1-8

「森さんから、政界を目指されていると聞きました」

 ある日の夕食の席で、不意に佑磨が「ゲーム」のことを切りだした。
 いつくるかと身構えていた信は、ついにきたかと思いながら曖昧に笑った。

「ええ、まあ……」
「気乗りしないですか」
「まあ正直あまり……」
「まあ、生き馬の目を抜くような世界ですからね」

 向かい側に座った佑磨は頷いておひたしを食べた。

「できるかどうかはわからないですけとも……でも、そういう約束で引き取ってもらったので」

 店からの落籍の条件は、森の言う「政界成り上がりゲーム」に参加することだった。

「できるかできないかでいったら、できると私は思いますよ」
「そうですかね。脛に傷持つ身ですし」
「それはどうにでもなります」

 そこで佑磨がやけにきっぱり言ったので、信は思わず口を閉じた。

「情報はいくらでも操作できる。過去を隠すことなど造作もない」
「でも、そういう器でもないというか……努力はしますけど」
「あなたは玉東でトップを獲った人だ。やろうと思えばできますよ。問題は、やるか、やらないかです。たぶんいずれ古賀先生の事務所に入ることになるでしょう。お知り合いですよね?」
「はい」

 古賀は玉東時代の客で、お知り合いどころか寝た仲だが、それを言う必要はない。
 まあこの千里眼の元官僚には全部バレているだろうが。

「そこであなたは大きな後ろ盾を得る。それをどう使うかはあなた次第です。側仕えで経験を積んだ後にどうするか……何か考えていますか?」
「………」
「まず、秘書を目指す気はありますか?」
「ええと……そうですね、そういう可能性も視野に入れてというか……」
「でしたら、お手伝いできると思います」
「はあ……」
「ご存じかわかりませんが、私は以前そういう世界にいました。だから、ノウハウなどを、一応は知っているんですよ。もしよければ、お手伝いします」
「それは……助かります」
「まあゆっくりやっていきましょうね」

 佑磨は随分やる気のようだ。もう覚悟を決めるしかないのかもしれない。
 何となく追い詰められた気分で、信は食事を再開した。


三日後ーー。


「ほう。それで、説得成功かね?」

 酒をちびちびやりながら、向かいに座った老獪な政治家がそう尋ねる。
 都内の料亭の一室で正座し、相手と向かいあった佑磨は、いえ、と控えめに否定した。

「まだ完全には。本人はあまり気乗りしないようです。ただ、森さんとの取り決めでやるにはやるそうです」
「ああ、あの件ね」
「ご存じで?」

 そう聞くと古賀は頷いた。

「あの子が白銀楼にいたのは知ってるかな?」
「ええ。森さんから聞きました」
「どんな店かも?」
「はい」

 玉東に軒を連ねる店の多くが性的サービスを提供していることは知っていた。
 白銀楼ではないが、官僚時代に接待で使ったこともある。
 あそこは煌びやかに見えて汚い場所だ。

「あそこで何やったと思う? ストやったんだよ、集団スト」
「それはまた……」

 とてもそういうことをするタイプには見えないから意外だった。

「そんなことするようには見えないだろう? だがするんだよあの子は。思想は内側に持っているし意志も強い。そしてそれを隠す術も心得ている。一見して無害に見せる術をね。だからこっち側の人間だと思うわけ。あの子は大成するよ」
「なるほど……それでお気に召したわけですね」
「ああ。あの子は聡明だ。そして精神も強い。政治家向きだよ」

 古賀は信に相当の期待を寄せているようだった。
 これなら後継者に指名される可能性すらある。
 古賀の意見に佑磨も同意した。

「私も同意見です。明晰で思慮深く、弁もたつ上見場も良い。そして政界にも通じている。過去さえ消せれば問題ないと思います」
「そうだなあ。あの子に弱みを握られてる奴なんてごまんといるんだろうなあ。まあ、私もその一人だが」

 古賀はそう言って磊落に笑った。人が好感を持つようなあけっぴろげな笑い方だった。
 彼は、佑磨が出会った中で最も腹の底が読めない政治家の一人だった。

「だからこそ、彼は飛車になりますよ」
「どうかな。僕としては小早川にならないか心配だけど。……いや、正確には、小早川に『しないか』心配だけど、君が」
「そのようなことはございません。私の目的はお伝えしたはず……それ以外に他意ございません」

 きっぱり宣言したが、もちろん古賀は簡単には信じなかった。

「どうかねえ……そもそも君、何で省庁辞めたんだっけ。それ聞いてなかったな」
「体を壊しまして」

 嘘をつく利はひとつもない。しかし精神を病んだことはぎりぎりまで隠しておきたくて、佑磨はそう答えた。
 すると古賀は顎を撫で、霞ヶ関はブラックだからなあ、と言った。

「一番の出世株だったのに、もったいない。君が出世してくれなかったから投資がパアじゃないか」
「すみません」
「いやいや、冗談だよ。もう体はいいの?」
「……正直なところ、万全ではありません。しかし業務に支障が出るほどではないかと」
「一時期ずいぶん痩せてたもんなあ。心配してたんだよ。でも君は……死んでもあそこを辞めないだろうと思ってたけどね」

 鋭い瞳で射られて、佑磨は真実を話すことにした。

「私も、そう思っていました。骨を埋める覚悟で入りました。……ですが、思った以上に弱い人間だったんです。嫌がらせに耐えられなかった……上司の、セクハラです」

 その言葉に、古賀が目を見開いた。

「女?」
「男性です。それで精神的に追い詰められて……死のうと。そのときに森さんに出会って……救って頂きました」
「まあ君、政治家連中の中でもなんというか、ヘンな意味で人気だったからなあ」

 古賀は佑磨の言い分を否定しなかった。自意識過剰だと嗤うこともなく、お前も相応の利益を得ていたんじゃないのか、とか言うこともなかった。
 それで佑磨は救われたような気持ちになった。

「この世界、多いんだよ。まあ僕も人のこと言えた義理じゃないけどね。そうか、それは辛かったなあ」
「ッ………」

 返事をしようとしたのに、言葉にならなかった。そして、この四年一滴も出なかった涙が出そうになった。
 佑磨は慌てて気を取り直し、姿勢を正した。
 そして、信が古賀を好いている理由がなんとなくだがわかったかもしれない、と思う。
 信の人を見る目は確からしい、と佑磨は心の中でメモした。

「まあ相手も自信がなかったんだね。自信があれば正攻法でくるだろうから。無粋な男もいたものだ。俺が一番嫌いなタイプだよ」
「……私も、悪いんです。出世のことを一度も考えなかったわけじゃないですから……」
「仕事で釣ってとか、そういうのが一番野暮だよ。まあ、そうか、事情はわかった。なんかちょっと色々勘繰っちゃったけどね、そういうことならあの子のこと任せられそうだ。まあ気長に待ってるから」
「はい」

 なぜか古賀の信頼を取り付けられたという達成感よりも、奇妙な安心感というか、温かい気持ちの方が優っていた。

「多分、弱者救済とか、大義名分で煽るとやる気になるんじゃないかな。とても情が深い子だからね」
「わかりました。やってみます」

 世の中にはこんな人間もいるのだ、と思いながら、佑磨は信をやる気にさせる戦略を考え始めたのだった。