3-2

 その日、章介はイライラしながら部屋で客の話を聞いていた。
 せっかく楽しみにしていた休みにその日の朝、仕事を無理やり入れられたからだ。
 客が多く、イベントも多くて、やむを得ない、ということはわかるが、個人的には休みを勝手に、それも急に変更するのは許せなかった。
 久しぶりに仕事が心底嫌になりながら、一向にやむ気配のない相手のマシンガントークに相槌を打っていると、突然大きな物音がして、遠くの方で悲鳴が上がった。
 章介は客に断りを入れてさっと立ち上がり、部屋を出た。音と声は店の上階から聞こえてきたようだった。
 章介は胸騒ぎを感じながら、階段を駆け上がった。
 するとすでに廊下の先で人だかりができているのが見えた。
 野次馬が集まっているのは、信の本部屋の前だった。

 背筋に戦慄が走る。
 走って駆けつけると、人垣の向こうに、扉の開かれた部屋の奥の方で若衆に取り押さえられている客と、そのそばで血を流して横たわっている信の姿とが見えた。
 襦袢の信が手で押さえている腹のあたりから赤い染みがじわじわ広がってゆく。
 腹を刺されたのだとわかった。
 近くに凶器が落ちているのを見て、ザッと全身の血の気が引く音が聞こえた。

「何で抜いたっ!?」

 章介は傾城たちを押しのけ、相手に駆け寄ると、相手の名を叫んだ。
 すると信は目を開けて、こちらを見た。
 意識があることにホッとしながら、血の色と臭いに気が遠くなりそうになる自分を叱咤し、ゆっくり相手を仰向けにした。
 そして相手が気絶しないよう声をかけ続ける。

「信、踏ん張れ。目ェ閉じちゃダメだ」

 信を見ると、顔が白く、息は浅く、身体が小刻みに震えている。
 脈を測ると百二十以上――ショック状態だった。
 章介は、病院に連絡入れろっ、と怒鳴ってから、必死に昔部活で習ったことを思い出しながら処置を始めた。
 まず手近にあった座布団を重ねて信の両足の下に入れ、次いで相手の襦袢の帯を緩めた。そして出血部位を手で押さえながらその身体に近くの人間に持ってこさせた毛布をかけた。
 目に見える出血量はさほどでもなかったが、腹に外傷を負った場合、内部で大量に出血しうることを章介は知っていた。現に信は失血性ショック状態に陥っている……早急に病院に搬送する必要があった。
 章介は間もなくやってきた医師の柿崎と電話の先の医師とに脈拍、呼吸数、意識の有無など信の状態を説明しながら、助けが来るまで瀕死の友人に声をかけ続けた。反応が薄く、今にも目を閉じそうな相手に声をかけ続け、意識を保たせた。

 永遠にも思われる時間が過ぎた後、やっと玉東医院の医師と看護師数人が到着し、信を担架に乗せて運び出した。医師たちに何か礼のようなものを言われた気もするが、定かではなかった。
 全身がどうしようもなく震えていた。
 信を失ってしまうのでは、という恐怖でほとんど何も考えられない。
 紙のように白かった顔ばかりが脳裏に浮かんだ。
 章介は同じように取りみだした一樹とふたり、病院に付き添おうとしたが、遣り手に接客に戻るよう命じられ、従わざるを得なかった。

「着替えてきなさい」

 そう遣り手に言われて、初めて着物に処置の際の血が付いていることに気付く始末だった。
 章介は頷いて怯えている禿たちを呼び寄せ、手と顔を洗ってから支度部屋に戻ると、別な着物を着付け、ほとんど頭が真っ白なまま本部屋に戻った。

「……菊野さん、多いよねえこういうの」

 信の源氏名を客が言ったとき、章介は現実に意識を引き戻された。

「前もあったんでしょ、未遂だったけど。間夫にするのを拒否されてってやつ。何か、彼のお客さんは本気っぽいひとが多いよね? 野暮ったら」

 そう言ってしなだれかかってくる小動物みたいな顔の相手に、違う、と章介は心の中で否定した。
 本気なのではない。本気にさせてしまうのだ。
 信には天性の、何か人を惹きつけて離さないものがあった。

