6-3

 目を覚ますと、ラザロは既に起き出して出発の準備をしていた。
 日は高く上り、掃き出し窓のレースカーテンごしに冬の昼の日差しが差し込んでいる。
 信が身を起こすと、床に座り込んで拳銃を磨いていたラザロが顔を上げた。

「おはよう」
「おはよう」

 昨日よりは顔色がいい。怪我も悪化はしていないようだ。
 こうして改めて明るいところで見ると、ラザロは驚くほど美しかった。
 西洋人の男にしては掘りが浅い面立ちは左右対称に整い、切れ長の甘い目元は見る者を幻惑する。
 女っぽくはないが、性別不詳の中性的な魅力のある顔だった。
 その美しい顔を眉にかかるくらいの前髪とすっきり短い襟足が縁取っている。
 ブロンドの髪は染めたらしく暗い茶色だが、その輝くばかりの美貌は全く損なわれていない。
 二次元から出てきたみたいな顔だな、と見とれていると、ラザロが勘違いして言う。

「腹減った? 適当に食うモン買ってきたけど」

 サイドテーブルを見ると、コンビニのおにぎりや弁当が並んでいた。買ってきてくれたらしい。

「ありがとう。顔洗ってくる」
「ああ……水道通ってないから洗面所のペットボトル水使って」
「うん。えっと……お手洗いってどうしてる?」
「庭」
「……」

 固まると、ラザロが相好を崩した。

「ははっ、冗談だよ。近くのコンビニで借りてる」
「あ、だよね」
「コンビニ行くんだったらこれ」

 ラザロは立ち上がってカーテンレールにかかっていた厚手のコート、グリーンのシャツ、白いカーディガン、そして黒のズボンを差し出した。

「服ないだろうと思って買っといた。サイズは適当だけど」
「ありがとう」

 信は浩二の家で来ていたパジャマのままだった。
 ありがたく受け取り、着てみるとピッタリだった。それを見てラザロが言う。

「俺とサイズ変わんねえんだなあ」
「あ、これラザロのサイズ?」
「うん」
「そうなんだ」

 他愛ない話をしながら顔を洗い、用を足しにコンビニに行く。ラザロは念のためと言ってついてきた。
 コンビニは廃屋から歩いて十分ほどの交差点にあった。
 他にも店が何軒かあり、人通りも多い場所だ。電車の音も聞こえてくるから駅が近いのだろう。
 予想外の出来事が起きたのはコンビニで用を足し、帰ったときだった。
 家の敷地に入ろうとしたところで何かに感づいたラザロに制止される。

「誰かいる」

 ラザロは小声で言い、腰に差していた拳銃を抜いた。見ると確かに草ぼうぼうの前庭の奥に誰かいる。
 ラザロは信にその場で待つように言うと、銃をこらしながら静かに門を開けて中に入った。
 玄関の前にいた人物が振り返る。
 ラザロは鋭い声で言った。

「手を挙げろ!」
「ご挨拶だなあ」

 のんびりした声には聞き覚えがあった。この声は確か……。

「お前、アルか?」
「ああ」
「今すぐ立ち去らないと撃つ」

 アルは確かロマーノ付きの護衛だったはずだ。
 ナポリにいた頃、屋敷で何度か見たことがある。ラザロ、というかマウリとは気安い仲だったようだったが、今は敵らしい。
 いったい向こうであの後何があったのかと考えながらアルを見る。
 アルは丸腰で両手を挙げていた。何か大事な話をしにきたふうに見える。

「ちょっと待ってくれよ。話があんだよ」
「三、二、一……」

 信は引き金に指をかけたラザロを思わず制止した。

「ラザロ、ちょっと待って! 殺さないで」
「でも……」
「襲うつもりならもっと大勢で来るだろ?」
「……わかった。そのまま話せ」

 するとアルは両手を挙げたまま言った。

「はぁ〜、命拾いしたよ。ありがとう。お前手ぇ早すぎなんだよ。ラザロだろ?」

 しかしラザロは答えず脅すように言った。

「さっさと本題に入らないと頭に穴あくぞ」
「はいはい。んじゃ単刀直入に言うな。お前を迎えに来た。バルドーニの正統な後継者として」
「……は?」

 さすがに予想外だったのかラザロが面食らう。
 アルは続けて言った。

「ドン・ネロはバルドーニ家の血を引いていない。かつてバルドーニを乗っ取った裏切り者の子孫だ」
「……?」
「バルドーニは血を重んじる一族。トップは代々直系男子と決まっている。だがネロの祖父、ドン・ファウストはドン・リカルドと血が繋がっていなかった。愛人の子でどうもその愛人がリカルドの子だと嘘をついたらしい。DNA鑑定なんかもない時代だからな、違うと思っても証明できず次男として育てたらしいが、ファウストがリカルドの血を引いていないことは公然の事実だった」
「で、そいつが何でドンに?」

