その日もいつものように起き出して食堂に行くと、秋二がいた。今朝は一人のようだ。
食堂の前で朝食を配っている禿から食事を受け取り、四人掛けのテーブルが並んだ食堂を見回してどこに座ろうか考えていると、バッと小さな手が上がった。
「信さん、こっちこっち」
呼んでいたのは窓際の席に座っていた秋二だった。
信は軽く手を挙げてテーブルまで歩いていき、秋二の向かいに腰掛けた。
「おはよう」
「おはよっ。信さん、こんな早いなんて珍しいね」
目を輝かせて話しかけてくる秋二に、自然口角が上がる。
「昨日は早く寝たからね」
「そうなんだ。あ、これやるよ。かぼちゃ好きだろ?」
秋二はそう言ってかぼちゃが入った器をよこした。
「いいの? お腹空かない?」
「大丈夫。お菓子あるし」
「でも、成長期なんだからちゃんと食べないと……あ、そうだ、じゃあ代わりにこれ食べて」
そして温泉卵をあげたが、秋二は戻してきた。
「信さんにはちゃんと食べてもらわないと」
「秋二だってそうだよ。君は燃費が良くないんだから……。そうだ、今度また厨房行くけど来る?」
店に入った頃、厨房に配属になった信はある日廃棄食品を有効活用する方法を思いつき、厨房の合鍵を作った。
以来、定期的に忍び込んでは腹を満たしていた。
客がついてからは空腹に苦しむこともなくなったが、自分達だけで食事ができる数少ない機会なので続けている。
遣り手は兵糧攻めで店員を働かせる方針のため、食事は生きていける最低限の量しか出なかった。
「行く~! いつ?」
「木曜日か金曜日の予定なんだけど、都合つく?」
「大丈夫ー。おれ、基本ヒマだから」
信は頷き、卵を再び秋二のお盆に置いた。
「わかった。それから、お菓子じゃなくちゃんとした食事をもう少し食べような」
「う、うん……。あ、あの、卵、ありがとう」
「どういたしまして。あ、章介」
そこで友人の姿を認めて信は片手を軽く上げた。
見た目に反して奥ゆかしいところのある相手は最初話し込んでいるようすのふたりを見て相席を遠慮しようとしていたようだったが、信に声をかけられてテーブルに近づいてきた。
「あ、章さん、おはようございます!」
「おはよう。朝から元気だな」
章介は信のとなりに腰を降ろすと、わずかに表情を緩めて秋二を見た。
秋二は、章介が笑顔を見せる数少ない相手のひとりだった。気に入っているのだろう。
「それだけが取り柄っすから! そーだ、もみじ狩りの日程、どうなりました?」
秋二は章介がしばらく前から計画していた裏山へのピクニックに言及した。
すると章介は言った。
「来週の木曜はどうだ?」
「今んとこだいじょうぶです。信さんは? 一緒に行くよね?」
エネルギー全開で目を輝かせながらそう聞いてきた相手を微笑ましく思いながら、信は首を振った。
「私はやめておこうかなぁ」
「えー何で?」
「先週行ったんだよねえ」
そのことばに、となりで焼き鮭をつついていた章介がこちらを向いた。
「猪飼さんと行ったとか……?」
猪飼というのは信の馴染み客だった。
初老の紳士で、わりに付き合いが長く、信の客の三段階評価、最悪・マシ・かなりマシ、で最高の「かなりマシ」に該当する客だ。
「うん。例年通り連れて行って頂いたよ。ちょうど見頃で綺麗だった」
信は行き先を教えなかった。
薄々感づいているだろうが、そこに行く機会が与えられないかもしれない友人を前にして日光で優雅に観光してきたなどと言えるはずもない。
「そうか……ならば仕方がないな。裏山で一局打つのも一興かと思ったのだが」
寂しそうな表情を隠そうともしない章介に、信は己の庇護欲がどうしようもなくくすぐられるのを感じて思わず言った。
「そういえば、前にもそんなことあったね」
「毎年行ってたじゃないか。信が忙しくなるまでは」
章介は後半ことばを濁したが、彼が本当に言わんとしていることを瞬時に悟った。
一樹がいなくなるまでは――章介はこう言いたかったのだ。
信は苦笑して折れた。
「わかったよ。行く」
「本当か?」
章介の喜びようがおかしくて、同時に眩しくて、信は相手の肩に手を置いた。
「うん。だけど荷物は持たないよ」
「心配するな。備品はこちらで持って行く」
「頼りにしてますー」
秋二のことばに、章介は愉快げに笑った。
「秋二には手伝ってもらうぞ」
「えー!?」
「こういうのは誘った側が責任を持つものだ」
「バーベキュー道具一式とか、無視っすからね……?」
「球児がそんな弱気なこと言っていいのか?」
「でもー、最近は練習もしてないしー……」
秋二は年端もいかない頃から球を追っていた野球少年だった。
もちろん玉東に沈められてからは野球をするなど望むべくもないが、それでも彼はどこかからグローブと球を調達してきて裏山でよく友人たちとキャッチボールに興じていた。
章介は弱腰の秋二に容赦なく追い打ちをかけた。
「練習ができていないならなおさら鍛えるべきだろう」