「僕は、違うよ? ちゃんと廓遊びの原則をわかってるからね。いい客でしょ?」
「ああ」
「フフッ、ねー、来週の金曜、うちでパーティやるんだ。おいでよ。ちゃんといつもより弾むからさ」
「…………」

 章介は正直、信の容体が気になってそれどころではなかった。黙って、もう処置は終わっただろうか、主要な臓器まで刃は達していなかっただろうか、適合する血液型はあっただろうか、と考えていると、相手が不満げな声を出した。

「僕の他に一緒に過ごしたい相手がいるの? 予定でも?」
「いや、そういうわけでは……」
「ならいいじゃん! 絶対楽しーから。ねっ? 約束?」

 小指を差し出されて、章介はためらった。信が回復していなかったら、とても行ける気がしなかったからだ。

「………悪い。約束は、できない。菊野がどうなるか、それ次第だ」
「あーそっか。章介くん菊野さんと幼馴染み、みたいな? アレだっけ? うん、わかった。じゃー来れそーだったらメールして。菊野さん、無事だといいね」
「かなり深かった。助かるかどうか……」
「マジ? お腹?」

 章介は空いた相手のグラスに果実酒を注ぎ足しながら頷いた。

「脇腹のあたりだ。右の」
「わー………肝臓までいってなきゃいいけど………」

 思ったより事態が深刻だったことを悟ったらしい相手の顔から笑みが消える。
 相手は少しすると、腰を上げた。章介は、今日は床入りを勘弁してもらおうと思って口を開きかけた。そのとき、相手が言った。

「ちょっと用事思い出したから今日は帰るね。見送りもいーよ」
「………悪いな」

 ほっとして謝ると、相手は入り口の方を向いて、じゃ、急いでるからこれで、と言い置いて部屋をさっさと出て行った。
 章介は廊下の禿を呼び止め、部屋のあと片付けを頼むと、番台へと直行した。
 そして信が区内の玉東病院に運ばれたこと、一樹が客を全員帰して病院へ行ったことを受付から聞いた。
 章介はそこで予約客のキャンセルを頼み、病院に向かった。
 遣り手に後から何を言われようとされようと、知ったことではなかった。
 章介はそのまま正面玄関から店を飛び出すと、見世の前を通る紅霞通りを北へと走り、十字路を左折してまっすぐ進んだ。
 そして中央通りを渡ると、左手にある四階建ての白い建物に入った。
 周囲の建物とは対照的に飾りっ気のないビルで、目立たない箇所に小さく『玉東病院』の看板がある。
 受付の若い男に白銀楼の名と信の源氏名を伝え、容体を聞くと、まだ処置中とのことだった。

 夜中だからか、病院内は閑散としていてひとけがない。
 診療時間は午後七時までだから、今いるのは急患センターの医師と、急患と、入院患者だけだ。
 蛍光灯が煌々と照らす白い床を進んで階段を上がり、案内表示に従って処置室に向かう。
 手術室への最後の角を曲がると、部屋の向かいに置かれた黒い長椅子に、花魁が座っていた。
 髪を結い上げて花簪で飾り、真っ赤な友禅を着た美しい少女……に傍目には見える。
 だが、それは一樹だった。
 彼は章介に気づくと立ち上がった。

「章! お前も抜けてきたのか?」
「ああ。折檻されようが知ったことじゃない。まだ終わらないのか?」

 一樹は首を振った。

「まだだ。もう一時間近くになるんだけど………」

 それからふたりは黙り込んで待った。
 どちらも何も喋らない。何かを言えるような精神状態ではなかった。
 重い空気の中で息をつめて待っていると、不意に足音が聞こえた。
 カツカツいう革靴の音だ。
 振り返ると、廊下の向こうからスーツ姿の遣り手が近づいてくるところだった。

「遣り手……」
「二人とも、何を勝手なことをしている」

 冷たい目でこちらを見て言った遣り手を、一樹が挑戦的に見返した。

「おれ、絶対戻りませんから」
「そんなことが許されると思っているのか」
「もとはといえばアンタのせいじゃないかっ! 信に無理やり客取らせるからっ……」
「無理やり? 何を勘違いをしている。お職をとりたくてお前から客をとったんじゃないか。忘れたのか? その末路がこれだ。同情できんな」
「アンタはどこまでもっ……!」

