ラザロはそれからひと月半の間、けがの治療に専念した。
全治三か月とは言われたが、そんなに悠長に構えている暇はない。
結局人格を統合する治療は中止にならなかった。
ただし開始が送らされ、ひと月半後に始めることになった。
ラザロは治療が開始される直前に病院を脱出することにした。
なぜなら、その治療はラザロを消す治療だからだ。
ラザロが消えれば、シンを助けに行く者はいなくなる。
マウリは精神を病んでシンを諦めたし、サムエーレはそもそもシンと会ってすらいない。
もしシンがハタケヤマと共謀しておらず、単に計画がバレただけだった場合、命の危険すらあるだろう。
なぜならハタケヤマは生粋のサディストで、マフィアで、その上相当にシンに執着している。だから裏切り行為がバレた場合、殺されることすらありうる。
その際にハタケヤマのような趣味を持った者は簡単には殺さず、嬲り殺しにするだろう。
シンは今も苦しんでいるかもしれない。だから助けに行く。そして愛を確かめたい。
ラザロは日本に着き次第ハタケヤマの自宅を突き止め、シンが閉じ込められている場合には殴り込みをかけて救出する予定だった。
もしシンの心がラザロになかったら……そのときのことはまだ考えていない。
だがその時はその時だ。今はそんなことを考えている場合ではない。
一刻も早くこの病室から出る段取りを考えるべきだ。
ラザロが入院したのはナポリ中心部にある、バルドーニファミリーが経営する総合病院の最上階の個室だった。
窓ははめ殺しで、出入り口には常時ルカの部下三、四人が警備員として配備されている。
さらには室内には監視カメラが設置され、ラザロの動向が二十四時間監視されていた。
この監獄の中で、ラザロはひと月半かけて周到に脱出の準備をした。
それに際してまずやったことは、ラザロの警備についている男達の歓心を買っていた看護師を口説くことである。
元来ラザロは遊び人であり、こういったことには手慣れていた。
シンと出会ってからはそんな気も失せたが、それ以前は手あたり次第という感じで女も男も抱いていた。
ラザロの中性的な外見は、ノンケの男、特に男らしさを最上とするファミリーではよく思われないが、ゲイと女受けは抜群である。
かつてはそれを利用して散々遊んできた。
男も女も両方いけるがどちらかといえば男の方が好みである。
だが、言い寄られるのは女の方が多かったので、割合としては女の方が多かった。
だから担当看護師の女を落とすことなど造作もなかった。
幼いの顔立ちの、どちらかといえば男を寄せ付けない雰囲気の女だったが、怪我の処置はいつも丁寧だった。
それに毎回礼を言い、好感度を上げたところで世間話から次第に個人的な話へと持っていった。
ラザロの統計上、ほとんどの女が好むのは自分の話をよく聞き、共感し、敬い、褒める男である。
だからそのように接すると女は次第に心を開いていった。
そして看護師になった経緯や仕事に誇りを持って向き合っていることなどを話すようになった。
ラザロはその話に共感してみせ、適当に身の上話をそれらしく作って話した。
すると、女はいたく感じ入ったようだった。
そしてラザロの予想通り、そういった話をした直後から態度があからさまに変わり始めた。
化粧をし、香水を付けてくるようになり、期待に満ちた目でラザロを見るようになった。
機は熟したと判断したラザロはそのタイミングでキスをし、愛を告白した。
女は待ち構えていたようにそれを受け入れ、よりかいがいしくラザロの世話を焼くようになった。
そのようにしてラザロは自分の意のままに動く外部とのパイプを手に入れたのだった。
作戦の第一段階が完了すると、ラザロは次のステップに移った。脱出の下準備である。
ラザロは、すでに真剣だったその女に、ファミリーのドンに政略結婚しろと言われている、だがお前と一緒になりたいから駆け落ちしよう、と言って脱出の下準備をさせた。
逃亡資金と口座、偽造パスポート、そして武器を用意させ決行日を迎えた。
そしてその日、女は病室の出入り口の見張りに眠剤入りの飲み物を差し入れて眠らせた。
ラザロはそのタイミングで監視カメラの配線を切った。
そして目立たない紺のジャケット姿に着替え、金髪を隠す帽子を被り、度なしの黒縁眼鏡をかけてエレベーターで一階まで降り、堂々と正面玄関から病院を出た。
その看護師も変装していたから、その間二人は誰にも気づかれなかった。
そうしてラザロと女は病院前に呼んでいたタクシーに乗り込み、一路空港へと向かった。
女は目を輝かせて今後のことなどをぺらぺらと喋っていたが、それが最後の会話になるとは知る由もなかっただろう。
その直後に寄ったコンビニ裏の林でラザロは女を、用意させた消音器付きの銃で撃ち殺した。そうして遺体を土の中に埋めた。
女は笑ったまま死んでいた。死んだことにすら気づいていないかもしれない。
そしてタクシーに戻り、女とは別れたと言ってそのまま一人で空港へ向かった。
そうしてこのことはシンに黙っておこう、と思う。シンは一般人に近い感覚を持っているからだ。
おそらくは、人を殺したこともないだろう。
シンはラザロとは別世界で生きている人間だった。九龍というマフィアにいるはずなのに、まったく血の臭いがしないのだ。だからこれを知られたら幻滅されるだろう。
手段を選ばず計画を遂行することは、ラザロの世界では当たり前のことである。
