6-8

 マウリが入室したのを見て、六人はほぼ同時に立ち上がった。
 左から順に痩せた色白の中年男、眼鏡の老人、背が高くブロンドの壮年の女、でっぷり太った赤ら顔の壮年の男、生気のない馬面の中年男、そしてこの中では一番若いまだ二十代と思しき茶髪の男だ。
 彼らはそれぞれ、シモーネ・アガッツィ、ニコロ・ボルガッティ、カミラ・バルドーニ、フィリッポ・ロッシ、アレッシオ・ブルーノ、エマヌエーレ・フェラーリと名乗った。
 奥に座っていた二人、カミラとロッシが顧問(コンシリエーレ)、ボルガッティがアンダーボス、そしてアガッツィとブルーノとフェラーリが幹部(カポ)という立場らしい。
 信はマウリの後に名乗ってからさりげなく唯一の女性、カミラを観察した。
 バルドーニと名乗ったということはマウリの血縁だろうか、と思いながら見ていると、その目が青いことに気づく。
 マウリと顔はあまり似ていないが、髪と目の色は同じだった。そして全体的な雰囲気も似ている。
 カミラは堂々とした立ち居振る舞いでこちらへやってくると、マウリに片手を差し出した、

「ファミリーへようこそ、ドン・マウリ。私はあなたの父・リコの姉です。つまりあなたの叔母ということね。不在の間、ドンの名代をしていました。会えて嬉しいわ、本当にお父さんにそっくりね。ファミリーは皆あなたを歓迎します。これからよろしく」

 差し出された手を、マウリは微妙な表情で握った。

「ああ、よろしく」
「ではそこにどうぞ。ドンの席です」

 そう言ってカミラは奥の席を示した。マウリはそこを一瞥して言う。

「席が一つしかない」
「そうですが……」
「信の席も用意しろ。ここにいる間、彼は常に俺と行動する」
「でも部外者でしょう。奥に部屋を用意させているからそちらで……」

 そう反論したブルーノに、マウリはぴしゃりと言った。

「部外者じゃない。婚約者だ」

 その言葉に思わずマウリを見てしまう。驚いているのは他の面々も同じなようだった。
 あからさまに眉をしかめたロッシが言う。

「婚約者というのはどういうことだ? 男にしか見えないが、実は女とか?」
「男だ」
「男とは結婚できない」
「できる。法改正されただろ」
「無理だ」

 それに引き続いてボルガッティやアガッツィも口を開く。

「ボスの婚約者が男というのはマズい。体面がある」
「そうだ、後継ぎの問題もあるでしょう」
「世の中がどれだけ『進歩』したかは知らないが、ファミリーは保守的だ。男との結婚は認められん」

 口々に二人の婚約に反対するファミリーの首脳たちに、そもそも婚約なんてしてません、と言うべきか否か考えていると、マウリが良く通る声で言った。

「だったら、この話はなかったということで。信、行くぞ」

 そして信の腕を取り、踵を返して部屋から出ようとする。
 それに慌てたように後ろから声がかかった。

「ちょっと待ってくれ、どういうことだ?」

 するとマウリは振り返って宣言した。

「俺は、信以外とは結婚しない。それが認められないならお前らには協力しない」

 そしてジャケットの内ポケットから指輪を取り出し、床に放った。
 それに幹部たちが声を上げる。

「何するんですか!」
「何するんだ!」
「たいした演技力だな、こんなただの指輪に。どうせ俺を騙すために適当な指輪見繕ってきたんだろ?」

 すると、ブルーノがドン、と机を叩いた。

「偽物ではない! それはバルドーニ家に代々伝わる由緒正しき指輪だ!」
「その証拠がどこにある?」
「それを今から説明するといってるんだ! とりあえず座ってくれ!」

 だがマウリは動かなかった。

「納得のいく説明が聞けて、信の席が用意されたら座る」
「まったく……父親と顔は似ているのに性格は正反対だな……」

 ロッシは額の汗をハンカチで拭きながらどっかりと椅子に腰かけた。
 フェラーリが床に跪き、ハンカチを取り出して落ちた指輪を拾い、そっとテーブルの上に置く。
 立ち上がっていた三人は再び席に着き、突っ立っているマウリを見上げた。
 最初に口を開いたのは、これまで黙っていたカミラだった。

