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 おれ、上重優の実家の裏山には昔から色々な逸話があった。幽霊が出るとか心霊系のそれではなく、いい方の不思議な話だ。

 山菜取りに行った地元の人が道に迷って遭難しそうになったときにふと道が見つかったとか、ハイキング客が遭難して雨に打たれ、凍死しそうになったときに不思議と雨が上がって気温も上がったとか、とにかく死んでもおかしくないような遭難事例――多くは本人の怠慢と不注意で引き起こされたような事故――がいくつもあるにもかかわらず、死者が出ない神の守護のもとにある山として、地元ではそれなりに有名な山だった。

 それで地元では当然のように山岳信仰が昔からあって、それほどど田舎でもないにもかかわらず、いまだに毎年必ず山神へ感謝をささげる祭りというものをやる地域だった。

 そんな場所で生まれた優も例にもれず、小さいころから親や祖父母に連れられてその山によく登っていた。

 標高一千メートル程度の里山ではあったが連山である上、それなりに道は入り組んでいて木々も生い茂り、土地勘のある人間でなければ容易に迷う地形ではあった。

 そこで優は物心がつくかつかないかの頃に一度だけ、本格的に迷ったことがあった。
 四歳か五歳くらいだったと思う。
 当時同居していた祖母が大好きだったきのこ類をどうしても摘みたくて、親にも友達にも言わずにひとりで入って帰れなくなってしまったのだ。

 そのときの恐怖は今でも如実に覚えている。歩いても歩いても知っている場所に出ない恐怖、日が暮れて辺りが真っ暗になってゆく恐ろしさ、周囲に人っ子一人いない心細さ――怖くて怖くて漏らしそうだったのを覚えている。

 どうしようもなくなって近くの木の根元に腰を下ろし、うつらうつらとしていたときのことだった、白く輝くその人が表れたのは。

 てっきり探しに来た親の懐中電灯の光だと思い込んだ優が見たのは、白い衣を身に着けた男だった。まだ若く、まるでアニメで見た天使みたいな顔をしていた。

 その人は音もなく近づいてくると、そばにしゃがみこんで、優しい声音で聞いた。

「寒くないか?」
「さむ……さむかったけど、何かおにいさん来たらさむくなくなった……」

 すると相手は微笑んで隣に腰を下ろした。

「そう。眠いかい?」
「うん……おにいさん、だあれ?」
「私かい? 私はここに住んでいる者だよ」

 相手の答えに、優は彼が山神であることを確信した。
 幼くて、まだ偏見とか思い込みとかから自由な優は最初から相手が人間でないことがわかっていた。

「へえ! かみさまなんだ! すごいね」
「すごくないよ。大丈夫、明日になったらおうちに帰れるからね」
「ホント……?」
「本当」

 その透き通った銀色の瞳で覗きこまれると、優は途端に安心した。相手が真実を言っていると思ったからだ。

 美しい青年の姿をした山神の懐に抱かれて、優はやがて眠りに落ちた。

 翌朝、山神は約束した通り麓への道を教えてくれた。それでその通りに下ってゆくとやがて視界が開け、優は無事家に帰ることができたのだった。

 ◇

 以来優は、山神に会いたくて裏山に日参するようになった。
 地元の人の中では誰ひとりとして優が見たような山神を見た者はいず、よからぬことを企んでいた人間だったのではないか、という話になり、一時は青年会が有志を募って消防団と共に山一帯を捜索する騒ぎとなったが、怪しげなものも人も出てこず、結局夢として片づけられた。

 親はそれでも心配して、単独行動を控えるよう厳命されたが、優はそれを破ってコッソリ一人で山へ行っていた。
 山で命を助けてくれたあの神は自分の見た夢などではない、と確信していたからだ。しかししばらくは彼は姿を見せず、会うことができなかった。

 やっと再会を果たしたのは、初めて会ってから半年後だった。
 懲りずに相手を探しに登っているときに、うっかり足を滑らせて谷底に転落しそうになったのだ。そのとき、優は襟首を誰かに掴まれ、引き戻された。

「まったく、何をやっているのだ、おぬしは。連日連夜、こんなところに来て」

 振り返ると、あの白皙の美青年があきれたような表情でこちらを見下ろしていた。

「あ、おにいさん!」
「一人では来ちゃダメだと言われただろう?」

 依然と同じようにしゃがみこんで顔を覗き込んでくる相手に、優は無邪気に言った。

「この間はありがとう! お礼を言いたくてずっとさがしてたんだ。どこにいたの?」
「ずっとここにいた。ただ姿を現さなかっただけだ。さあ、もう帰りなさい」
「なんだよー、かくれてたのかよー、いじわる」

 これまでの苦労を思ってちょっと拗ねてみせたが、本当に怒っていたわけではなかった。それよりも再会できた嬉しさの方が勝っていた記憶がある。

「さあ、お家に帰ろう。ご両親が心配しておる」
「だいじょうぶだよ、まだひるまだから。ねえ、おにいさんはどこにすんでるの? おうちはどこ?」
「ここだよ」
「そうじゃなくて、おうちだよ。山のどこにあるの?」
「家というのは特にないが、まあ東側の大木の洞なんかは好きだな」
「つれてってよ」

 困ったような表情でこちらを見る相手に優は迫った。

「おうち、つれてってー。おねがい」
「仕方ないな……おいで」

 相手は渋々といったようすで手を差し出した。そして優がその手につかまると、白い衣を翻して歩き始めた。

 十歩もいかないうちに景色は様変わりし、優はいつの間にか大木の前にいた。
 春のうららかな暖かさと柔らかな日差しが木々の葉ごしに降り注いでいる、とても居心地の良い空間だった。

 少し開けた場所を見下ろすようにして、その大木は立っていた。
 樹齢百年を超すであろうふとぶととした大木の優の目の高さあたりには山神が言った通り穴が開いていた。

「ここがおうち?」
「そうだ」

 青年はそう言って優の両脇に手を入れ、抱き上げて洞の中へと入れてくれた。内部の開放感に優は思わず声を上げた。

「わー、ひろーい!」

 洞は外から見えるよりも奥行があり、また天井が遥か彼方にあった。山神は優がひとしきりはしゃぐのをそばに座ってみていた。

 やがて少し落ち着いた優は白の薄衣を着た彼の膝の上に勢いよく乗った。

「わーい、わーい」
「っ……おぬしっ……」

 相手は驚いたような顔をして態勢を崩しかけたが両手を後ろについて持ち直し、優を見上げた。サラサラと額を流れ落ちてゆく銀髪が陽の光にキラキラ光った。

 優は特に深く考えずに、おにいさん、好き、と言って相手の頬にキスをした。相手は凝然とこちらを見て、それから呟くように言った。

「そうか……」
「うん、だいすき! ねーご本読んでよ」
「悪いが本はない。だが、お話はできる」

 身を起こした相手は優を膝の上に乗せ、太古の神々の話を始めた。
 柔らかな声音で紡がれる神話を聞いているうち、次第に眠くなった優は気づけば寝ていた。