6-4

 部屋に戻ると、ラザロは荷物をまとめ始めた。

「さっさとここから出るぞ」
「うん……」
「アルの奴、どうやってここを……? 罠かもしれない、早く出ないと」

 信はラザロを手伝って部屋の中を片付け、荷物を持って廃屋から出た。
 ラザロは旅行鞄を持とうとしたが、それをおしとどめて信が持った。満身創痍の怪我人に重い荷物など持たせられない。
 ラザロは白いシャツに紺のジャケットというビジネスマン風の格好で、変装のためか眼鏡をかけている。
 信はさきほど貰った服の上にコートを羽織った格好だ。
 その出で立ちで二人は廃屋の裏手の空き地に置いた車のそばへ行った。
 信が乗り込もうとすると、ラザロが制して地面にかがみこみ、車体の底をチェックする。
 爆発物がないか見ているようだ。
 こういう光景は映画でしか見たことがなかったので、少し意表をつかれた。
 ラザロはごく自然に車をチェックした。つまりそういう世界で生きてきたということだろう。
 信が生きてきた世界とはまったく違う夜の世界だ。

 やがてチェックが終わったらしいラザロは信に合図して車に乗り込んだ。今回はラザロが運転席だ。
 信は紺の旅行鞄を後部座席に置くと、助手席に乗った。
 シートベルトを着けるやいなや車が発進する。
 イタリアの車道は右側通行で左側通行には慣れていないはずだが、ラザロの運転は手慣れていた。
 きっと世界各地を回る仕事柄、日本のような左側通行の国にも行ったことがあるのだろう。
 車は、大通りに出て少し進み、首都高に乗った。そしてスピードを上げ、成田空港へ向かって走り出す。
 その間、ラザロは無言だった。
 重苦しい沈黙が車内を支配する。信が気詰まりになって口を開こうとしたそのとき、ラザロが言った。

「バタバタしちゃってごめんな。飯食う暇もなかったろ。後ろの鞄に入れといたから食ったら?」
「ああ、ありがと。じゃあ頂こうかな。ラザロは食べたの?」
「ああ」
「日本の食事って口に合う?」
「美味いよ。日本食って寿司しか食ったことなかったけどなんでも美味いな。コンビニに置いてあるもの全部美味い。パスタも」
「パスタ食べたんだ」
「うん。美味かった。あーいうパスタは地元じゃ店入んなきゃ食えねえけどさ、簡単に手に入る。便利だな日本って。公共トイレにトイレットペーパーもあるし、皆住みたがるわけがわかる」
「ふふっ、なかったら終わってたね」

 すると、ラザロは幾分か表情を和らげた。

「だな」

 そこで信は先ほどから気になっていたことを聞いた。

「ラザロ……小さい頃に何があったの?」
「それは言いたくない」
「そっか……」

 そしてまた重い沈黙。信はさっきラザロが言った言葉が引っかかっていた。

『俺があいつを殺した日もいたか?』

 ラザロはアルにそう聞いた。
 アルの話しぶりからして、ラザロはその時十歳前後の子供だったはずだ。
 その歳でコーチを殺したというのはいったいどういうことだろうか?
 ラザロが殺し屋だというのは知っている。だがそれはあくまでも組織で訓練され、不可抗力的にそうなったのだと思っていた。
 だがその前に殺人を犯していたとしたら……?
 子供の時分から人殺しを楽しんでいたとしたら……?
 その事実は看過できない。
 信は突然、隣の男が恐ろしくなって息を呑んだ。
 それを察したかのようにラザロが言う。

「俺が怖いか?」
「……ちょっとだけ」
「じゃあ約束する。お前のことは絶対に傷つけないと」
「……」

 そう言われても心に響かない。もはや、この男が何者なのかわからなくなっていた。
 そうして二人は気まずい空気のまま空港に到着したのだった。


 成田空港はいつもながら混雑していた。
 信とラザロは人混みを抜けてチェックインをし手荷物を預けるとセキュリティチェックと税関審査へと進んだ。
 信のパスポートはいつの間にか用意されていて、すべての検査を問題なくパスした。本物を畠山邸で探している様子はなかったから偽造だろう。
 偽造パスポートを使って出国するのは初めてだったのでさすがに緊張したが、全部問題なく通過した。
 そして窓の外に滑走路が見える搭乗口に到着する。ここで信は葛藤した。
 飛行機に乗ればおそらく戻っては来られない。
 ラザロと生きていくことになるだろう。
 だがそれでいいのだろうか?