 まだ何か言いたそうな一樹を、章介は制した。

「その辺にしとけ。後で面倒なことになるぞ」
「けどっ……!」
「その通りだ。やはり紅妃は賢いな。椿も、能天気に菊野の嘘を信じるのをもういい加減やめるんだな。お前から客を盗って清々していたぞ。内心ずっと狙ってたんだろう」
「一樹、聞かなくていい」

 遣り手は嘘を並べたてていた。
 また信と一樹を対立させて稼ぎたいのだ。
 どこまでもクズだな、と思いながら言う。
 せっかく和解したのにまた争いの種を蒔かれては面倒だった。
 一樹はまだ何か言いたそうだったが、最後には溜飲を下げた。
 遣り手は、何を言おうとも変わらない。
 それは、傾城の共通認識だった。
 遣り手はその後も色々言っていたが、二人は無視した。

 やがて遣り手も黙り、廊下がまた静かになる。
 信をボロクソ言っていたわりには残るらしい。
 まあおそらく、心配なのは信の身体ではなく、今後の売り上げだと思うが。
 章介は一樹と同じ椅子に座ってひたすら待った。
 祈るような気持ちで待って、待って、待って、絶望的な気持ちになりかけたそのとき、“手術中”の赤いランプが消えた。
 そして中からふたりの医師が出てきた。
 章介と一樹は立ち上がって遣り手の遣り手と共に医師たちに近寄った。
 医師ふたりのうちのひとり、中年女性の方がマスクと帽子を取り、息をついて、ご無事です、と言った。

「よかった……! ほんとによかった!」

 一樹が叫ぶ。章介は安堵のあまり膝から崩れ落ちそうになった。
 遣り手だけが、たいして心を動かされたようすもなく、続きを促した。

「しかしかなり深いところまで刃がいっておりましたので、一週間は入院して頂きます。幸い主要な臓器までは達しておりませんでしたので、心配ありません。バイタルは安定していますが、意識が戻らないので今晩は注意して様子を見ます」

 そこで男性の方の医師は三人に会釈をして立ち去り、残った女性医師は遣り手を促して一樹と章介から少し離れたところに行った。そして声を低めて話を続けた。章介にはふたりの話している内容が聞き取れなかった。
 一樹と顔を見合わせていると、やがてストレッチャーに乗せられた信が看護師たちに伴われて中から出てきた。

「信っ!」

 一樹が叫んで駆け寄る。
 信は目を開けなかった。
 しかし、頬に赤みが差しているのを見て、章介はホッと息をついた。
 たぶん眠っているだけだろう。
 遣り手を振り返ると、先に行くよう示されたので、二人はベッドを押す看護師について、入院病棟に移動した。

 信にあてがわれたのは四階の大部屋だった。
 ベッドは六床あったが、他に患者はいない。
 一樹は一通り部屋や、今後の段取りの説明を終えて立ち去ろうとした看護師に、夜間付き添ってもよいかを尋ねた。
 すると相手は頷き、空いているベッドをお使いください、と答えた。
 一樹が頷くと、何かあったら呼んで下さい、と言い残し、彼女は若い看護師を伴って出ていった。

「まさか、いいって言われるとは思わなかった」
「ここは傾城専用の病院みたいなものだからな。家族じゃなくても付き添えるようにしないと誰も付き添えんだろう」

 遅れて病室に到着した遣り手はそう言って、腕時計を見た。

「ふたりとも付き添うのか?」
「「はい」」
「だからといって明日、休みにはならんぞ? 菊野の分まで働いてもらわんと困る。……今月はたいした利益を見込めんな」

 章介はこんな時まで金勘定しか頭にない遣り手に内心悪態をつきながら、相手が帰るのを見送った。

「サイテー。犬に噛まれろ」

 遣り手が出ていった方に向かってそう吐き捨てた一樹に深く頷き、章介はベッド脇の椅子に一樹と並んで腰かけた。
 何本かのチューブにつながれ、静かに胸を上下させて眠る信の前で一樹がうつむき、嗚咽を漏らした。

