6-3

「はい、撮りますよー」

 翌々週に延期されたアルバム撮影は順調に進んでいた。
 貴重な休日に撮影日を設定した遣り手を若干恨みつつ、信はまだ撮影の終わっていない他の傾城たちに混じってまず、大掛かりな着付けが必要な花魁姿の方から撮影を始めた。
 もう顔見知りになったカメラマンの指示に従って必要な枚数を撮ったあと、そばで待機していた同僚たちが呼ばれ、複数での撮影が始まる。
 これはウェブ掲載用と一般販売のブロマイド用だった。
 白銀楼の表の部分、遊郭風料亭用の撮影だ。
 信は、アンケートでツーショット写真の要望の多い相手と並ばされ、ポーズをとり始めた。
 相手にできるだけ嫌悪感を与えないようにと腐心しながらカメラと向き合い続け、やがてひと段落した頃だった、明るい声が聞こえてきたのは。

「すいませ~ん、おれも一緒に撮らせてくださいー」

 だれかと思えば、入り口から入ってきたのは秋二だった。
 快活に要求した秋二に、カメラマンの高橋は少し困った顔をした。

「えーと……リストにないんだけど」
「お客に頼まれたんですよぉ~。ねっ、一枚だけ」
「まあ、菊野さんがよければ一枚くらいは……」

 渋々返した高橋に、信は頷いて見せた。

「私は構いませんよ」

 平静を装ってはいたが、信は内心歓喜していた。
 笠原から贈られた朱の友禅姿がとびきり可愛かったからだ。
 しかも、自分も写っていれば堂々とブロマイドを買える。
 信は呼吸も乱さずに正装姿で駆けてきた相手と並んで、いそいそとポーズをとった。
 表情を作る必要などなかった。
 秋二が近くにいると自然に笑みがこぼれるからだ。

「はー、間に合ってよかった。どうしても一緒に撮りたくてさ」

 秋二がそう言った瞬間、フラッシュが焚かれた。
 その瞬間が永遠に記録されることを、信は心から嬉しく思った。

 ◇

 その後、男物の着物姿での撮影もこなした信は、一仕事終えた気分で秋二と写真館を出た。
 秋二は、残りの撮影をしている間、ずっと待っていた。
 こういう無邪気で気まぐれなところが好きだが、同時に罪作りだとも思った。

「待っていてくれなくてもよかったのに」

 信が言うと、秋二は両手を後頭部のところで組んで返した。

「ヒマだったしー」
「手が空いたときは勉強するよう言ってるでしょう」
「気晴らしも必要だろ?」
「君は……気晴らしの合間に勉強してるだろ? 今やっておくのが大事なんだよ。外に出てから苦労する」
「へいへい。お母さん」

 いつものやりとりをしながらのんびり歩いていると、秋二が不意に振り返って、後ろをついてきていた自分と信の部屋付きの禿たちに言った。

「お前ら、先帰ってろ。おれたちはちょっと寄り道してくから」
「はあ……。ではお気をつけて」

 そう言って不思議そうな顔で帰ってゆく禿たちを見送った秋二に、信は首を傾げた。

「寄り道?」
「来てっ!」

 秋二は弾んだ声で言って、信の手を引いて歩き出した。
 こういう無自覚なスキンシップが、少しでも好意を持ったことのある者にとって何を意味するかを考えていないのはいつものことだった。
 二人は写真館のある仲ノ町通りを南の大門に向かって歩き、それと直角に通る通りの二本目で左に曲がった。
 ここを真っ直ぐ行くと、ちょうど紅霞通りと蒼晴通りの境目に突き当たる。
 紅霞通りは、白銀楼がある大きな通りで、その北側に伸びるのが蒼晴通りだった。
 二つの通りの境目に行き当たるその細い通りの一角に門を構える呉服屋の前で、秋二は立ち止まった。
 信の得意先ではないが、利用したことはある店だ。
 建物自体は古くないが、趣のある和風建築の平屋で、さりげない感じで木の看板がかかっていた。
 ショーウィンドウには黄色の友禅と灰色のお召を着たマネキンが対になって飾られている。
 秋二は、普段は信と同じ店を利用していたはずだが、こちらに趣旨替えでもしたのだろうか。
 信は内心首を傾げながら、中に入った秋二のあとに続いた。

