映画は、前評判通りなかなか面白かった。現代に生きる主人公が戦時中にタイムスリップし、歴史を変えないよう奮闘する話だ。
過去に戻るとしたら何時代かな、と考えながら映画館を出る。
世羅とはそこで別れて、二人はブラブラとウィンドウショッピングを楽しんでから最上階のイタリアンレストランで夕食を食べることにした。
個室を取って入り、メニューを頼んで窓からの景色を眺める。
そこからは遠く都心部のビル群まで見えた。
暗闇に、幾百もの窓の明かりがちらちら瞬いている。
かつて、あそこで自由に生活していられたことが信じられない。
もう日常の世界は遠く、戻れる気もしなかった。
そんなことをつらつら考えていると、ふと視線を感じ、信は視線を前に向けた。
すると、秋二と目が合った。
「世羅と何かあった?」
「えっ、何で?」
あからさまに動揺して飛び上がった相手に、信は映画館での秋二らしからぬ振る舞いを思い出す。
社交的な秋二にしては珍しく、世羅に対して素っ気なかった。
「いや……ただ何か、さっきはいつもと違ったから」
「何もないよ」
「そっか」
首を振る相手に、何もないわけがないよなあ、と思いつつも、信はそれ以上追及しなかった。
知らない方が良いこともある。
世羅に気があると知ったら、彼女と今まで通り付き合えそうになかった。
本当は、良い友人としては確認して応援してやるべきなのだろう。
しかし、そこまでの度量は信にはなかった。
「信さん、今日はありがと。めちゃくちゃ楽しかった」
「どういたしまして。秋二……絶対に乗り越えられるから、一緒にかんばろう」
「……うん」
改まって礼を言ってきた秋二に、今言っておこうと今日一番言いたかったことを口にする。
すると、秋二は神妙な顔で頷いた。それが痛々しくてとても見ていられなかった。
信は目を逸らし、運ばれて来た前菜に手をつけた。
秋二を何とか逃がしてやれないかと、これまで何度も考えた。
やれないことはない。
しかし、信も一緒に逃げる前提でなければならなかった。
なぜなら、かつて友人の一樹を逃がしたことが店の遣り手にバレている信にもう後はないからだ。
そうなるとまた話は変わってくる。
信には章介という親友がいたが、彼は店から逃げる気はないと明言していた。
なぜかといえば、犯罪組織に売られた信とは違い、章介は親に売られていたからだ。そしてその際、受け取った契約金で彼らは借金を返済していた。
だから、本人ではないとはいえ、身内が金を受け取っている。
そうである以上、契約は全うせねばならない、というのが章介の考えだった。
だから、もし逃げるとしたら章介を置いていくことになる。
その時に、遣り手が章介を共犯と疑った場合、かつて信の身に起こったことが彼にも起こる可能性がある。つまり、信が一樹の残りの契約年数を背負わされたように章介が信の、下手したら一樹の分まで背負わされる可能性がある。
もっと悪かった場合は暴力とドラッグが蔓延している河岸の店に移籍となる。
そんなリスクはおかせなかった。
だから秋二には乗り越えてもらうしかない。
そう思いながら食べていると、不意に秋二が言った。
「おれ、絶対にあっち側に戻る」
「うん、君は戻れるよ」
あっち側、というのは玉東の外のことだろう。
信は秋二の言葉に、素直に思ったことを言った。
彼はまだ感覚が正常だし、この芯の強さならきっと戻れる。
そう思って言うと、秋二はフォークを持っていた信の左手を握った。
「信さんもだよ。一緒にここから出ようぜ」
「そっか……。そうだね」
「絶対に戻れるから」
「うん」
既視感に、出会った日のことを思い出す。
そういえばあの日もこんなことを言っていた。
今までこんなことを言ってくれる人なんていなかったから、白馬の王子でも現れたのかと思ったのを覚えている。
これがきっかけで惚れたのかもしれなかった。
このオリーブ色の目で見つめられると、本当にそんな気がしてくるのだ。
本当に、まともな生活に戻れる気がする。
とうの昔に諦めた未来が、自分にもまだ残されているような気がする。希望を抱かせてくれる強烈な光、オーラのようなものが、秋二にはあった。
自分は無理でも、秋二は必ず人生を取り戻すだろう、と確信するだけの何かが、彼にはあった。
信は美味いを連発しながらコース料理を次々平らげる秋二を見ながら、彼と自分の未来について思いを巡らせていた。
◆
夕食を済ませ、レストランを出た二人はそれからボーリング場で遊び、『パラダイス』を出て帰途についた。
楽しげにスコアについて話す秋二とゆっくり歩いて白銀楼に戻る。
すっかり日は暮れていたが、不夜城・玉東は提灯や店の明かりで煌々と明るかった。
中央の仲ノ町通りから一本外れた通りを歩いているとき、それまで他愛ない話をしていた秋二が不意に言った。
「最近章さんとどう?」
「ん?」
「いや、順調かなって」
「ああ、うん。うまくいってるよ」
信は表向き、章介と交際していることになっている。
それは、店内でファンが多い章介の風よけのためだった。
少し前に取り決めをして以来、そういうことになっていた。
章介は男に興味がない。
「章さんのどういうところが好きなの?」
「全部」
「そう……」
以前ならば、聞き上手なところとか、人を悪く言わないところとか、忍耐強いところとか答えていた。
しかし、この少年と出会って以来、恋とはそういうものではないことを知った。
どこそこが好きとか、そういう理性的なものではないのだ。
ただ好きで、欲しくて、何をもってしても幸せにしたい。そういうものなのだ。
「秋二は、そういうひといるの?」
「うーん、まあいるっちゃいるけど……」
「へえ、そうなんだ」
だから今はわかる、かつての馴染み客、小岩が死のうとしたわけが。
小岩は初期から信についていた客で、本気で好きになられた最初の相手だった。
信が気持ちに気づかず適当な対応をしてしまったため、思い詰めて目の前で命を絶とうとしたのだ。
当時は好きすぎて死のうとするなんてバカじゃないのか、と思っていたが、恋を知った今は違う。相手の魂が欲しい、という感覚がわかる。
小岩は、信の永遠が欲しかったのだ。
その魂に、どんな形であれ、永遠に自分の存在が刻み付けられることを望んだ。
そして今は、信もそういう感覚がわかる。
秋二の目の前で死のうとまでは思わないが、何か秋二が自分を忘れえないような出来事が起こればいいとは思っていた。
「章さん、かっこいいもんな……」
「うん」
「ああいうひとがタイプなんだ」
「そうだね」
「ふうん」
それで会話は立ち消えになった。
信は、秋二がこういう話をするのは珍しいな、と思いながら通りを歩き進めた。
やがて、白銀楼がある紅霞通りまであと少しと迫ったところで、通りのショーウィンドウに飾られた着物がふと目に入った。
シックな紺の、わずかに光沢のあるお召(めし)だった。
長着と羽織は同色で、凛として見える。
普段派手な女物ばかり着ているせいか、こういう渋い着物に目がいった。
「いいな……」
思わず立ち止まって呟くと、秋二が横に並びたった。
「どっち?」
「紺の方」
「格好いいね」
「来年もお職とれたら買うかな……」
買っても男物なんてたいして着る機会もないか、と思いながら、信はショーウィンドウに背を向けた。
そして追いついてきた秋二と共に白銀楼に帰ったのだった。