 ラザロの職業は理解しているつもりだった。そして彼に穂波を殺し章介を救出するよう依頼した時点で、自分も同じ側に落ちたのだと自覚していた。
 だからラザロの想いを受け止められたのだ。
 正直もし殺しの依頼をしていなかったら、付き合うことすら考えられない相手だった。
 だがそのあたりは折り合いをつけて今まで付き合ってきた。
 ラザロの孤独に寄り添いたいと思ってきた。

 しかし、もしラザロが生粋の殺人狂だったら? 
 十歳にして殺人の快楽を覚えた犯罪者だったら?
 一緒になりたいと思えるだろうか?
 その答えは否だった。そんな理解不能な相手と付き合うことなどできない。
 だから、飛行機に乗るかどうかは分岐点だった。
 もっとも、拒否すれば殺される可能性もある。ラザロは人を殺すことに全く抵抗がないからだ。
 だがそうなったらそのときはそのときだ、と思う。
 幼少期の事件の詳細を聞かずしてついていくことはできない。そうはっきり言おう。
 信はそう決断して、横でコーヒーを飲んでいるラザロに話しかけた。

「ラザロ、話したいことがあるんだけど」
「なに?」

 するとラザロがカップから口を離してこちらを見る。

「あのね……私はクリスチャンなんだ」
「へえ」
「そんなに厳格なものじゃないんだけど、前にいた学校がそっち系のところで。だから、道徳を大事にしてる」
「それは見ててわかるよ」

 信は頷いて続けた。

「だけど……君に章介の救出依頼をしたとき、私は罪を犯した。穂波さんを殺させたから。その時に一線を超えてしまったんだ。それで私も『そちら側』にいったと思ってる」
「うん」
「だから君の想いも受け入れられた。もし章介のことがなければ……拒否していたと思う」
「……それで?」

 湖のような瞳がこちらをじっと見る。
 信は緊張で乾いた唇を舐めて言った。

「ラザロを受け入れたのは、君がやむを得ずそういう仕事をしていると思ったからだ。でも、違うの?」
「何が言いたい?」
「人を殺すのが……好きなの?」

 すると、ラザロは鼻で笑って信の椅子の背もたれに腕をかけた。

「コーチのこと?」
「うん……。子供だったんだろ? その時何があったの?」
「話したくないって言った」
「なら行かない」
「は?」
「話してくれないんなら行けない。もうラザロがわからないよ……」

 信の言葉にラザロは天を仰ぎ、ため息をついた。
 そして長い沈黙ののちに低い声で話し始めた。

「俺が野球を始めたのは六歳のときだ。野球が好きだったし、将来は野球選手になりたかったからグレコって奴がコーチをやってる近所の少年野球チームに入った。普通に楽しかったよ。それまでは父親とキャッチボールしたりバット振ったりしてるだけだったけど、チームで野球ができたからすごく楽しかった。友達も沢山できて、練習がある日は必ず行ってたよ。だけどある日行ったらグレコの他に誰もいなかった。たまたま皆遅刻したんだと思う。もしくは俺だけ別の集合時間を言われていたか。どっちかはわからない。だけどとにかく行ったら二人きりだった。いつも練習に使ってる小さな市民球場で、保護者は誰もいなかった。行ったときコーチはグラウンドにいなくて、事務室で何か書類仕事をしてた。俺が来てびっくりしたみたいな顔だった。演技だったかもしれないけどな。で、りんごとか剥いてくれて、皆が来るまで色々話してた。ちょっと前にやった練習試合の話とか色々。だけど……途中から様子がおかしくなった。フォームをみてやるって言われて素振りしてたら触られて……拒否したら力づくでレイプされた」
「っ……!」

 ラザロの言葉がにわかには信じがたく、凝視してしまう。ラザロはまた無表情になっていたが、嘘を言っているようには見えなかった。

「事が終わった後、机の上に置きっぱなしだった果物ナイフが目に入った。だからそれを取ってそいつの足を刺した。動脈いってたんだろうな、すごい血だったよ。そいつはそのまま失血死した。で、俺はそのまま家出して今に至る。そういう事情だから人殺しは楽しんでない。一回目はな。……これでいいか?」
「……なんでそんなこと……子供に……」
「そういう趣味の変態だったんだろ。何かそういう奴に目つけられがちだったんだよなあ……。この顔で得したことなんて一回もねえわ。まあ、信に好きになってもらったことを除いて、だけど」

 ラザロはそう言って顔を傾け、信にキスをした。
 それを受け入れながらラザロの衝撃的な過去に思いを馳せる。
 大人が十そこそこの子供にそんなことをする世界線が信じられない。
 もちろん、そういった類の人間がいることは知っている。
 だが身近な人から直接そういう体験を聞いたのは初めてだった。
 言いたくないのも当然だ。だが、言わせてしまった。
 信はキスを終えるとラザロの髪を撫でた。

「話してくれてありがとう。一緒に行くよ」
「よかった」

 そのタイミングで搭乗案内が始まる。
 二人は立ち上がってゲートへ向かい、メルボルン行きの飛行機へと乗り込んだのだった。