「何か買うの?」
「えーっとね……あ、こんにちは~」

 秋二の声に、店の奥で棚の商品をしたためていた年配の男が振り向いた。
 縁なし眼鏡をかけた白髪の小柄な男性で、還暦を回っているように見える。
 彼が店主だった。

「ああ、来たの。今日はずいぶん気合い入った格好してるね」
「まーね。今日アルバム撮影あったからさ。で、このひと、菊野さん。知ってるだろ?」

 すると店主は着物を棚に置き、近づいてきて検分するように信を見た。

「お噂はかねがね伺っているよ。前に、うちに来たことがあったかな」
「ええ、五年か、六年ほど前に。まだ傾城になる前だったと思います。その節はお世話になりました」

 いつも利用している店ではなかったため、気まずい気分になりつつ、信は会釈した。
 すると、店主は目を細めた。

「いやはや、昔とはまるで別人だ。化けたねえ。遣り手の人を見る目は確かなようだ。だけど最初に来たときから僕にはわかっていたよ。いずれこうなるだろうとね。光るものがあった……。長年こういう商売をやっていると、そういうのがわかるようになるんだよ」
「ありがとうございます」

 居心地の悪い思いをしながら、そういえばこの店主が苦手で店を替えたんだった、と思い出す。

「立花がお世話になっているようで」
「そうだねえ、ここ二、三カ月はよく顔を合わせてるね」
「あっ、言うなって」

 秋二が慌てたように言った。
 この店主にタメ口でいけるあたり、心臓に毛でも生えているのではなかろうか。

「ああ、すまんね。では、こちらへどうぞ」
「……私ですか?」

 自分を奥へと導こうとする店主と秋二を交互に見て説明を求めるも、ふたりは共犯者のように顔を見合わせ、にやっと笑って信を試着室に押し込めた。
 それから秋二が我が物顔で入ってきてシャッとカーテンを閉める。

「さ、羽織(うえ)脱いで」
「え、なに?」
「いいから」

 訳が分からぬまま羽織を脱がされ、帯を解かれる。
 後半の撮影が男物の着物を着ての撮影だったので、今着ているのは白いお召だった。
 だから友禅などより着付けが緩く、たちまち中の長着まで脱がされてしまう。
 秋二は、白襦袢一枚になった信に背を向け、カーテンから外に顔を出した。

「あれちょうだい」
「はいよ」

 秋二は店主から何か受け取ると、再び試着室の中に戻ってきた。
 その濃紺の着物は見覚えがあった。

「これは……」
「そう。あのときのやつ」
 
 それは、水揚げ前、秋二と出かけた日の帰りに、なにげなく目に止まった着物だった。
 店を通りがかったときに偶然ショーウィンドウに飾られているのを目にして、心惹かれたのを覚えている。
 男物だったので買ってもたいして使わないか、と結局買わなかったのだが、そのときの会話を覚えていたらしい。
 そのことに胸が熱くなり、信は思わず胸を手で押さえた。

「覚えてて、くれたの?」
「うん。どう? 気に入った?」
「だけど、こんな高価(たか)いもの……どうして……」

 秋二の真意を思い、期待してしまう。
 これは、まるで好きな人へのプレゼントではないか。
 もしかしなくても、可能性があるのか?
 ならば……。

「信さんにはいっつも世話になってるしさ、そのお礼だよ」
「そう……なの?」
「うん。おれが何かやらかすたびにケツ拭いてくれてるだろ? だから。ほんとはこんなんじゃ足りないんだろうけどさ」
「そう……」
「あれ、そんなに欲しくなかった? 先に聞きゃよかったかなー」

 信は首を振って着物を握りしめた。

「そんなことない。すごく嬉しいよ、ありがとう」
「そ? よかったあ。貯金した甲斐あったぜ」

 その、屈託のない、何の裏もない反応に、信は気落ちした。
 そうだ、他意があるわけがない。
 秋二はノンケで、このプレゼントがどんな意味を持つかさえ気付いていないのだ。
 これがどれだけ信を期待させるか、そんなことに考えが回らぬほどに、男に興味が……信に興味がないのだ。
 それを思うと、せっかくプレゼントをもらったのに落胆の方が大きい。
 お前は対象外だ、と言外に言われているようなものだからだ。
 水揚げで肌を合わせた後、秋二の態度は変わらなかった。
 その時に、自分の想いは葬ったはずだった。
 だがどこかで、まだ期待していたらしい。
 秋二に振り向いてほしい、と心のどこかで思っていた。
 だから、照れも裏もなく渡された贈り物に落胆した。
 そういうことだろう。
 だが、こういう想いは秋二にとっては迷惑だろう。
 もう断ち切らねばなるまい。

「大事に着させてもらうよ。どうもありがとう。でも、これからは気を遣わなくていいから」
「ああ。じゃ、帰ろうぜ」
「そうだね」

 信は頷き、そのままの格好で試着室を出た。
 そして、店主に代金を支払う秋二を見ながら、それでも、これは大事にしよう、と思った。
 どんなに哀しいプレゼントでも、好きな人からもらったものには違いない。
 失恋の傷がうずくので、しばらくは着れそうもないが、いつか、着られる日が来るだろう。
 その日まで、大事にとっておこう、と思った。