「ふわーい、わかりましたー」
章介を心の底から尊敬しているらしい秋二は、いつも通りたいして抵抗しなかった。そんなようすに章介は満足げにうなずき、食事を再開した。
信は、まるで師匠と弟子だな、とクスッと笑った。途端に二人の視線が自分の方を向く。
「いつもながら面白いなあと思って」
「面白い? そんな要素あったか?」
首をひねる章介に、秋二は首を振った。
「いつも通りっすよね?」
「信のツボは変だからな」
「ふーん」
秋二は納得したような、していないような微妙な表情をしたあと、思い立ったように口を開いた。
「あ、そういえば、ずっと聞きたかったんすけど」
「何だ?」
秋二が多少崩れているとはいえ、敬語らしきものを使う相手は章介ただひとりだった。
だからその問いが自分に向けられていないことに気付いた信は煮豆を箸でつまんで口に放り込んだ。
「これ信さんにいくら聞いてもラチが明かなかったんで章さんに聞きたかったんすけど……そのー……おふたりって、もしかして……」
「何だ?」
「色々と噂があるじゃないですか。そのー……」
口ごもる秋二に章介が首を傾げる。
色恋沙汰に疎い章介は、相手が言いたいことがわからないようだった。
そこで、信が代わって言ってやった。
「付き合ってるって噂だと思うよ」
「ああ、それか」
章介はどうでもよさそうに言った。
そしてそれ以上答えるそぶりがなかったので、代わりに信が口を開いた。
「そういう噂は確かにあるね」
「……それって、本当?」
「ううん」
信は、秋二の直球の質問に好感を持った。
そして同時に既視感を覚える。
このやり取りは、確か一年前にもしたことがある。
あれは、一樹の足抜け騒動のときだった。
当時、店の大半の人間は信と一樹の仲が険悪だと思っていた。
お職や客を取り合っていたからだろう。
実際にそういうことはなかったが、入ってきたばかりの秋二はそれで幻滅したらしかった。
だが、幻滅したままで終わらせないのが秋二だった。
彼は、その後直接、不仲の噂の真相を聞きに来たのだ。
本人に確認もせずに批判するのは間違っていると思うから、とまっすぐな目で言って。
その時と、今の状況はどこか似ていた。
「ふうん……。でもめっちゃ仲良いよな?」
「章介は恋愛対象が女性なんだよ。だからありえない」
「……でも、ノンケだって、クラッときちゃうこともあるわけじゃん? 特にこんな男ばっかの環境にいたらそれこそ……」
「それはわからないけど、相手は私ではないと思うよ。顔が好みじゃないらしい」
信はおよそ二年前に一緒の座敷に呼ばれたときに交わした会話を思い出しながら言った。
好みじゃないと面と向かって言われたあのときはまあまあ傷付いた。どんなに親しくてもああいうことは言うべきではないと思う。
「よく覚えているな……」
章介が呆れたように呟く。
信は続けて、そういうことだから、と言ったが、秋二は退かなかった。
「でも……初めはその気がなくたって、その、親しくするうちにってことも、あるんじゃないの?」
「ないよ」
「まあお似合いだけどさ。めっちゃ絵になるよなあ、二人」
なおも続けようとする秋二を、章介がここで遮った。
「もうこの話はいいだろ。それより、昼飯は何持ってく?」
「そうだなあ、『花木』の仕出し弁当にする? おにぎりつけてもらって。あっ、でも秋二は洋食の方がいいんだっけ?」
ちょうど話題がそれたので乗ると、秋二はちょっと不服そうな顔をした後に答えた。
「だいじょぶ。おれ自分で作ってくよ」
「何作るの?」
「ピーナッツジャムサンド。めちゃくちゃウマいよ」
即答した秋二に思わず聞き返してしまう。
「……それだけ?」
「あとコーラ」
ケロッと言った秋二に、章介が感心したように言う。
「本当に甘いもの好きだよな」
「いや、感心してる場合じゃないだろ。秋二、余計なお世話だと思うけど、それはおやつに食べるものだよ。だから、食事を持っていこう」
「ええ? ランチでいっつも食ってたけど。母ちゃんが持たせてくれてさ。実際一番美味いだろ」
米国の下町育ちの秋二の食生活は、何というか心配になる味覚をしていた。
三つ子の魂百までなのか、ファーストフードの店がほぼない玉東に来ても、味覚は変わっていない。
秋二は、いつもどこからかコーラやハンバーガーを調達して、さもおいしそうに頬張っていた。
和食党の信には理解できない感覚だ。けれど、おいしいのだろう。
「うん、おいしいと思うよ。あ、だったら、ほかにも色々サンドイッチ作っていかない? この前テレビでだし巻き卵サンドっていうの見たけど、すごくおいしそうだったよ。材料は私が集めるから」
だいたいの材料は厨房にあるだろう。板長とは仲が良いから、忍び込まずとも少し分けてもらえるだろう。
食パンを使ったメニューは少ないので、それだけが余りがあるか微妙だが、なければ『パラダイス』に入っているスーパーに買いに行けばいい。