「よかったっ……無事でっ………!」
「本当に」
「相手、小岩だったよな? 何か聞いてたか?」

 その問いに、章介は首を振った。
 小岩というのは、信の馴染み客だ。
 熱心に通ってきていたが、その他特に不審な点はなかった。
 だが、とんでもない男だったらしい。

「おれも………でも絶対信は予感してた気ィすんだよな、ヤバそうって」
「ああ。それは確実にそうだな。……そうか………」
「そうかって何が?」
「いや………最近あまり元気がないように見えた理由はこれだったのか、と思ってな」
「え、そうだった? 全然気づかなかった。お前洞察力あんな」
「まあ、何となくだけどな………」

 すると一樹は握り拳を作って上に上げ、言った。

「起きたらまず説教だな。このおれたちに黙ってた罪は重いぞ」
「重罪、だな」
「もうー、今年はこのことずっと言い続けるぞ、おれは。ひとりで抱え込んでさ。おれには散々抱え込むなとか言っといて」
「確かに」

 それから、二人はぽつぽつと会話を交わし、室内のベッドで就寝した。
 心電図モニターの音だけが響く静謐な病室内で、夜がゆっくりと更けていった。

 ◇

 翌朝、章介が目を覚ますと、窓の外では雪がちらついていた。
 章介はガバッと飛び起きて向かいのベッドの周りに引かれたカーテンの隙間を通り、するりと中に入った。

「あ、章介おはよ」
「おはよう」

 信はすでに目を覚ましていた。章介は枕元の椅子に腰を下ろすと、聞いた。

「気分はどうだ?」
「大丈夫。雪、降ったね」
「ああ」
「道理で寒いと思った」
「毛布、もらってこようか?」

 信は笑って首を振った。

「ううん。昨日、付き添ってくれた?」
「ああ。一樹もいる。まだ寝てるけどな」
「ごめんね。昨日、眠れた? 章介、枕変わると寝付けないタイプだったよね」
「いや、眠れた。お前が無事だってわかったら一気に力が抜けて………」

 すると信は天井に目を移し、笑い混じりに言った。

「はあ、これじゃ当分仕事は無理そうだな。遣り手、怒ってなかった?」
「それほどは」
「そう? 絶対に何か言われそう。嫌だなあ」

 章介は相手の顔をじっと見つめた。

「わかってたんじゃないか?」
「何を?」

 視線に気づいた相手が、章介と目を合わせる。

「本気で、惚れられてるって………まずいことになりそうだって、わかってたんじゃないか?」
「んー、薄々は。だけどあんなことするひとだとは思わなかった」
「本当か?」
「うん。相手が何しようとしてるかなんて、所詮わからないね」
「どうして言わなかった?」
「だから、相手を見誤っていたから」

 あくまで相手の本性を見抜けなかったと主張する信に、章介は引いた。
 あとは一樹がやるだろう。

「もしかして、あのときいてくれた? 何か記憶が曖昧なんだけど、そばにいてくれた気がして」
「ああ」
「やっぱそうだったんだ。ありがとう」
「……………」

 そのとき、カーテンが開いて一樹が飛び込んできた。
 章介が立ち上がって場所を空けると、一樹は信に飛びついた。

「信っ!」
「夜、付き添ってくれたんだって? ありがとう」
「うっ……うぅっ………どうなることかとっ……!」

 自分に抱きついたまま嗚咽を漏らし始めた一樹の背をポンポン、と叩き、信は苦笑した。

「大げさだなあ。ちょっと痴情のもつれで刃傷沙汰になっただけだろ」
「わ、笑いごとじゃない! 結構深くまでいってて、手術も時間かかったんだからなっ!」
「そうだ。ショックで一時は危険な状態だった」
「そうだったの? 自分では気付かなかった。痛くもなかったし……寒いって感じだったな」