利用できるものは何でも利用し、不要になったら捨てる。少しでもリスクがあれば口封じのために殺す。
これはファミリーでは当たり前のことだ。
だがシンはそれを理解できないだろう。日本という平和な国で穏やかに暮らしてきたであろう彼に、その感覚は理解されない。だから協力者を殺したことは絶対に言わないでおこう、と思った。
ラザロはそんなことを考えながら最寄りの空港の建物に入り、まずトイレに向かって個室で髪をダークブラウンに染めた。
そうして武器を捨て、トイレを出て搭乗手続きをして荷物を預ける。
時刻は二十時半。搭乗予定の日本の航空会社の旅客機は二十一時十分発の最終便だった。
セキュリティチェックと税関の審査を済ませてガラス張りの窓の向こうに滑走路が見える搭乗口前の椅子に座る。
そしてライトアップされた滑走路を離発着する旅客機を眺めながらアナウンスを待った。
その時間は永遠にも思えた。今にもルカに背後から襟首をつかまれ、またあの檻の中にぶち込まれるのではないかと思う。
そうなったら終わりだ。
『治療』が始まれば、おそらく自我が保てなくなる。そうしてラザロは、もしかしたらマウリとサムエーレも消失するだろう。
あとに残った空っぽの器をファミリーはどうするだろうか。
ばらされて臓器でも売られるか、もしくは生かされて傀儡として利用されるか、あるいは変態金持ちに売られるか……。いずれにせよ愉快な未来ではない。
ラザロの人生がどうなるかはまさに今決まるのだ。
もし無事に出国できればまだ未来はある。だが捕まったら人生はここで終わりだ。シンとも二度と会えないだろう。
ラザロは拳を握りしめ、ひたすら待った。
爪が掌に食い込み、くっきり痕がついたころ、ロビーに搭乗アナウンスが鳴り響いた。
『皆様、こちらは定刻二十一時十分発、全日空・東京行き715便の優先搭乗案内でございます。ただ今から、小さなお子様をお連れのお客様や特別なお手伝いを必要とされるお客様の搭乗を開始いたします』
それはまさに救いの声だった。ラザロは顔を上げて搭乗ゲートを見た。
子供連れの客や車椅子の客が並び、搭乗し始める。その半数以上がシンを思い起こさせるような黒髪黒目のアジア人だった。
徐々に前に進む列を祈るような気持ちで見ていると、間もなく再びアナウンスが入った。
『皆様、大変お待たせいたしました。二十一時十分発、全日空・東京行き715便はただいまより一般のお客様の搭乗手続きを開始いたします。当便をご利用になるお客様は80番ゲートへお越しください。繰り返し、お知らせいたします……』
それを聞いた瞬間に立ち上がっていた。ラザロはチケットを表示したスマホを握りしめて搭乗ゲートへと向かう。
ギプスを自分で外し、テーピングだけした腕も、完治していない肋骨も鎖骨も、上半身のみみずばれになった裂傷も痛む。その上久しぶりに長距離歩いたせいで息も切れている。
病室に軟禁というか監禁されていたせいで心肺機能が低下し、足の筋力も弱っているのだ。
だがここまできた。あと一歩、あと少し……。
縋るような思いで搭乗手続きをし、ゲートを通って飛行機への通路を進む。
頼む、うまくいってくれとそれだけを願いながら飛行機に乗り込み、出発の時を待つ。
間もなく乗客全員が搭乗し、飛行機が動き出した。
旅客機の少なくなった空港を滑走路に向かって徐行してゆく。
そうしてついに滑走路の端に着いた。まもなくエンジン音が高くなり、機内アナウンスと共に飛行機が離陸を開始する。
エンジンは唸り声をあげながら巨大な鉄の塊を前に押し出し、やがて機体は宙に浮いた。
その瞬間に、勝った、と思う。
ラザロは賭けに勝った。一度失敗してもめげず、周到に用意してバルドーニの檻から抜け出すことに成功した。
誰の手も借りずにただ一人の力で。
「フン、ざまあみろ」
八歳でロマーノに引き取られてからおよそ十五年。ラザロはバルドーニの呪いから抜け出せずにいた。
虐げられ、利用され、汚れ仕事をやらされて、それでも他に行くところがないからそこにいるしかなかった。
だがラザロはシンと出会った。何と引き換えでもない本物の愛をくれる人と。
ふとシンの言葉が頭に蘇る。
『条件付きの愛は愛ではないよ』
ロマーノやルカとの関係に悩むマウリにシンはそう言った。まったくその通りである。
ロマーノはファミリーの後継者候補として、ルカは愛玩具としてしかラザロ達を愛していない。
それは本物の愛ではない。そのことをシンはわかっていた。
だから信用した。
そんなことを言う人間が人を騙して利用するようなことをするとは思えなかったからだ。
単にラザロがナイーブで騙されただけかもしれない。惚れた弱みでシンを客観的に見られなくなっているのかもしれない。
だが信じたい。シンを、そのカンジの意味の通り信じたい。
そしてハタケヤマから助けたい。
なぜなら、もしシンがハタケヤマと共謀していなければ今頃酷い目に遭っているに違いないからだ。
その可能性が一パーセントでもあるなら自分はシンの元へ行く。
たとえ死ぬリスクがあっても。
これが愛というやつなのだろう、と思う。
命を懸けても守りたいと思う相手。
今までそんな相手はいなかった。現れるとも思っていなかった。
だが運命は二人を出会わせた。
これから先何が起きてもこの決断を後悔することはない。シンに裏切られても、命を落とすことになっても、後悔はしないだろう。
ラザロは遠ざかってゆく街の明かりを見ながらそうやって遠い異国の地にいる男に思いを馳せるのだった――。