分するように見たあと、台帳を取り出して英語で言った。
『記帳して頂けますか。個人情報は厳重に管理され、漏れることはありませんのでご安心ください。住所は、こちらに滞在中の場合ホテルのもので構いません』
『わかりました』
秋二は英語で答え、適当な住所を書いた。男はそれを認め、再び口を開いた。
『失礼ですが、日本にお住みの方ですか?』
『はい。五年ほど前からこちらに』
『そうですか、わかりました。ではこちらへどうぞ』
聞くだけ聞いて気が済んだらしい男は二人をカウンターの中に招き入れ、先に立って奥に続く廊下を進み始めた。
うすぼんやりした間接照明しかない長い廊下の突き当たりにある黒い金属扉を開けると、その先には地下への階段が続いていた。
そこを一階分降りたところにやはり黒の扉があって、それを開くと段ボールやキャスター椅子などが並ぶ倉庫のような場所に出た。
そこを更に進むと書類が積まれた金属製の本棚が壁沿いにずらっと並ぶ空間が姿を現す。
特に扉らしきものも通路もない行き止まりだ。
しかし、店の男が本棚のうちのひとつのファイルを動かすと、低い音と共にその本棚が動いて隠れていた扉が姿を現した。
男はそこで振り向いて秋二に言った。
『ご存知かとは思いますが、ここは完全会員制のクラブです。同じ趣味趣向をもつお客様同士の交流の場であり、気兼ねなく楽しんで頂くことを目的としています。よって、こちらでのことは一切他言無用でお願いします。他のお客様についても同様です。交流はこの場のみにとどめ、外で接触なされませんよう』
『わかりました』
秋二が頷くと、男はポケットから銀色のカードを取り出した。
『会員証をお渡しいたします。こちらを店内の端末にかざすことでさまざまなサービスをご利用頂けます。登録にはこちらのパスワードをお使いください』
そう言って受付の男はカードと一緒に紙切れを手渡してきた
『本日は現金でお支払いいただきますが、登録後はカード決済が可能です。翼をもがれた小鳥の楽園、鶯庵へようこそ。ごゆっくりお楽しみくださいませ』
その言葉と共に開かれた扉の向こうには、想像を絶する世界が広がっていた。