「あなたを呼んだのは私です。あなたが向こうのバルドーニ家を出たと聞いて、時機が来たと思い呼びました。あなたはファミリー唯一の後継者――リコの息子。あなたが来るのをもうずっと待っていました。我々と共に戦い、裏切り者からファミリーを取り戻す手助けをしてほしい。我々は、あなたに忠誠を誓います」
「はっ、忠誠? よく言うよ、この爺さんたちは俺に対する敬意の欠片もない。お飾りにして利用したいだけなのがミエミエだ。それに、お前らが真のバルドーニファミリーであるという証拠は?」

 マウリが聞くと、ロッシがそばに控えていた黒服の男に合図をし、その男が持っていたファイルと小箱をマウリに手渡した。

「そこに全部ある。送ったデータの原本だ。お前の両親の遺品もな」

 ロッシの言葉に、マウリはファイルを開いて中身をざっと確認する。
 信にも見せてくれたが、そこにはアルから証拠として送られてきた新聞記事のコピーやファウストの母の手記、マウリの父が妻に宛てて送ったポストカード、そして幼少期のマウリと両親が写った写真などがぎっしり入っていた。
 マウリはそのうち写真だけをファイルから出してじっと見つめる。
 それは、幸せな家族写真だった。
 どこかの公園だろうか。広がる芝生を背景に、ブロンドの美男美女カップルと天使のような子供が幸せそうに笑っている。ピクニックに来ているのか、チェック模様のシートの上にはバスケットとサンドイッチが置いてあった。
 父親のリコはやはり金髪碧眼の美男子で、フランチェスコほどではないがマウリに似ていた。
 その横で口の端に食べかすを付けたマウリを抱っこして幸せそうに微笑む母親もブロンドの美人だった。目元がマウリによく似ている。
 まだ歩き始めたばかりといった感じの小さなマウリは、ニコニコと無邪気に笑っていた。
 これはもう疑いようがない。マウリの両親はこの二人だ。
 そしてこの写真を撮ってそう長い時間が経たぬうちに二人は帰らぬ人になったのだ。
 これほど哀しい写真もなかった。

 目頭が熱くなって、信はそっと目元を拭った。
 マウリは泣いていなかったが、何とも言えない表情をしていた。さすがにもう信じざるを得ないということだろう。
 ずっとアルを疑っていたようだが、その疑いはもう晴れただろう。
 マウリは写真を戻し、ファイルを机に置くと、小箱を開けた。
 中には一対のプラチナリングが入っており、それらは男性のサイズの指輪と、それより一回り小さい指輪――結婚指輪だった。
 その太い方の指輪の内側には『リコへ 永遠の愛をこめて マリアより』と、細い方には『マリアへ 永遠の愛をこめて リコより』と彫ってあった。
 マウリはその指輪をつまんで光にかざして見た。
 そして小声で信に聞く。

「どう思う?」
「マウリ、あの人たちがご両親だよ」
「……」
「間違いない。この人たちは、その部分に関しては嘘を言ってないと思う。それにあの肖像画……」

 そう言って入室したときから気になっていた壁の絵画に目を移す。
 つられてマウリも目を上げた。その視線の先には、部屋の壁の三面に等間隔でかけられたいくつもの肖像画があった。
 そのうち、右手前から三番目にある絵に描かれた男がマウリにそっくりだった。
 柔らかそうな金髪に秀でた額、スカイブルーのはっきりした目、通った鼻筋、そして上品な薄い唇。
 繊細な美貌のその男はおそらく、マウリの曾祖父・フランチェスコに違いない。
 ここに飾られているのは歴代ドンの肖像画なのだ。
 アルが言った通り、ドンは金髪碧眼の男が多かった。そういう家系なのだろう。