 アルはとても銃口を向けられているとは思えぬ落ち着いた声音で続けた。

「その代で本来継承すべきだったのはドン・リカルドの長男、フランチェスコーーつまりお前の曾祖父だった。だがファウストはリカルドの存命中にフランチェスコとその弟アンドレア、そしてその部下を暗殺し、唯一の後継者となってファミリーを乗っ取ったんだよ。今のファミリーの歴史ではフランチェスコとアンドレアが組織を裏切ったことになってる。だが真実はその真逆だ」
「けど、ドン・ファウストがドン・リカルドの実子じゃなかったなんて証明できねーじゃん。普通に隔世遺伝とかだったんじゃねえの?」
「リカルドの愛人が晩年告白してるしそのことを書いた日記も残ってる。それに……昔の写真を見れば一目瞭然だぜ。リカルドとファウストは顔が全く違うからな。あとドンは代々金髪碧眼が多い。お前のように。だがファウストも、その子孫のネロも茶髪茶目ーーその片鱗すらない。あいつらは、バルドーニじゃないんだよ」

 ラザロはあっけにとられたようにアルを凝視していた。
 アルは我が意を得たりと続ける。

「フランチェスコが襲撃されたとき、当時子供だったお前の祖父、ジュゼッペは幸運にも生き残った。まだあまりに幼かったためにファウストの部下が見逃したんじゃないかって言われてる。ジュゼッペはフランチェスコの部下や、後から合流したアンドレアの部下の生き残りと共にローマに身を潜め、ファミリー再興のために尽力した。だがその代では叶わなかった。その意志をジュゼッペの子でお前の父、リコが継いだ。そしてもう一息というところまできた。だが……ネロ達の襲撃に遭って帰らぬ人となった。お前が二歳の時だ。その直前、襲撃を予期してかお前を養子に出してな」

 そこでアルは痛みをこらえるような顔をした。

「内部に裏切り者がいることを疑ってか、お前の両親は養子先を誰にも言わなかった。俺を除いてな。俺はお前の父の部下で、友人だった。……いい友人だった。だからお前を託された。俺は養父母の家の近くに住んでずっとお前を見守っていた」
「……俺があいつを殺した日もいたか?」

 ラザロは抑えた声で聞いた。初耳のその話に思わずラザロを見る。
 ラザロは無表情だった。すべての感情が欠落した、空虚な表情。

「いたら止めている。あれは……不幸な事故だった」
「……」
「ファミリーの用事で行くのが遅れたんだ。そして着いた時、お前は既にいなかった。少年野球のコーチを殺して、どこかへ消えてしまった。それでファミリーからは相当責められたよ。当然だ……俺のせいだからな。一番いるべきときにいなかった。それを申し訳なく思う」
「……」
「その後どんなに探しても見つからず、お前は死亡扱いになった。俺はその後、偽バルドーニ家、つまり今のバルドーニ家だな、そこに密偵として入るよう命じられた。まあ、要はお前を守れなかった罰だな。死ににいくようなものだ。だが整形したのがよかったのか、幸運にもバレずにしばらく内部情報をファミリーに流していた。そしてある日、ロマーノの屋敷でお前の父親によく似た子を見つけたんだよ。おそらくお前が十四か十五のときだ。不思議なことにその頃お前は後継者候補の一人になろうとしていた」
「……とても信じられる話じゃねえな。何でそのとき迎えに来なかった?」

 ラザロの問いにアルは嘆息した。

「内部に置いた方がいいだろうという話になった。当時はまだお前の叔父のダヴィデも生きていたしな」
「つまりベイトってことか」
「……まあ、ありていに言えばな。それにファミリーには裏切り者も紛れ込んでいて危険だった」
「はっ、偽バルドーニの方が安全ってか?」
「お前にはドンの長男ルカの庇護があった。気に入られてたろ?」
「てめえの目は節穴か? アイツに虐げられてたんだよ、俺は」
「それはお前が色々問題起こしたからだろ。ドンのお気に入りのペット殺したりさ」
「あのフェレットはウザかった」

 するとアルが呆れたように言った。

「お前わかってるか? ルカはお前をずっと庇ってたんだぞ。仕置きしたのは他のやつにボコされないようにするためだ。ルカじゃなかったらあの程度じゃ済まなかったってことばかりだったぞ。今回の件だってそうだろ? お前ルカがいなかったらとっくに死んでるぞ」
「……」
「まあつまりだな、あそこはどこよりも安全だったってことだ。事実、ダヴィデも裏切り者に殺されたしな」
「……それで?」
「バルドーニ家の血を引く者はもうお前しか残っていない。俺と一緒にローマに来い。そこで真のファミリーが待っている。偽バルドーニ家襲撃の準備はほとんど整っているんだ。だからそれを指揮してほしい」

