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半月後、深夜ーー。


 暗闇の中で、黒い手が伸びてくる。いくつも、いくつも伸びてきてついに佑磨の体を捕らえる。

『ひっ……』

 喉の奥から漏れた悲鳴が佑磨を惨めにする。もがいて振り払おうとしても金縛りにあったように体が動かずどうにもならない。
 腐臭を放つ軟体動物じみた手の感触に総毛だった。

『う、あ、あ……』

 そのとき、顔のすぐ近くに人の気配がして、耳元で声がした。二度と聞きたくない声が。

『ほうら、ここ、濡れてきた』

 苦しくて、息ができない。吸っても吸っても苦しくて、もう……。
 体を這いまわっている手があざ笑うように絶対に好きな人以外に触られたくない場所を弄ぶ。そしてやがて凶器が佑磨をまっぷたつに引き裂いた。

『ああああああ!』

 もう嫌だ、もう嫌だ、殺してくれ、誰か私を……。
 なぜ私が、なぜ、私が………。

「はあっ、はあっ……!」

 佑磨はそこで目を覚ました。全身汗びっしょりで全力疾走したあとのように息が切れている。悪夢から解放されたのと同時に過去がフラッシュバックし、パニック発作に襲われた。

「はあ、はあ、はあ、はあ」

 過呼吸になって息ができない。頭が真っ白になって圧倒的な恐怖に襲われ、何も考えられなかった。
 佑磨はベッドに倒れこんでシーツを握りしめ、第一波が過ぎるのを待った。
 過換気症候群の影響で指先が痺れてきてもまだ起き上がれない。努めて息を吐きながら、ひたすら耐えた。

 三分か五分か、もう少し長かったかわからない。歯を食いしばってパニックの波をなんとかやり過ごすと、ちょっと落ち着いた隙にサイドボードから袋を取り出した。そして口元を覆い、再び横になった。

 そうやってしばらく息を吸ったり吐いたりしているとまたフラッシュバックがくる。好色な目で自分を見る上司の醜悪な顔、伸びてくる手とおぞましいその感触、君には期待しているよ、というざらついた声……。

「うっ……」

 そこで強烈な吐き気を催して、佑磨は勢いよく立ちあがり、トイレに駆け込んだ。

「ぐっ……オエッ……」

 佑磨は便座にかがみこんで嘔吐した。夕食はもう消化されているから胃液しか出てこない。
 何度かえずいて吐くと、若干落ち着いた。
 佑磨は荒い息をついてトイレの水を流すと、ふたを閉めて力なくその上につっぷした。そして目を閉じ、今日は眠れないな、と思った。

 こういう大きめの発作を起こしたあとはだいたい眠れない。薬でも飲めばマシなのだろうが、身体依存性のある向精神薬や抗うつ薬を使うことに抵抗があり、もうだいぶ前から服用をやめていた。
 とりあえず何かお腹に入れて痛み止めでも飲んでおくか、と何とか立ち上がり、体をひきずるようにして台所に向かうと、そこには先客がいた。

「あっ……」

 湯を沸かしていたのは信だった。振りむいた彼の顔を見て、佑磨は言葉を失った。彼が泣いていたからだ。
 佑磨の顔を見た信も同様に驚いた表情をしていた。たぶん相当ひどい顔をしていたのだろう。

「あ、あの、お茶でも飲みます? デカフェなので夜でも大丈夫ですよ」
「ああ……頂きます……湯呑み出しますね」
「すみません」

 2人は黙々とお茶の準備をした。そしてなんとなくリビングに一緒に向かい、ソファに腰かけた。するとテーブルに置かれた紙が目に入る。それは、便箋と封筒だった。
 気づかぬフリで黙っていたが、ハンカチで目元を拭った信は説明した。