「あれ、フランチェスコさんじゃない?」
「それっぽいな。さすがに受け入れるしかないか」
「本当の家はこっちなのかも」
「ああ。だけど……」

 マウリはそう言って円卓に並ぶ幹部たちを見た。

「帰る価値のない実家かも。あいつら好き勝手やってるぜ」
「ていうかさっきの、何だったの? 婚約者とか……。そんなふうに言うからモメたんじゃあ……?」
「嫌だった?」
「嫌っていうか……何でって思った」
「ああ、そばにいる口実だよ。守るって言っただろ?」
「あっ、そっか……」

 少し拍子抜けしていると、マウリは付け足した。

「でも、好きな人に心にもないことを言ったりしない。ま、プレ・プロポーズみたいなもんかな」
「えっ……」
「ラザロが好きなのは知ってる。だけど、俺も諦めないから」
「うん。まあ、その話はあとでしようよ。今はこれからどうするか考えないと」
「そうだな」
「嘘はついてなさそうだし、大丈夫そうだからとりあえず私は外に出ておくよ」
「でも……」
「大丈夫、ここでの会議に参加したら逆に危なそうだし。知っちゃいけないことも知っちゃって」
「……まあ、それもそうか。おい! アルはいるか?」

 マウリが振り返って聞くと、カミラが言った。

「何か用でも?」
「信を部屋から出してもいいが、アルが護衛につくことが条件だ」
「なるほど。モレッティ、コンティを呼んできなさい」

 コンティはアルの姓だ。
 カミラの指示で壁際に控えていた部下の一人が部屋から出てアルを連れてくる。
 アルは、誰かに殴られたのか目の上が腫れていた。
 アルはマウリを認めると飄々と言った。

「よお坊ちゃん。やっと来たか」
「信の護衛をしろ。トイレまでついてけよ。もし信に何かあったら……わかってるな?」
「トイレまで? 見ていいのか? って、おっと! あぶねえじゃねえか!」

 マウリはまたナイフを投げていた。ナイフはアルの頭頂部スレスレをかすって扉に突き刺さる。

「指一本でも触れたら殺す」
「わ、わーった、わーったよ! ったく、手癖悪いのは相変わらずだな坊ちゃん。信、行こうぜ」
「はい。じゃあまたあとで」

 信はアルを睨みつけているマウリの腕をポンと叩くと、アルについて部屋を出た。
 その途端、力が抜けてへたりこみそうになってしまう。
 それをアルが腕を取って支えてくれた。

「おっとっと、大丈夫か、お嬢ちゃん」
「すみません」
「これあいつには内緒な。触ったってバレたら殺される」
「ええ、それはもちろん……」

 信はなんとか立ち上がってアルに続いてエレベーターに乗り込んだ。
 外観からはアパートメントのように見えたが、内部は大きな屋敷のようにつながっているらしい。
 エレベーターが三階に到着すると、アルは降りて廊下の少し先のゲストルームへ信を案内した。

「とりあえずここで待ってろ」
「いいお部屋ですね」

 ゲストルームはアンティーク調のこじゃれた部屋だった。
 リビング・ダイニングは広々として、風景画や花瓶の絵が飾ってある。
 奥にはバルコニーもついているようだった。
 そして寝室には天蓋付きの華やかなベッドがひとつ。
 大の大人三人寝られそうなくらい大きいベッドだ。
 そしてバス、トイレ、シャワー、冷蔵庫、そしてミニキッチンまでがついた、まるでホテルのような部屋だった。
 部屋から出なくても生活できるようになっている。来客用の部屋なのだろう。
 いい部屋だなあ、と思いながら見て回っていると、戸口付近で立っているアルが言った。