 しかしラザロは首を振った。

「嫌だね。要は叔父が死んだから俺を使おうって肚だろ? お前らに何かしてやる義理はない。俺があの家でどんな扱いを受けたか……知っているはずだ。知っていて放置した。そんな奴ら信用できねえ。バルドーニも、偽バルドーニもどうでもいいんだよ。勝手に内輪揉めしとけ。俺は信と行く。誰だか知らねえがてめえの上司にはそう伝えろ。わかったらさっさと失せろ」
「だがバルドーニファミリーの再興はお前の父の、祖父の悲願だったんだぞ? それを無碍にするのか?」
「顔も知らねえ奴なんて知ったこっちゃない。俺に親はいねえ」

 すると、アルは少し沈黙したのちに言った。

「お前は、バルドーニの家紋を見たことがあるか?」
「あるけど……それが何だよ?」

 バルドーニ家の家紋は、盾の中に羽根を広げた鷲と剣が描かれた文様だった。

「なぜその指輪がないと思う? ドンが着けるべき指輪が」
「はあ? 何の話だよ?」
「それは、ここにあるからだ」

 そう言ってアルは懐から紋章が彫り込まれた指輪を取り出した。
 遠くて良く見えないがかなり年代物のように見える。
 ラザロが銃を構え直す。

「てめえ、また動いたら撃つぞ」

 それを意に介さずアルが話し続ける。

「これは、代々バルドーニ家に伝わる家宝だ。ドンだけが着けることを許される。それをなぜネロが持っていないか? 正統ではないからだ。お前の曾祖父・フランチェスコはドン・リカルドから正統な後継者と認められて後を継ぐ前から指輪を渡されていた。リカルドも病気だったからな。何があってもいいようにとの配慮だったんだろう。フランチェスコは指輪を大事にしていて、殺された日、たまたま知り合いの職人に手入れに出していた。で、その職人は、代々ファミリーと付き合いのある家系で、ファウストのことを後継者として認めていなかった。だから事件を知って指輪をある一本の木の下に埋めた。そして『例の場所に隠した』というメモだけを残して雲隠れしたんだよ。で、例の場所ってのはお前のフランチェスコとその妻ソフィアが出会った湖のほとりの一本の木の下で、それはごく数人の側近と家族しか知らなかった。それで我々は指輪を取り戻したというわけだ」
「……で、それが俺と何の関係がある?」

 渋い顔のラザロに、アルは苛立ったように言った。

「ここまで聞いても何も思わないのか? この指輪をはめられるのはもうお前しかいないんだぞ」
「どうでもいい」
「信、頼むから言ってやってくれよ」

 アルはそこで矛先を信に向けた。
 二人の目が自分に向く。いきなり話を振られ、信は口ごもった。

「えーと、なんていうか……」
「ラザロ、というかマウリが来なけりゃうちは終わりなんだよ。お家断絶だ。だから何とか説得してもらえねえかな? お前のいうことなら聞きそうだし」
「……好きなようにしたらいいと思う」
「ちょっ、信っ!」
「これまで散々苦労したんだから。でも……マウリの意見も聞いてから決めたら?」

 するとラザロが鼻で笑う。

「アイツは出てこねえよ。こういう大変な時はな。布団かぶって震えてるよ」
「私は、ラザロにもマウリにも幸せになってほしい。ただそれだけだよ」
「……わかった。出てきたら聞いてみてくれ。ただしいつ出てくるかはわかんねえからそれまで待て。計画は予定通り決行する」

 するとアルが言う。

「二人でどっか行くんだろ? 俺も同行させてくれ」
「はあ? 駄目に決まってんだろ。連絡先だけ置いてけ。決まったら連絡する」
「俺そんな信用ねえのかぁ。ずっと世話してきたのになぁ」
「世話したのはマウリだろ。俺は世話されてねえ」

 アルは肩をすくめた。

「まあ、わかった。じゃあこれ、と……これも」

 そう言って電話番号を書きつけた紙片と指輪とを差し出す。
 ラザロが紙だけを受け取ろうとすると、アルは指輪まで押し付けた。

「いらねえよ」
「どうせお前しか持つ者がいないんだ。持っとけ」
「……」
「じゃ、連絡待ってるな」

 アルは手を振って緊張感なく門から出ていった。
 まもなく車のエンジン音が聞こえ、去っていく音がする。
 残された二人は顔を見合わせ、沈黙した。
 先に口を開いたのはラザロだった。

「戻るか」
「うん」

 そうして二人は廃屋に戻ったのだった。