 章介は改めて心臓がドクリ、と脈打つのを感じた。
 本当に、紙一重のところだったのかもしれなかった。
 一般に、人間は全血液量の約三十パーセントを失血すると命の危険があると言われている。
 体重六十五キロの人間だったら約一・六リットルだ。信はその上限ギリギリまで失血していたような気がした。

「何であんなの放っといたんだよ。さっさと拒否ればよかっただろ? 少なくともおれらに相談するとかさッ………!」
「全然わからなくて」
「そんなわけないだろ、人間観察大好きなお前が。何で言わなかった?」
「ひとの考えなんてわからないだろ? ああいうことをするひとだとは思わなかったんだ。バカだったよ」
「ッ……ウソつくなよ。てめぇ、ケガしてなかったら殴ってるぞ」

 身体を離し、覆いかぶさるようにして相手を覗き込んだ一樹に、章介は同意した。

「そうだ。お前はわかっていたはずだ。なぜ相談しなかった?」
「何だよ、章介まで………」

 信は困ったように二人を交互に見た。
 二人とも引かないのがわかると、観念したように息を吐いて、天井を見上げた。

「敵わないな、ふたりには。ふたりにだけはどうしても通用しない」
「何年付き合ってると思っている?」
「そーだ。信の、名前に反した性格はわかってんだぞ。とっくに」
「酷いな」

 信はそう言って笑った。

「何で黙ってた? マジで」
「………心配かけたくなかった。自分で何とかできるっていう、自負心もあった、と思う」

 真実を言っているな、と思った。

「いつからそんな殊勝な性格になったんだ。水揚げのときはビービー泣いて心配かけまくってたのに」
「大人になったのかもね」

 すると、一樹が即座に言った。

「ならなくていい。そーゆー大人には。少なくともおれたちの前ではな。な、章?」
「そうだ。弱みを見せないというのはおれたちに対する裏切りだぞ」
「裏切り………」

 そこでやっと相手は作り笑いを完全にひっこめた。

「悪かった」
「弱いとこも、格好悪いとこも、曝け出し合ってこそ仲間だろ?」
「そう、だね。忘れてたよ、そんな大事なことを。約束したのにね」
「じゃーこの機会に聞いとこっかな、せっかく正直モードだから。なーんで急にやる気出し始めたわけ? おれには一日三人以上取るなとか言っといて、結構ショックだったんだぞ? おれは約束守ってるのに自分だけさあ」
「……それは謝る。抜け駆けみたいなことしてごめん。実は遣り手に脅されたんだ、ちゃんとやらないと河岸に落とすって。私が一樹のお客を引き受けたときを好機と見たんだろうな。で、流れ流れて結局戻れなくなった、みたいな」

 言いながら、信はちらり、と真実を知っている章介に懇願するような目を向けた。
 信は本当のことを言っていなかった。
 信が働いているのは、一樹を盾に取られているからだ。
 だがそれは言わないだろう。

「あー、あいつかー。やっぱり最悪だなあいつ。何だよ、そんなことならもっと早く言ってくれればよかったのに。ちょっと誤解してた」
「ごめんごめん」

 苦笑する信に、一樹は抱きついた。
 信は笑みを浮かべて相手の背中をポンポン叩きながら、口の形だけで章介に向かって、ありがとう、と言った。
 それに頷き返し、これでよかったのだろう、と思う。
 申し訳ないが、信に背負ってもらうしかない。
 弱そうに見えて芯が強いのだ。
 信は、感情の振れ幅が少なく、自分の世界をしっかり持っている。目立たないが、実は弁も立つし、自己肯定感が高い。
 傍目に見ていかにも強いタイプではないが、柳のような折れない精神を持っていた。
 章介も何度もそれに救われたことがある。
 信は、ここでやっていける器だった。

 だが、一樹は無理だろう。
 一樹は信とは真逆だ。
 一見強そうに見えて実は脆い。
 だから、真実を話すわけにはいかなかった。
 遣り手と信のやり取りを知れば、信を庇ってまた働こうとするだろう。
 そうなったらせっかく良くなっていた病気は悪化し、また元の状態に逆戻りだ。
 あの状態で残りの契約年数、五年もつとは思えなかった。
 章介はそんなことをつらつらと考えながら、抱き合う二人を眺めていた。