「ちょっと言っておきたいことがあってだな、忠告というかなんというか」
「何ですか?」

 すると、アルは頭をかいた。

「信は今後、マウリのパートナーとして周知される。だから、そう大きな危険はないはずだ。ドンとして適格なのがもうあいつしかいねえからな。俺は昔からカミラの下で働いてたから確実に言えるけど、ボスは長年子供に恵まれず、もう五十を過ぎている。この先子供に恵まれることはないだろうと思うし、隠し子も俺の知る限りではいない。だからもうバルドーニの直系の男はマウリしか残っていないんだ。マウリの父親も、その兄弟も死んじまったからな。で、こっちのファミリーも血族主義で性差別主義だから代々ドンは直系男子って決まってる。つまりマウリしかその資格がある奴がいねぇんだよ。そのパートナーに手ぇ出したらどうなるかぐらいは下っ端のアホでもわかる。だから基本的にお嬢ちゃんは安全だ」
「はい」
「けど、ロッシにだけは気を付けた方がいい。ロッシってわかるか? ボスの隣に座ってたデブのおっさん」
「ああ……」
「アイツは要注意だ。あのおっさんは最後までマウリを呼ぶことに賛成してなかった。野心家で、ボスを操ってファミリーの実権を握ろうとしていた。ファミリーと血縁関係がないとはいえ、ボスの姉ヴィオラの元旦那だからな」
「お姉さんがいらっしゃるんですか?」

 そう聞くと、アルは頷いた。

「正確にはいた、だな。ずいぶん前に病気で亡くなったよ。聡明でカリスマ性があってビジネスのこともわかってて正直資質でいえば一番ドンに適格だったが、いかんせん体が弱くてね。若い頃に難病になってそれからはずっとベッドにいるような生活だった。ずっと欲しがっていたが子供にも恵まれなくてね。辛い人生だったと思うよ。リコは……マウリの父親はいつも見舞いに行っていた。仲が良くてな」

 アルは昔を懐かしむように遠くを見た。

「仲が良いというか溺愛だな、あれは。末っ子だからか、リコはヴィオラにもボスにも可愛がられてた。だからリコが死んだときは酷い悲しみようだったよ。ボスの励ましで何とか立ち直ったようだが、それから十年たたずに亡くなった。まだ四十代だった」
「そうだったんですか……」
「その後ダヴィデも逝っちまってな。これは最近のことだが、組織の内通者にやられた。ネロと通じていたらしい。そいつは処理したが当時は大騒ぎだったよ。唯一の後継者と思われてたからな。けど、マウリがいたわけだ。勇み足でナポリの偽バルドーニに報復に行こうとした奴らを止めたのはボスだった。まだ時期尚早だとな。そしてマウリの存在を明かした。最初は皆半信半疑で陰謀だの騒いでたけどさっきマウリに渡した証拠……アレを突きつけたら黙ったよ」
「そうだったんですか」

 アルは遠くを見るような目になって頭の後ろで手を組んだ。

「だからボスはさぁ、よくやってると思うんだよ。大事な姉弟三人を亡くして、ドンの名代の重責まで背負ってさ。マウリが生きていると知って一番喜んだのがボスだったからな。内心はすぐにでも呼び戻したかっただろうと思う。ただ色々危険もあってそうもいかなかった。内通者がいたし、ロッシも不穏だったからな。だから本意ではなくてもナポリに置いておくのが一番安全だった。連中はマウリの正体に気付きもしなかったし、ルカに気に入られていたからな。だからそこに関しては信からもそれとなくマウリに言っといてくれねぇかな? ファミリーは……少なくともボスはマウリを見捨てたわけじゃなかったってこと」
「……わかりました」

 信は頷いた。

「うん、ボスとマウリにはうまくいってほしいからさ。じゃねえとロッシに乗っ取られる」
「ロッシさんに?」
「ああ。アイツは油断ならねえ。ロッシはヴィオラが亡くなった後しばらくしてビアンカと再婚して元の姓に戻った。だからもうバルドーニでもねえロッシが幅を利かせてるってのも変な話なんだが、立ち回りがうまいのかいまだにファミリーの中枢にいる。そしてあわよくばボスを傀儡にして自分が実権を握ろうとしている。ボスはそれに感づいてマウリを呼び戻したわけだ。ファミリーを乗っ取られないように」
「そうだったんですね」

 信はナポリでルカとアウグストが火花を散らしていたのを思い出した。こちらでも似たようなものなのだろう。

「ロッシは手段を選ばず目的を達成する。だからお前にとって最も危険だ。気をつけるんだぞ」
「わかりました」
「お前はマウリの唯一の弱みだからな……」
「弱み……」
「さっきのナイフ騒動でバレたはずだよ、お前がマウリにとって一番大事だということが。だからお前を利用しようとする者が出てこないとも限らない。あるいは、危害を加えようとする者が。お前に九龍の後ろ盾はもうない。できるだけ俺も注意するが、自分でも注意してくれ。一人にならず、人から貰ったものに口をつけないように。わかったか?」
「わかりました。あの……顔、大丈夫ですか?」