「大事な人からもらったものなんです……ずっと前に」
「そうですか」
「何も言わずに遠くへ……外国へ行ってしまって……。たぶんもう戻ってこない」

 これまで信から色恋沙汰の話は聞いたことがなかった。佑磨もそういう個人的な話は好んでするタイプではない。だからそういう相手がいるのかすら知らなかった。

「どんな方なんですか?」

 どこまで踏み込むべきかと考えながら聞いてみると、信は夢見るような表情になって言った。

「明るくてまっすぐで……まるで太陽のような子ですよ。あそこで何度それに救われたか……」

 あそこ、つまり玉東で出会ったのだという。年下っぽいな、と思っていると、信は天を仰いで寂しげに言った。

「……しかし私のことなど忘れた方が彼にとってはいいのでしょうね……あそこでのことなど、きっと思い出したくもないだろうから」

「彼」……すると相手は男だったのか、と若干驚いていると、相手が説明した。

「佑磨さんにはお話ししてませんでしたっけ? 私はゲイなんですよ」
「ああ……」

 ゲイ――その言葉に一瞬嫌悪感が湧きあがりかける。佑磨をターゲットにした上司がまさにそれだった。妻子はあったがあくまで出世のための政略結婚だと恥ずかしげもなく言ったのだ。
 だから佑磨は本能的に同性愛嫌悪になっていた。それが和らいだのは森と出会ったからだ。

 しかしまだゲイに対する恐怖感と嫌悪感が完全になくなったわけではなかった。男に欲情するという感覚がまったくわからなかったからだ。
 しかし、この知性と教養をかねそなえた人格者もそうであるという。森は自分が偏見を持っていたことを認めざるをえなかった。

「大丈夫ですよ、取って食ったりしませんから」

 佑磨の微妙な表情を読み取ったのか、信が冗談めかしてそう言った。一瞬でもそういうことを考えてしまった自分が恥ずかしくて、佑磨は恐縮した。

「あ、すみません、そんなつもりは……」
「ま、好みは好みですけどね? 冗談ですよ。そんなにビビらないで」

 そう言っていたずらっぽく笑う信に、佑磨も自然に笑顔になった。

「すみません……」
「ううん、大丈夫。さ、アニマルプラネットでも観ません?」
「はあ……」

 佑磨自身あまり動物番組は観ないが、同居人が好んで観ているのは知っていた。
 玉東の中でも政界の大物御用達のクラブとして官僚にもよく知られていた白銀楼でトップだったことが信じられないくらい、目の前の人物はおっとりしていた。男なら誰しも持っているはずの競争心とか野心とかが微塵も感じられないのだ。
 動物番組や自然のドキュメンタリーを好んで観、文学をこよなく愛する人畜無害な美青年――佑磨にはそうとしか見えなかった。

 決して計算ができないわけではないだろうが、戦略的に事を運ぶことを好まない。そして欲も野心もない。
 政治家になるには明らかに不適な彼に可能性を見たのは、あの白銀楼で三年トップを張ったという経歴があるからだった。

「わー、可愛い」

 こういう仕草も全然あざとさがない。
 だが間違いなく、女相手なら母性本能を、男相手なら庇護欲をくすぐる反応だ。
 わかってやっているのだとしたら見事な演技力だと言うほかないが、佑磨相手にそんなことをする意味はない。素だろう。

 ごくノーマルな佑磨でも可愛いな、と思える仕草。
 さすがに信は男子校で育っただけあって変な意味でなく、男に可愛がられる術を知っていた。

「イシガキカエルウオ?」
「子供ですね。目くりくりで可愛い〜」

 画面の中では、海底の砂から顔を出した小さな魚がポカーンとした顔でカメラを見ていた。
 白い体に黒の斑点がぽつぽつ入った目の大きな魚だ。騒ぐほどではないが、確かに可愛く見えないこともない。

 テレビからは水に潜ったときに聞こえるゴポゴポいう音やダイバーの呼吸音が規則的に流れてくる。その音と美しい瑠璃色の海の映像が、縮こまっていた心臓をほぐしてゆく。
 なるほど、こういう番組も悪くないな、と思いながら観ているうち、佑磨はいつの間にか寝入っていた。