とにかく、秋二には砂糖の塊以外のものを主食にする習慣をつけてほしかった。
若いころはよくても、そんな食生活を続けていたら早晩体を壊す。
「うわ、楽しそう。あ、おれも集めるの手伝うよ」
「ありがとう。チーズとかハムとか、もつものは早めに手に入れて、生鮮食品だけ当日もらいにいこう。だし巻き卵はその場で作ってもらえるか聞いてみるよ。あとカツサンドとかもいいよねえ」
「いいな。三吉で買ってくるか」
玉東にある三吉は揚げ物専門店だ。
「あ、章介もサンドイッチでいい?」
「ああ。たまにはいいかもな」
「そっか、じゃあピクニックで決まりだね。皆でサンドイッチ作って持っていこう。もちろん、秋二のジェリー・アンド・ピーナッツサンドも。作ってもらえる?」
信が聞くと、秋二は腕まくりした。
「おおー! めちゃくちゃ美味いの作ってやるよ」
「期待してるね。ああ、これで楽しみが増えたなあ」
「何だかんだ乗り気だな」
わずかに口角を上げて章介が言ったので、信は頷いた。
「こうやって計画立ててると楽しみになってくるんだよね。そういう性格かも」
「わかるわー。旅行とか、計画段階が一番楽しかったりするよな?」
秋二が同意する。ずいぶん年下なのに、感性が似ていることが多くて不思議だった。
「そうかもな。で、実際に行ったら……」
「あれってなる」
秋二は章介と顔を見合わせて笑った。
章介の普段ほぼ動かない表情筋がわずかに動いて、笑みらしきものを浮かべている。
本当に秋二が気に入っているらしい。
あるいは、一樹の面影を見ているか……。
章介はかつて、秋二は一樹に似ている、と言ったことがあった。
確かに、見たところ二人は似ている。
小柄な容姿も、明るい性格も、少し強引なところも。
だが、付き合いを深めるうち、信は、秋二と一樹は実はさほど似ていないのかもしれない、と思い始めた。
一樹の社交性と明るさは、一種の鎧だったと思っている。
彼は、自分を外敵から守る鎧を身に着け、その下の繊細な部分を見せないようにしていた。
それは、悪いことではない。人間だれしも、自分の弱いところを守りたいからだ。
だが、秋二の天真爛漫さは、そういった鎧ではなく、素なのではないか、と最近思い始めていた。
秋二は、自分を抑えることをあまりしない。
だから、悲しいときは泣くし、嫌な目にあったら怒るし、理不尽な扱いを受けたと思ったら徹底的に抗議する。
つまり、あまり我慢しない性格なのだ。
だから、店に来た当初は不当な契約に騙されたと怒って問題行動を起こしまくっていたし、当時担当だった津田には何度も泣きついたという。
このように、秋二は表面的には一樹に似ているが、芯の部分では信の方に似ていた。
信も見習いの頃から、嫌なことがあるたび担当傾城に泣きついていたのだ。
それゆえに、信は秋二のことをあまり心配していなかった。
ここでは、弱音を吐けるタイプの方が長持ちする。
信ほど大げさではないが、章介も意外と弱音を吐けるタイプである。
だからこそ、ここまで心身の健康を保てたといえる。
難しい状況にいるときは、自らの弱さをさらけ出せるのが、逆に強さとなるのだ。
秋二はどちらかといえばそちらのタイプだった。
信はそのように分析していたから、一樹と秋二がさほど似ているとは思っていなかったが、章介はどうやら秋二の中にかつての親友の面影を見出だしているようだった。
その上で、一樹との思い出を再現しようとしている。
失ってしまった友人の代わりにしようとしているように、信には見えた。
しかしそれでも、信には章介を責めることはできなかった。
彼が自分以上に一樹の不在に苦しむさまを見てきていたからだ。
彼が別れのことばも言えずに一樹と引き離されたことや、最後に相手にしてしまった仕打ちを、この一年間、もうずっと後悔しつづけているのを知っていたから、秋二の中に一樹の影を見るのをやめろと言うことなどできなかった。
そしてもう一樹の行く末を話すべきときだと思っていた。
章介には、一樹は無事だとしか告げていない。
だが、それでは不足だろう。
一樹が誰によって引き取られ、どこで何をしているのかを知りたいはずだ。
これまで直接的に聞かれたことはなかったが、遠回しには何度も聞かれていた。
だからもういい加減、答えるべきだろう。
それが、章介への信頼の証ともなる。
もっとも、信頼していなかったわけではない。
章介の口の堅さは折り紙付きだからだ。
彼の口から秘密が漏れることはないだろう。
ただ、遣り手から章介も共謀していたと思われたくなかったのだ。
万が一にでもそういうそぶりを見せたら、章介まで懲罰の対象になる可能性があったから、当時は言えなかった。
だが、すでにあれから半年が経過している。
もう今更、章介が遣り手からの尋問を受けることもないだろう。
信は真実を話すことを決め、窓の外の夏よりも低い太陽を見やった。