 ずっと気になっていた顔の怪我のことを聞くと、アルはなんでもなさそうに言った。

「ああこれ? 平気平気。チンピラの喧嘩に巻き込まれただけ。信も気をつけてな、この辺治安悪いから」
「ああ、そうなんですね。お大事に」
「それから、マウリの病気のことはボスとその側近しか知らない。誰にも言わないでくれ」
「はい」

 素直に頷くと、アルは満足げに頷き返した。

「マウリもこれぐらい素直だといいんだがなぁ。まあともあれ、そんな感じだ。また何かあったら言うかもしんねえけど。何か質問は?」
「ないです」
「オッケー。腹減ってるか?」
「少し」
「じゃあ軽食でも作って貰ってくるよ。うちシェフがいるんだ。一階のさっきの部屋の左側が厨房と食堂になっててさ」
「へえ、すごい」
「会食の時なんかはそこで出る。あと昼間外出たくない時とかな。二人は落ち着いたらマウリの屋敷の方に移動になると思うけど、会議が長引いたら泊まるかもしれねえって話だったから料理長にはそう言っといた。だから夕食の心配はしなくていい。それにしても……お前らいつの間に婚約したんだ? 俺を呼びに来た奴が信のこと婚約者とか言ってたけど」
「えーっと、つい最近……」

 するとアルはしたり顔で頷いた。

「看病してもらってるうちに愛が芽生えたんだろうなぁ。お似合いだと思うよ、俺はね」
「あ、ありがとうございます」
「けど、他の奴らはどう思うかわかんねえ。奴ら価値観中世だからな。失礼なこと言ってくる奴もいるかも。けどまあ、気にすんな。堂々としてりゃそのうち受け入れられるよ」
「わかりました。あの……色々、ありがとうございます。その、今回のことも、それからずっとマウリを見守ってくれたことも」
「そんな大層なことしてねえよ。毎度失敗だ」
「でも……説得に来たのがアルさんじゃなかったら多分こちらに来なかったと思います。なんだかんだ言うけど信頼してるんだと思います」

 すると、アルは嬉しそうな顔をした。

「そうかねえ? 何も信じてなさそうだったけど。でもそう言ってくれて嬉しいよ。これからもマウリのこと、よろしくな」
「はい」
「あともう敬語じゃなくていいから。これ前にも言わなかったかなぁ?」
「でも年上ですし……」
「気にしなくていいよ。ここでもさ、敬語使わない方がいいよ。ナメられる」
「わかりまし……わかった。なるべくそうする」
「あとイタリア語もちょっとくらいは話せる方がいいかもなぁ。ほら、食事の時とか幹部の嫁さんに嫌味言われた時に言い返すようにさ」

 そう言ってケラケラ笑うアルに思わずこちらも笑ってしまう。
 ナポリにいたときはあまり意識していなかったが、アルは気さくで良い人だった。
 イタリアに来るときに多少日常会話を勉強したので、英語ほどではないにせよ、イタリア語も喋れる。
 それを伝えるために、信はイタリア語で言った。

「少しは喋れるよ」
「えっ、マジ? じゃあこれわかる? マウリとラザロの調教師として今後もよろしく。しっかり手綱引いといてくれ」
「フフッ、それはアルさんの方がうまいんじゃない? 私は全然だよ」

 そう返すと、アルは大仰に肩をすくめ、掌を上に向けるしぐさをした。

「めっちゃ喋れるじゃねえか! 何で隠してたんだよ」
「いや、皆英語で喋ってくれるから……。それに英語よりは喋れないよ」
「いや、これだけ喋れれば十分だよ。じゃ、これからはイタリア語でってことで。こっちで暮らすんなら慣れた方がいいだろうし」
「わかった」
「わかんない言葉とかあったらいつでも遠慮なく聞いてな?」
「うん、ありがと」 

 信はその後、よく使う日常会話を教えてもらいながら楽しく夜までを過ごしたのだった。